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旅日記

望洋−9(様々な入隊(続き2))

5.様々な入隊(続き2)

5.3.中田徹

中田徹は岡山県玉野市の出身である。

中田は、満州鉄道に勤めていたが、「特別幹部候補生」の募集を知って応募し、入隊試験を受けて入隊した。

入隊後は、海上挺進戦隊の第ニ戦隊に編入されている。

 

南満州鉄道株式会(満鉄)

かつて、中田徹の父親は満鉄に勤めており、一家で満州に住んでいた。

しかし、中田が小学校四年のとき当時満鉄社員であった父親が難病で急死したため、母子で岡山に引き上げていた。

中田は、父が勤めていた満鉄への親しみ、幼い頃過ごした悠久の大地の満州への思い出もあった。

中田は旧制岡山工業学校機械科を昭和17年(1942年)12月に繰り上げで卒業すると、昭和18年南満州鉄道株式会(満鉄)に入社した。

中田は北満のチチハル鉄道局管内の白城子公務区機械係に配属された。

同係に同期入社した仙台工業卒の坂本、苫小牧工業卒の柳生らがいて、中田は彼らと直ぐに仲良しになった。

お互い仕事のことや時局について論争し、また会社の行事にも積極的に参加し、身体の鍛錬も怠りなかった。

昭和18年秋、陸軍が新たに特別幹部候補生制度を設け、短期間に下士官の養成を行うとの発表が北満の満州日々新聞に報道された。

中田は、以前当時の海軍が工業学校機械科卒業者を対象とした海軍飛行整備予備練習生の応募をしたことがあったが、それに間に合わず、悔しい思いをしていた。

中田は、祖国の危機を前に一刻も早く一身を捧げたいとの思いを押さえきれずにいたところであった。

中田は、直ちに関東軍の教育部から願書を取り寄せ応募する決心をした。 

飛行兵に志願したかったが左耳に慢性中耳炎の疾患があるので、船舶兵なら合格できるだろうと思ったのである。

親権者の承諾印が必要のため早速郷里の岡山に住む母親宛に、「特幹に志願したい」旨の手紙を書き速達で出したところ、折返し反対する旨の返事が来た。 

その大要は、

「母はあなたのお父さんに死に別れ、どんな思いであなたを育てたのか判っているのか。 徴兵で征くのは男の務めとしてあきらめるが、志願してまで征くなんて、死に急ぎをしないで、母はこの手紙を涙ながらに認めています。絶対反対します。」

であった。

ペン書きの手紙の字が涙でにじんでいた。

中田は、父が死んで、35歳で未亡人となった母が、五人の子どもの養育に並大抵でない苦労をしていることを知っているだけに、 母の反対は辛かった。

しかし中田の決意は固かった。

中田は、田舎の祖父母あてに、母の手紙を同封し、さらに右手小指の先を剃刀で切り、白紙に「尽忠報国」と血書した紙を添えて、決心を訴えた。 

折返し祖父より

「お前の決心はよくわかった。 中吉家の名誉である。お母さんはわしが説得するから安心して御国のために尽くしなさ い。」

との速達が届いた。

 

船舶兵特別幹部生への応募

中田は意を強くし、早速母の三文判を作り、職場の区長など上司の了解を得て職場の女性に母の名を代筆してもらい、締切日に間に合うよう願書を提出した。

昭和19年2月、チチハル陸軍病院で採用試験があり、志願者は50名くらいだった。

先ず身体検査は乙種合格、学科試験を受けた。

学科試験は簡単で、余裕をもって書き上げた。

自信もあった。

 

3月に入り関東軍教育部長名により

「船舶兵特別幹部候補生に採用する。 昭和十九年四月十日香川県豊浜村暁二九四〇部隊於保部隊に入隊すべし。 おって詳細については通知する。 ・・・」

との長文電報を受け取った。

さらに三月末に軍からの電報で

「昭和十九年四月九日午後20時、岡山県宇野港波止場に身の回り品持参の上集合 すべし・・・」

との命令を受けた。

職場の区長・助役などの上司に報告すると、盛大な送別会をしてもらった。

白肌襦袢に千人分の枠を入れ、一人一人に”力”と墨書してもらった千人力襦袢を貰い、休職扱いとなって4月日郷里岡山に向け出発した。 

乗車した列車の窓越しに先輩同僚が、「中田君、靖国神社で逢おうよ」との激励のことばが耳に残った。

中田はまず岡山の郷里に帰った。

母親は優しく中田を迎えてくれ配給の酒で門出を祝ってくれた。 

4月9日の朝、町内の人達が近くの神社まで同行し、武運長久を祈願し、「出征兵士を送る歌」を大合唱して送ってくれた。

宇野港から多くの同期生と暁南丸に乗船して、香川県豊浜に向かった。

<暁南丸>

 

その後

中田は、第二戦隊に編入された。

第二戦隊は、沖縄の座間味島に基地を設定し、駐屯した。

第二戦隊は沖縄上陸する米軍と戦闘し、戦隊104名中隊員41名が戦死したが、中田は生還した(戦隊長生還、中隊長1名戦死)。

また基地大隊は隊員881名中675名が戦死した(大隊長戦死)。

中田は戦後に坂本(かつての満鉄時代の同僚)と、昭和64年に48年ぶりに仙台で再会している。

坂本は昭和20年に柳生とともに関東軍に入隊したが、終戦時に二人ともシベリヤに抑留された。

その後、坂本は昭和26年に無事帰国できたが、柳生は無念の死を遂げた。 

坂本は中田からの手紙により沖縄に派遣されているのを知っていたので、「中田は戦死したものと思っていた」ので、 再会を非常に喜んだという。

 

青年団のこと

この船舶兵特別幹部候補生募集には前述したように採用予定の約40倍の青少年が応募したという。

では何故、こんなに沢山の青少年が応募したのであろうか?

様々な理由や事情が考えられる。

その一つの原因になったのは、青年団という活動だったのではないかと思う。

そこで、お国のために、故郷のために、家族の名誉のために、何かお役に立ちたい、との欲求が育まれてきたと思うのである。

青年団への入団は戦前は15〜18歳で、退会は25歳〜30歳或いは結婚時だった(但し、例外もあった)。

また、青年団に入団することは、大人になったことの証のようなものだった。

以下簡単にその青年団の話をしたい。

 

青年集団の起源

日本で青年の集団についての記録は、江戸時代(1600年)より古いものはない。

江戸時代には今日の青年団の前身である若連中、若者組、若い衆等がひろく全国的に普及していたが、縦横のつながりはなかった。

日本の若者制度の由来は非常に古いので若者団体の規律、掟、申合せなどは、口伝え、あるいは言継ぎの形式でかなり古くからあったと推察されている。

この若連中は、村落社会の中で若い大人として認められることであり、警備、防災、祭礼、勤労奉仕など公共事業を担当しながら、社交娯楽の機会をもっていた。

「若連中」

「若連中」の起源については、今のところ甚だあいまいであるが、その一つの説として、起源は源頼朝時代であるといわれている。

「頼朝公は天下平定の後、いよいよ一国統治の根底を作ろうとして種々の策を施したが、中でも公は農家子弟の戦乱に乗じて、一時鋤鍬を捨て兵馬の事に馳せ加わった者共の始末に就いて困っていた。
そこでそれ等をして各々の土地に安着せしめるために、茲に始めて「氏神社」なるものをいずれの地にも創設させた。」

もちろん氏神を祀るということが、頼朝に始まったものではない。

だが、頼朝は、氏神として祀るべきほどでないものについては、一様に八幡さんを祀らすことに定めた。

そしてその前の農兵をば其の神社に附属させることにした。

「若連中」という名前はこの附属の中間(ちゅうげん)に対して与えられた名称らしい。

若連中というのも、つまりは平民の社会生活の団体のようである。

 

戦前の青年団

明治初期に「青年会」という地方団体が結成された。

この青年会は全国規模に広がって行き、青年団と呼ばれるようになっていった。

明治44年には全国青年団数24,800、団員数245万人と言われる大きな組織になっていった。

「中央報徳会青年部」「青年団中央部」「財団法人青年館」「大日本連合青年団」「大日本青年団」「大日本青少年団」と変遷を経ていく。

昭和16年(1941年)の1月「大日本青少年団」は全国青少年の一元的訓練組織体として結成された。

そして団長には時の文部大臣がなり、戦時下における国民運動を展開することとなり、大日本青少年団も大政翼賛会の傘下に入り強力な国民運動展開の担い手となった。

昭和19年に「戦時教育令」が公布され、学徒隊が結成された。

これに伴い、大日本青少年団は解散され、学徒隊傘下に吸収されるのである。

某青年団の会則

第二条 青年の道徳を涵養し、農家経済に必要な知識技能を授け、左の各項を実行せしむ。

一、教育勅語・戊申詔書の趣旨を体し、道義を重んじ実践躬行を旨とすること

一、報徳訓を確守し、 神仏・皇室・父母・祖先の恩に報ゆるに我が徳行を以てすること

一、勤倹・分度を守り、富盛の基本を確立して、農家永安法を立つること

一、分度外の財を推して善を積み業を修め、以て公衆の模範たること

一、 一定の場所を設け、 米麦その他主要な農産物及び果樹等を栽培し、農業の進歩をはかる

 

 

戦後の青年団

昭和20年(1945年)8月15日終戦となる。

外地に、戦場に、工場に、動員された夥しい人々の郷土への引揚げが始まった。

ある者は全財産のリュックを、ある者は着のみ着のままといった惨状で故郷の土を踏んだのである。

その大部分は、国の必勝を信じ、すべてのものを捧げ、生死の戦場を駆け、生産増強に不眠の努力をした青年である。

出発の時の歓呼の声に送られ、盛大な見送りを受けたにもかかわらず、国破れて山河あり、となった。 

出発の時と違い、迎える人もなく重い足取りで復員してきた。

復員してきた人々は、故郷に帰っても、仕事に精出す力もなく毎日の不安と焦燥に明け暮れていた。

インフレの進行、権威は失墜し、道義は地をはらった社会情勢、そうした中で、青年達の間に「これで良いのか?」 「何んとかしなければ!」という気持が起こり始めていた。

日本防衛に命をかけた青年たちは、今度は日本再建のために死力を尽くすのである。

戦後の青年団運動はここから始まっていく。

 

<続く>

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