36.南北朝動乱・石見篇
36.4.5. 市山城の攻防
新田義氏が石見に初登場するのがこの戦である。
延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日新田義貞が討死した後、義貞の弟の脇屋(新田)義助が宮方の指揮を引き継いだ。
新田義氏も、しばらく脇屋義助と行動を共にした。
しかし、北朝軍に追い詰められた義助率いる南朝軍は散り散りに別れていった。
新田義氏は他の武将と共に、海路で石見の南朝方を頼ってやって来た。
義氏らは、江津で下船し大和田城(江津市渡津)の都野信保を訪ねた。
都野信保は、建武2年(1335年)11月新田義貞が足利尊氏・直義成敗のために、鎌倉に向かった時、招集に応じて、鎌倉に向かった勤王の武将である。
なお、前述の「36.4.戦線の拡大、川上城攻撃」の条で、千本崎城から兵を率いて、川上孫三郎を救援に駆けつけた、都野保通は信保の子である。
ここで、義氏は都野氏と北朝方の討伐を企て、邑智郡の市山城を攻めることにした。
市山城
市山城は邑智郡の桜井庄市山(江津市桜江町)にあった。
桜井庄は元後宇多院の御料地の一つであった。
その桜井庄の中へ市山の天野藤内兼倶と谷住郷の土屋彦太郎ら北朝方の武将が地頭として割り込んでいた。
この北朝方勢力を追い出すため、暦応2年/延元4年(1339年)7月5日、新田左馬助義氏を大将に、都野の部下である大島源三を参謀として、兼平・隆兼、高津長幸、都野又五郎信保、神主兵庫介重武、長瀬八郎らが、天野兼俱の市山城を攻めた。
(注釈)
長瀬八郎は、蒙古襲来の時に活躍した肥後の菊池武房の子である。
弘安の役の恩賞として、菊池武房は谷住郷村(江津市桜江町)を飛領として与えられていた。
この地に武房の子、長瀬八郎が移り住んだと云われている。
しかし、この谷住郷村もこの頃は太田北郷地頭の土屋氏に横領されていた。
義氏、都野信保ら石見南朝軍は大和田城を出て江の川を渡り、二宮で神主兵庫介重武と合流した。
さらに石見南朝軍は北に進み、有福で福屋、高津軍と合流し、長谷(桜江町)、江尾と進み、桜井城の桜井領家軍と落ち合い、小田村で陣を張った。
一方、市山城の軍勢は山を降りて、八戸川を挟んで対峙した。
戦は、石見南朝軍の優勢で進み、市山城勢は不利な状況であった。
ところが、この市山城が攻撃されている事を知った北朝方は、川本の小笠原長氏、武田弥三郎、土屋彦太郎、君谷実祐らが応援に駆けつける。
小笠原、武田、君谷軍は江尾から、また土屋軍は川戸から南朝軍を攻めた。
南朝軍は北朝軍に挟撃される状態となった。
不利となった南朝軍は撤退する。
南朝軍は邇摩の木村山まで撤退して、そこに砦を築いた。
勢いに乗った北朝軍は、木村山の砦を攻めた。
しかし、決着はつかず、北朝軍は引き上げた。
この攻防戦は結論的には、大雑把に言うと引き分けに終わったようである。
ただ、南朝方の参謀大島源三は討ち死にした、という記録がある。
島根懸史
「島根懸史」に「市山城の役」の条に次のように記述されている。
延言四年七月五日、南朝党なる、新田義氏を初め福屋、高津、都野、神主等市山城を攻め、次で木村山城の戦あった。
石見河本郷、一方地頭小笠原信濃守代武田彌三郎入道が勲功を顕したことが「庵原家文書」にある。
石見國河本郷一方地頭小笠原信濃守代武田彌三郎入道申
右、去七月五日、市山城御敵新田左馬助・福屋孫太郎・高津余二・津野神主・長瀬八郎以下打寄之間、爲後局、同七日小笠原太郎相共馳向之時、敵引退木村山構城墎、同十二日打寄彼城墎、於搦手、土屋彦太郎相共、致散々合戰、津野神主手物源三打取畢、則頸御見知之上者、後證爲、欲預御一見状、仍状如件、
暦應二年八月廿日
承了(花押)
「石見国河本郷一方地頭小笠原信濃守代武田彌三郎入道申す。
右、去る七月五日、市山城に御敵新田左馬助・福屋弥太郎・ 高津余二(長幸)、 都野神主、長瀬八郎以下が打寄するの間、後巻(味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと)として、同七日、小笠原又太郎相共に馳向かったら、敵は木村山まで撤退し下がり城郭を構えた。
同十二日彼の城郭に打寄せ、搦手に於いて、土屋彦太郎相共に、散々合戦し都野神主手物(部下)源三を打取り畢(お)えた。
則ち頸御見知の上は、後証のため、御一見状を頂きたいと欲す。
前記記載のとおりである。
暦応二年八月二十日」
(注釈)
1.都野神主とは都野郷にある神社の神主(以降も同様)
2.「木村山」は邇摩郡との説明書きが付いているが、詳細な位置は不明
邑智郡誌
「邑智郡誌」の記述は次のとおりである。
「市山城の戦は延元四年七月五日 石見官軍新田左馬之助義民を初め、福屋・高津・都野神主・ 八瀬八郎等勢を合して、武家方の據れる市山城を攻めたてた。
急を聞いて武家方武田彌三郎・小笠原長・土屋彦太郎 等は直に援兵を送り両軍必死の戰を続け久しく勝敗を決せず。
共の間西部では三隅入道の各地に奮戦するあり、石見官軍の功績も大きいものがあったが、官軍敗退後は小笠原の支配下となった。」
石見町誌
そして「石見町誌」では、島根懸史と同じように、庵原文書を参考にして、
「延元四年(1339、北暦応二) 七月、石見の宮方新田義氏は福屋・高津・都野・長瀬らの軍勢をもって、邑智郡市山城主天野兼倶を攻撃、ついで小笠原長氏・武田弥三郎(小笠原貞宗代理)・土屋彦太郎らが天野氏を来援したので、退いて邇摩郡木村山に拠って追撃してきた土屋勢を防いだ。」
と記述している。
桜江町誌
ただ、「桜江町誌」の内容は違っている。
「兼倶が武家方として尊氏に拠ったので、暦応三年/延元四年(1339 ) 七月五日、宮方の大将新田義氏が福屋孫太郎兼行・高津長幸・津濃神主・長瀬八郎等を下知して、市山城を攻めさせた。
(注釈:津濃は都野のこと)
兼倶は少ない兵力でこれらを向うにしてよく防い だ。
これを知った武田弥三郎 (安芸の守護) 土屋彦太郎 (川戸) 小笠原長氏 (川本)等は急ぎ救援に来て、城の周辺において必死の攻防戦を展開した。
戦いは宮方の勝利に期し城は新田義氏の支配するところとなる。
・・・・
宮方の新田義氏は、市山城においてしばらく石見の宮方軍の指揮にあたったが、その後小笠原長氏が市山城を奪回した。」
と義氏が勝利し、市山城を手中にしたが、しばらくして小笠原長氏に奪回された、としている。
ともあれ結局、市山城は防御に成功したようである。
首塚
この戦いの激戦地となった、今田(桜江町)の田園地に「首塚」と呼ばれる史跡があった。
(現在は見当たらない。撤去されたのであろうか?
もし撤去されたのなら、その時に髑髏が出てきたのか、ちょっと気になった)
首塚は、最近まで今田部落の田の中にポツンと小高く台地が草に埋もれて残っていた。
この場所は、南北朝争乱の延元四年(1339年)南朝方の新田義氏との激しい戦による、両軍戦死者の慰霊地と伝えられていた。
また、11年後の正平5年(1350年)、石見の武装蜂起を鎮圧するために足利軍の高師泰が石見にやって来たときの戦いによるものであるとも、戦国末期の毛利と尼子の対決で永禄三年(1560年)、吉川氏の市山城攻めの戦いにまつわるものなどの諸説あるが、何れも確証資料はないという。
<「桜江の碑と野の仏」(桜江碑を守る会 編)より>
<2019年11月 現在>
<続く>