30.3.元弘の乱
30.3.14. 足利高氏
正慶2年/元弘3年(1333年)閏2月、隠岐の島を脱出した後醍醐帝は、伯耆国(現在の鳥取県西部)の「船上山」に籠もり、綸旨を発して諸国の武士を召集した。
これにより、幕府に不満を持つ武士や、情勢を様子見していた者達が後醍醐天皇のもとへ集結した。
勃発する反乱
赤松則村は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主で播磨国守護である。
正慶2年/元弘3年(1333年)1月21日、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵する。
赤松則村は、千早城攻めで手薄になった京を目指して山陽道を攻め上っていた。
同時期、四国でも倒幕軍が優勢に戦いを進めていた。
北条高時は、これらの反乱を鎮めるため、大軍を上洛させることを決める。
この鎮圧軍の総帥は名越尾張守高家、副将は足利高氏であった。
足利高氏の幕府離反
高氏は嘉元3年(1305年)足利氏当主の貞氏の次男として生まれた。
足利氏は清和源氏・河内源氏の源義家の孫義康が下野国足利に住して足利を称したのに始まる。
源氏は21流あるとされている。
「源」は皇室と祖(源流)を同じくするという意味であり、弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられたのが最初の源氏である。
高氏は元徳3年/元弘元年(1331年)の笠置山の戦い及び下赤坂城の攻撃に参加しており、今回は二回目の反乱鎮圧戦であった。
「太平記」によると、兵を召集された時点で高氏は反逆することを決めていたという。
「私本太平記」で記述されている高氏が上洛するまでの様子を要約して次に示す。
高氏軍は43月27日鎌倉を出発した。
4月4日矢作川のほとりの矢作ノ宿(愛知県岡崎市)についた。
三河足利党が軍馬を引き連れて待っていた。
待っていたのは、吉良、今川、仁木、一色、斯波、高、石堂、畠山、高力、関口、木田、入野、西条などの同族である。
陣は妙源寺柳堂(愛知県岡崎市)に構えた。
ここで、高氏は幕府転覆の本心を打ち明け、連判状がつくられた、という。
翌日遅れてきた細川一家の名がこの連判状に、加判された。
一方(Wikipedia)では、三河八橋(愛知県豊田市)で一族の吉良氏と相談し、幕府に反し後醍醐天皇に味方する決意を固めたといわれている、としている。
ただし三河八橋のどの場所かの記述はない。
なお、現在の名鉄三河線の三河八橋駅と妙源寺柳堂は直線距離で約8Km離れている。
足利軍は5000に膨れあがり京を目指した。
鏡の宿(蒲生郡竜王町)の歌野寺(場所不明)で、後醍醐帝の綸旨を受け取った。
「私本太平記」では、「後醍醐帝と高氏の仲介者が誰であるかは、色々な書を見ても明記していないので不明である」としている。
そして、恐らく、後醍醐帝に会いに隠岐の島まで行った、四国阿波の海賊岩松あたりではなかったか、と推測している。
というのも、阿波の岩松も足利も源義康を祖とする一族であったからである。
4月16日、高氏軍は洛中に入り、二条河原に陣を張る。
足利高氏は、廃墟同然の京の都の姿を見た。
数日後に名越高家軍や他の地方武士族も入京し、総勢2万余りとなった。
一方この頃、山陰道を千種忠顕が軍を率いて船上山から上洛しようとしていた。
幕府軍は六波羅で軍議を行った。
その結果、名越軍を本隊として、山陽道から船上山を目指し、足利高氏は別動隊として、山陰道から船上山に向かう事にした。
足利軍は丹波口、名越軍は鳥羽口にいったん布陣し、ここから二手に分かれて船上山に向けて進軍する予定であった。
しかし、山崎の赤松円心が京都を何度も攻撃してくるので、まずは赤松勢を退治することに六波羅探題の方針が変わった。
4月27日、名越高家と足利高氏は、赤松円心を討ち取るために出陣する。
二手に分かれて進軍する幕府軍のうち、最初に赤松勢とぶつかったのは、名越高家の軍勢だった。
京都市伏見区の久我に差し掛かったところで、近くに潜んでいた赤松勢の伏兵が一斉に矢を浴びせてきて、戦闘が開始する。
この戦いの最中、一本の矢が名越高家に命中し大将が戦死する。
大将の討ち死によって軍の統制が崩れてしまい、幕府軍は遁走する。
この戦いを「久我畷の戦い」と呼ぶ。
足利高氏は「久我畷の戦い」には参入せず、後方待機して戦況を見つめていた。
名越軍が敗退したのを確認し丹波篠村へ移動していった。
この丹波篠村は足利氏の領地であったといわれている。
この篠村に滞在中に、千種忠顕軍の児島三郎高徳が高氏に会い、後醍醐帝から預かってきた、一旒の錦旗を手渡している。
この錦旗は、20日前に「恵尊法親王」を大将に、千種忠顕を副将にして京都に侵攻した時に掲げた御旗である。
ここ篠村で高氏は陣を張り、近国の武将を召集し、挙兵する。
旗立楊
篠村八幡宮の北、20m位離れたところに「旗立楊(やなぎ)」(亀岡市史跡)がある。
説明文には次のように書かれている。
山陰街道に面して一際高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二引両」印の入った源氏の大白旗を掲げて、高氏のもとに駆けつけてくる武将達に高氏の本営の所在を明らかにした「梅松論」。
楊とは柳とは樹種が異なる。楊の寿命は百年程度しかないが、挿し木により容易に活着する。
現在も、当場所に楊の木があるが、この楊は昭和初期に挿し木したもので、足利高氏の時代から6,7代を経て引き継がれたものである。
<旗立楊>
高氏は4月29日篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町)に戦勝祈願の願文と鏑矢を奉納した。
高氏が鏑矢を一本添えて神殿に納めると、実弟直義朝臣を初めとして、𠮷良、石塔、仁木、細川、今川、荒川、高、上杉以下付き従う人々が我も我もと鏑矢を一本ずつお供えしたので、その矢が社殿にいっぱいになって塚のように積み上がった、と伝わっている。
この矢塚跡地は現在亀岡市史跡に指定されて、現在八幡宮境内にある。
矢塚の説明文には
「元弘三年(一三三三)四月ニ十七日 篠村八幡宮に陣を張った足利高氏はニ十九日に戦勝祈願の「願文」を神前で読み上げた。
高氏が自ら願文に添えて一本の鏑矢を奉納したところ、弟の直義を始め・・(以下略)
一方「太平記」では、5月7日に高氏が戦勝祈願して鏑矢を奉納して出陣した、としている。
どちらが本当かは、分からない。
<篠村八幡宮>
<矢塚>
尊氏軍は播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛する。
5月7日、六波羅探題は滅亡した。
<続く>