12.6. 大貫御嶽神社
立岩に役小角の石像を安置する作業を請け負った山崎次郎右衛門は、その後地元の大貫の三角山(現在の御嶽神社の西側に位置する標高162mの山)に蔵王権現の社を建てた。
恐らく貞宝に役小角のことを聞き、その霊験をもって、大貫地区の安寧を願おうとしたのであろう。
天武天皇3年(674年)に役行者が大峯の山で感得した蔵王権現が、約220年後に山奥の小さな村大貫の三角山に勧請されたのである。
なお、権現とは仮の姿で現れたという意味で、日本の神々は仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたとする、本地垂迹思想(神仏習合思想の一つ)による神号である。
この社は戦国時代には石見小笠原氏の保護を受けており、幾度か再建されている。
その後、明治4年3月に御嶽神社と改称し、明治41年5月12日に現在の地、大貫の宮の谷に移転した。
石見誌(昭和48年10月1日発行、初版は大正14年10月31日発行)
石見誌によると、山崎次郎右衛門が寛平3年(891年)大貫の三角山に蔵王権現を建てたとされている。
石見誌に
郷社御嶽神社
・川越村大貫三角山(古名御嶽山)に寛平三山崎治郎右衛門吉野ヨリ勧請
・伊邪那岐命 伊邪那美命 須佐之男命 少彦名命
・明応五小笠原長隆 天文廿三同長雄 天正十二同長旌造営 明治七村社
と記述されている。
内容は寛平3年(891年)に山崎治郎右衛門が大貫の三角山に御嶽神社を建て吉野より勧請した。主神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男命、少彦名命である。明応5年小笠原長隆、天文23年小笠原長雄、天正12年小笠原長旌造営する。明治7年村社となる。
ということである。
なお神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
桜江町誌(昭和48年3月30日発行)
桜江町誌にも石見誌とほぼ同様なことが記載されている。
御嶽宮
三角山鎮座〇旧号蔵王権現明治四辛未年三月改称〇旧地此处の峯上云傳 祭神少彥名命〇神躰鏡
祭日九月廿九日 建物本社仮殿 拝所 鳥居
棟札奉造立蔵王権現宮精舍一宇為天長地久御願圓滿大檀那源長隆明応五年丙辰十一月大願主彦右衛門〇奉新建立 天文二十三甲寅季九月廿九日大檀那源朝臣長雄願主山崎土佐守〇奉再興藏王権現宮大檀那源朝臣大藏大輔長旗 天正十二年甲申九月吉日大願主志谷修理亮長通・・・(略)・・
内容は、神躰は鏡で三角山に鎮座。旧名は蔵王権現で、明治四年三月に改称した。旧地はここの山頂と云われ伝わっており、祭神は少彦名命。
戦国時代の明応5年(1496年)に石見小笠原氏の第12代小笠原長隆が蔵王権現堂を建立し、さらに天文23年(1554年)に第14代小笠原長雄が再建、天正12年(1584年)に第15代小笠原長旌が再建・・・
石見小笠原氏は戦国時代の川本の温湯城、三原の丸山城の城主である。
戦国武将として、蔵王権現の霊験を求め、戦勝祈願をしていたものと思われる。
石見小笠原氏については、後で詳しく述べる予定である。
<蔵王権現>
<写真の
<中央の山が三角山。ここに蔵王権現が設置されている。対岸の田津側から撮影>
<御嶽神社>
以上が大田の円応寺、久手の清瀧、甘南備寺山の立岩、大貫の御嶽神社(蔵王権現)の四箇所の点の伝承を線で結びつけた、役小角から始まる「立岩伝説」の物語である。
<続く>