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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「芝野地区」の歴史に学ぶ~

2020-05-27 22:52:34 | 日記
雄物川下流、右岸に位置する芝野地区。
新田村は、江戸時代佐竹氏が秋田に入部してから独立を認められた村である。
新田村の周辺の田草川村、椿川村などは、すでに佐竹氏の入部以前、戦国時代末期には秋田氏の支配する村々として、天保19年(1591)の「出羽国秋田郡御蔵入目録」に留めているが、新田村は元禄期(1688~1703)に新田村として独立したものである。

戦国期の末ごろから、周辺地域から開拓者が徐々に入り込み、開拓を進めていったものと思われる。

新田村は雄物川沿岸の低湿地に拓けた村だが、雄物川はかつて小山村あたりから東北側に大きく湾曲し、小阿地村・四ツ小屋村の間を通り、仁井田村に向かって流れていた。従って四ツ小屋村は豊岩村と地続きであった。こうした蛇行は洪水の被害を大きくし、沿岸の村々は水害に悩み、それは藩政にも解決を迫る課題となっていた。
そこで、小山・豊巻間を掘りぬき、河道を直通させて水害を防止しようという計画が、佐竹藩によって立てられた。工事は万治3年(1660)に着手、延宝3年(1675)まで15年間続けられた。
この雄物川直通工事によって、地域は水害の常襲地帯からのがれ、これを機会に水田開発が急速に進み、入植者も増えて、元禄時代には独立村となるまでになった。

新田村の開拓に功績のあった人物として、「秋田風土記」(文化12年)は、舟岡村(現大仙市協和町)の長兵衛の名を挙げ、彼が正徳年中に開拓に尽力して辛労免(功労に対する褒美)三十石をもらったことを記している。そのほか、幾人かのひとの努力によって、新田村の開拓が進んだことを物語っている。

新田村の開発にとって大きな問題は、水田の耕作に必要な用水をどこから持ってくるかということであった。背後の椿台は低くて沢水の量が少なく、広い耕地の用水を確保するのは無理であった。
結局岩見川の水を戸島村地区で取水し、それを椿台の山麓沿いに堰を作って流し、これをもって灌漑することにしたのである。これが「芝野堰」である。
この用水は、芝野新田村の専用というわけではなく、戸島村・畑谷村・田草川村・鹿野戸村との共同利用であり、従ってこれら諸村との間に複雑な権利、義務関係があった。

江戸時代後期の「秋田風土記」に、「久保田に近く家々に大樹の桜ありて、花の頃は遊覧の人多し」とある。しかし、近年は木も伐られたり枯れたりして、遊覧の人も少なくなったとも記されている。
明治22年町村合併のとき、周辺の村々と合併して川添村となり、さらに昭和32年には昭和の町村合併により雄和町となった。

川向いの下黒瀬村は亀田藩に属していたから、雄物川はいわば国境を流れる川で、境川とも称されていたのである。
雄物川は毎年のように夏期に洪水をおこし、その度に沿岸の村々は被害を受けていた。
江戸時代雄物川は秋田藩にとっては雄平仙三郡の年貢米や生活物資を運ぶ経済的動脈であったから、河岸が痛めばこれを修理し、流砂によって河床に変化が生じた時には、これに工事を施し舟運を確保する必要があった。

出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集4 芝野新田村 鈴木長八家文書」