気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

知恵の母 ・・・ 4.執着をはなれる

2010-10-01 08:53:36 | Weblog
「仁者(ちえのひと)」は蜂です。


形式にとらわれず 本質にずばりと入っていく。

村落という「社会」の中心点に迫っていく。

それは 自然の素直さの力によるのです。


ああでもない こうでもないと煩うことなく

「月」といったら 月をみます。


型が死んだ形式にひっかかりません。



私たちも 自分に向かって

「おい どっちを向いて歩いているんだ。お前の目的は何だ」

  と 静かに問いかけ

自分の本来いくべき目的をつねにふみはずさないことです。



娘をりっぱに成人させたいと育てたら

  手離すときに ぐずぐずためらわない。

かわいい子にこそ旅をさせよう ・・・ 執着をはなれられる類は

  蜂と同じ自然さをもっている人なのです。





 

知恵の母 ・・・ 3.その指を切れ

2010-10-01 06:13:27 | Weblog
ある団体に入会する。

そこで世の人のためにつくそうと思いたつが

しばらくすると

  「役員」という名札ばかり目について 争いはじめます。



学生も学校に入ると

何のために入学したのか 本来の目的を忘れ

  「東大出」とかいう「花びら」の虚名にとりつかれます。



禅の教えに この蜂と同様の教えたたとえがあります。


「指をみず 月をみよ」というのです。


「ああ あそこに月が」というと

  人は差した指に目をうばわれ 「どこに どこに」といいます。


月よりも目の前の指をみます。  ・・・ 近視眼です。


禅では 「その指を切れ」と教えます。





知恵の母 ・・・ 2.とらわれ

2010-10-01 05:41:26 | Weblog
釈尊は 蜜を吸うという目的以外振り向きもしない蜜蜂に

  人生のすばらしさをみとったのです。


人間は とかく蜜を取りにゆきながら

  途中で花べんをつみとったりします。

花の香りの前に立つと身動きできず 自分の目的を忘れてしまいます。


人間は 道草を好むイキモノです。



頭脳が他の動物よりも複雑で 進んでいるために

  その頭にとらわれてしまいます。

ものをまとめる力があるから まとめる力にだまされます。


行き先を忘れて 道端の一本の毒草に心をうばわれ

  それが人生だと思いこみます。



こうして 中心点に突き進まず

  周囲をあてどなくさまよい歩いているのが人間です。


人類解放と叫びながら 人殺しに熱中したり

国民のためと唱しながら

  自分たちの利益にとらわれる政治もこの道草です。



蜂のように

ただ もっとも大事な蜜だけをとっていったら良いのに

  ・・・ 肝心なことを忘れます。


せめて財産があればと思って苦心している間に

いつの間にか 所期の目的をうち忘れて財産にもたれかかり

財産をもつがゆえに苦しみ

  また享楽を求めて 享楽に悩みもするのです。



こうした「矛盾」は道草の とらわれ にあるのです。




(再掲)

花びらと色と香をそこなわず ただ蜜味(みつ)のみたずさえて

  かの蜂のとび去るごとく 人びとの住む村々に

    かく仁者(ひじり)は歩めかし       (法句経)





知恵の母 ・・・ 1.自然から学ぶ

2010-10-01 05:40:34 | Weblog
花びらと色と香をそこなわず ただ蜜味(みつ)のみたずさえて

  かの蜂のとび去るごとく 人びとの住む村々に

    かく仁者(ひじり)は歩めかし       (法句経)



釈尊は
 
  実に多くのことを自然の働きのうちから 学びとられた方です。


私たちも 心が安らかでいるときは

  ふとした自然の動きから深い感動をうけることがあります。



この法句にしても

蜂が花びらを傷つけることなく すっと蜜を吸ってとび去っていった

・・・ たったそれだけのことから

「かく仁者は歩めかし」と人生の在り方に結びつけて

  その意味深さをとらえておられます。


私たちはこの聖句から まず

自然が 大きい人生航路の燈火となっていること

素直な自然 沈黙せる自然から多くのことを

  学ばねばならないことを知ります。



たしかに 自然は 人間の知恵の母です。


私たちは

  もう少し自然になぞらえたくらしを 築かなくてはなりません。