気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

いまに生きる ・・・ 5.精いっぱい

2010-10-21 12:14:06 | Weblog
私たちは 過去にとらわれてくよくよとし

  未来を思いあぐねて不安にかられる。


それは

「 いま 」をいうものを正しくとらえていないからであり

現在を 時間の流れの通過駅ぐらいにしか考えていないからです。


「 いま 」を粗末にする人は

  結局 過去も 未来も 長い人生もムダにしてしまう人なのです。



釈尊は

怠けて百年生きたところで 一日を精進し努力して生きた人に劣る

  といわれましたが ・・・

それは「 いま 」というものを
 
  ・・・ このように深くとらえているからです。



禅家では

「 一日作(な)さざれば一日食わず 」といいます。


一日 一時間 一瞬こそ ・・・ 私たちにとって 一番大事なのです。



「 いま 」のなかに結晶している過去と未来を大切にし

「 現在 」を 精いっぱい生きようではありませんか ・・・ 。






いまに生きる ・・・ 4.一期一会

2010-10-21 09:06:56 | Weblog
私が「 いま 」考えていることは

  明日以後の五年 十年の原因となっています。


「 いま 」は 刹那であって

  過去と未来の「因果」の中心となっている。

いわば 時間と空間のぶつかりあいです。


・・・ 一期一会とは このことをいうのです。



この「 いま 」をなおざいりにしてはいけない。

一刹那に 永遠をみる思いで生きよ

「 いま 」の瞬間に対し 主人公になれ


・・・ 釈尊は 「現在」というものを
          そのようにうけとめておられるのです。





いまに生きる ・・・ 3.「 いま 」

2010-10-21 06:40:49 | Weblog
まだやってこない明日は これまたあてにならない。


刹那生滅(せつなしょうめつ)といって

一瞬 一刹那に ・・・ 私たちは生まれ そして滅しているのだ。


ほんとうにあるもの

てごたえのあるもの

どうにかなりうるのは ・・・ 現在しかない。


「 いま 」に生きよ ・・・ という教えです。



この一刹那の「 いま 」の刹那とは

  ふつう 1/75秒にあたるといわれます。


その「 いま 」に全力投球して生きなさい というのが

  「現在有体」であり

  「今日まさに作すべき」という「今日」なのです。



そして

この「 いま 」のなかには

  何十年という歴史がつみ重なっています。

過去の結果です。

しかも

その「 いま 」は 明日に向かっては原因です。






いまに生きる ・・・ 2.落謝 (らくしゃ)

2010-10-21 06:06:10 | Weblog
釈尊は どこに生きようとしたのか。

次の聖句(ことば)があります。


「 されば

  ただ現在するところのものを そのところによく観察すべし

  揺らぐことなく 動ずることなく そをみきわめ それを実践すべし

  ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ 」


・・・ 「 いま 」に生きる。 これです。



仏教には

「 過未無休 現在有体 」 という有名なことばがあります。


過去と未来には 実体はない。

あるものは 現在だけである。

過ぎ去った過去は どうにもならない。


これを 「落謝(らくしゃ)」 といってます。





いまに生きる ・・・ 1.一切は無常

2010-10-21 05:48:03 | Weblog
過ぎ去るを追うことなかれ

  未だ来たらざるものを念(おも)うことなかれ

過去そはすでに捨てられたり
 
  未来そは 未だ至らざるなり

                     (中部経典)



釈尊の晩年には 一抹の寂寥(せきりょう)がただよっていたと

  多くの仏教学者はいってます。


それは老いゆえの淋しさではなく ・・・

同じサキャ(釈迦)族出身のすぐれた弟子であるデーヴァダッタの

  反逆にあい

そしてしばらくして

この事件の大きな支えてであったサーリプッタ(舎利仏)

  モッガラーナ(目犍連)のふたりの死に遭遇しているからです。



しかし この人のえらさは

そうした過去にとらわれて自己をとり失うような弱さを

  かけらほどももっていなかったことです。


無常の哲理を体現した釈尊なればのことでしょうね。



釈尊はいいます。

過去を追うな また未来をこい願うな 未来はまだやってこない

・・・ 寥(さび)しさをよぶ過去も

    自分の死後の弟子たちのことも考えまい

一切は無常である ・・・ と。





死の怖れ ・・・ 4.自分の問題として

2010-10-21 05:47:19 | Weblog
私たちは

自分だけは死なない

  死にたくない と思います。


友人や先輩が死ぬと その死の理由を探り出して

「あいつは不養生だったから」 とか

「酒ののみすぎだよ」 と人ごとのようにあげつらって

  ・・・ 自分の死を忘れようとする。


「私が死んだらね」 とか

「どうせ死ぬんだから」 と軽口をたたく。


切実に「我の死」を考えていないあらわれです。

  ・・・ これを 自己擬態といいます。



私たちは

こうした自分のゴマカシを長くつづけていたのでは

  死を控えている短い生の充実をはかることはできません。



友人の死は

  自分のなかのなにものかが死んでゆくのだ

  ・・・ という有名なことばがあります。


死を絵空事とみず

  ・・・ 自分の問題としてとらえることが大切です。



文明の進歩は 死を遠ざけてくれるのかもしれませんね。