気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

明日(8日)上海へ ・・・ 万博は見ません

2010-10-07 22:57:55 | Weblog
明朝 上海へでかけます。(8日~12日)

10日(日)行われる結婚式に出席するためです。

新郎は
郭林新気功(抗癌功法)の指導者 盧老師
  (癌患者 上海癌症康復学校 副校長)のご子息。

気楽な一人旅 ・・・
9日と11日は 全くの自由。
ただ 11日は 
  上海癌症康復倶楽部(10000名)を訪問する予定です。


喧騒を避けて ・・・ 万博会場へ行く予定はしていません。
(もし むこうでチケットを準備していたら ・・・ 困るなぁ)


「 祝結婚 」の寄せ書きも出来上がり ・・・ 持参します。

  寄せ書きをして下さった皆々さま
              ・・・ ありがとうございました。



 

中道の心 ・・・ 4.自分がみえてくる

2010-10-07 17:14:43 | Weblog
中道は
 

  肩ひじをはらない生き方 です。


  八方破れの姿勢 でもありません。


  人間の平常のそれと さしてかわったところがない

    ・・・ あるがまま です。



釈尊は

  「貪り(むさぼり)を離れる とか
 
  「出離」 ということばが ・・・ 好きです。


離れるというのは 自分を客観的に眺めること です。

そして

ほどよいあんばいに 自分を調えてゆくこと です。


激情のとりことなったときも ・・・

それから一歩離れて しみじみとながめれば

  ・・・ 自分がコッケイにみえる かもしれません。


そのとき かたよりにのめりこんだ自分がみえてくる のです。





中道の心 ・・・ 3.ひっかからない自然さ

2010-10-07 13:36:43 | Weblog
すぐれた宗教家には 「中道観」がそなわっています。

・・・ だからこそ 仏弟子といえるのです。



法然上人は

「酒のむは罪にて候か」ときかれて

「まことのむべくもなけれども このよのならひ」

  ・・・ と さらりとうけ答えしています。


酒は 狂水といいます。

のまぬにこしたことはありません。

しかし

疲れたときの一杯の酒は こころよい眠りへとみちびいてくれます。


頭っから 酒を飲むのはくだらん やめろといわずに

まず

「まことにはのむべくもなけれれども」 と 正しておいて

「この世のならひ」 と

  臨機応変に 随時自分の知恵を働かせていきなさい
 
                  ・・・ と 諭してゆきます。


ここに 中道による 極端にひっかからない自然さがあります。





中道の心 ・・・ 2.こだわりをすてる ・ 生活指針

2010-10-07 12:17:26 | Weblog
人は どうしても いずれかの「辺」に固執します。


その固執する欲が 「渇愛」であり 「苦の原因」です。

ですから

「中道」によらないかぎり ・・・ 苦を滅することはできません。


しかし

釈尊は 中道を

  苦や欲の処理のためにのみ 説いたのではありません。


それは

釈尊の全生活をつらぬく原理 ・・・ でもあったのですし

もっというなら

人類の実践原理 ・・・ でもあるのです。

もちろん

私たちの生活指針 ・・・ でもあることはいうまでもありません。



勝ち 負けのこだわりをすてる ・・・ のも この中道ですし

生まれによって差別しようとするかたよりをやめよ

  ・・・ というのも 「中道精神」によるものです。



泥中白蓮の教え *

そしりとほまれ は別ものではないというとらえ方

  ・・・ これも 中道の目による人生のとらえ方です。





  * 当ブログ 「 穢れなき蓮の花 」 ・・・ 1.~ 5.
    を ご覧下さい。




 

中道の心 ・・・ 1.とらわれない ・ 欲望

2010-10-07 09:05:45 | Weblog
如来(ブッタ)は二辺をはなれ 中道を説く

                     (雑阿含経)



中道というのは

  「中庸妥協」の道でも

  「中間」というこでも ありません。


ものごとにとらわれない ということです。



たとえば

仏教というと 「無の哲学」 といいます。

・・・ ちがいます。

・・・ 「中」 です。


無というと 「有」 を考えます。

有の反対が 「無」 ということになると

  無だ 無だといって 「無」にとらわれます。


この「無」にもとらわれないのが ・・・ 「中」です。



中道とは ひとことでいえば

  「極端な二辺から離れよ」 ということです。



欲望をなくそうと必死になるのは

「無くそう」ということへの とらわれをもちます。


さて ・・・ 。





愛と憎しみ ・・・ 3.すぐれた人

2010-10-07 07:00:21 | Weblog
人間は ほめられもすれば けなされもするものです。

これが 自然です。


釈尊を

人類の教師と仰ぐ人もあれば 非難や悪口をあびせた人もいます。


法然上人も

「信謗(しんぼう)二つながらつよき人」だった といわれます。



ほめられ 信頼され

くさされ 不信の目でみられる という

  どちらにも平然と動じない人 ・・・ それが すぐれた人です。

それには

この二つが たがいにかかわりを持っていることを

  ・・・ 知ることが第一です。


悪口をいわれて カッとなる。

ほめられて ニコニコする人は ・・・ 腰の落ち着かぬ人です。

  ・・・ と同時に 物事を他面的にみることができない人です。



釈尊は

人間がほめられっぱなし けなされっぱなしということはない

  けなされた人も やがて ほめられるときがある。

それが

  人間社会の道理であり

  変ることなくつづいている普遍の真理なのだ

                ・・・ と いっておられます。
 





愛と憎しみ ・・・ 2.表裏一体

2010-10-07 06:17:55 | Weblog
愛と憎しみについても

  この二つをはっきりと分けてきめつけることは危険なことです。


愛情をもたぬ人間を 本気になって憎むことはありえません。

愛すればこそ

  些細なことばにも 腹がたち

  少しばかりの裏切りにも 不信や憎しみを抱きます。



シェークスピアの書いた悲劇の一つ 「オセロ」は

心の底から愛している妻を

  疑いのゆえに絞殺してしまう物語です。


オセロは 妻デスデモーナを愛している。

だからこそ

自分の心に雲のように起こった不信と疑いを

  払うことができなかったのです。


愛が浅ければ 妻を捨てることで解決できたと思います。



愛と憎

そしりとほまれ ・・・ それは 表裏一体 なのです。






愛と憎しみ ・・・ 1.分けられない

2010-10-07 04:52:03 | Weblog
ただ一向(ひたむき)にそしらるる

ただ一向(ひたむき)にほめらるる

  かかるものあることなし        (法句経)



「そしられる」と「ほめられる」とでは ずいぶんちがいます。


悪口をいわれれば 腹がたつし

  ほめられれば 嬉しくなるのが人情です。

けれども

この二つは あながち正反対のものとはいえないのです。



もし 全く関心のない相手だったら

  別にそしりもしないでしょうし 悪口もいわないでしょう。

非難するということは

  何かそれだけ手ごたえのある相手だ という証拠です。

つまり

相手の存在を認めているからこそ そしりのことばもでてくるのです。


ほめるということにしても 手ばなしで喜べぬものがあります。

どうでもいい相手だから よろこばせておけ

  といって ほめることもあるし

蔑(さげす)みながら ほめることもあります。


いずれにせよ

この二つをはっきりと分けてきめつけることは危険なことです。





めぐみの雨 ・・・ 4.資格

2010-10-07 04:51:32 | Weblog
自分を生かしてくれる

生命をささえてくれる

生きる喜びを味あわせてくれる

  そのエネルギーとなる力をもった食料や鉄鉱石や石油は

  ・・・ けっして たんなるモノではない。


この価値観をもつ人であってこそ

  施しをうる資格がある ・・・ と 釈尊はいうのです。



しかし

大食が健康によくないように 多量がすべてよい とはいえません。


近くいてもユダのように 師イエスをうらぎるものもいます。


釈尊は

「たとえ左右(そば)にあるも我に遠きものなり」

          ・・・ と 探究心のない弟子を戒めました。

  


  (再掲)

  身につつしみなくして

    国(よ)の施物(ほどこし)を食うことなからん (法句経)