気の広場

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  日常雑感あれこれ・・・

灯台もと暗し ・・・ 2.そばにいすぎたために

2010-10-19 15:51:33 | Weblog
釈尊の弟子 阿難は

  二十五年間もの長い間 師のそばに仕えてきた人でした。

それだけに

一番多く釈尊の教えを耳にし その一挙手一投足を目にしてきました。

彼は 第一の弟子といわれたくらいです。

しかも 釈尊の従兄弟(いとこ)にあたります。



ところが その阿難は

釈尊が歿くなるとき 声を上げて泣き

師と先輩から戒められて

「お前は諸行無常ということがまだわからないのか

  生あるものに死はある という理法がのみこめないないのか」

  ・・・ と叱られました。


そして

釈尊入滅後の第一回の結集のとき開かれた資格試験に

  ・・・ ひっかかってしまったのです。



仏のそばにいすぎたせいか

あるいは

仏のお話をききすぎたせいか

とにかく

釈尊ののそば近くいて朝に夕に教えをうけていた阿難が

  一番おくれてさとりをひらいた という話しは

  ・・・ 私たちに大いに役立ちます。


まさに 匙は器につけども その味を知ることなし です。



いくらりっぱな先生のそばにいて 長い間教えをうけても

自分から学ぼうとする熱意のない生徒は

  ・・・ 阿難と同じになってしまうわけです。


反対に

たった一日でも本気になって習う気になれば

  短期間にくみとるべきものは くみとることができます。



私たちは

「いつでも聞ける」 とか

「いつでも会える」 と思うと つい自分を甘やかし

同時に

  ・・・ 相手をも 軽んじた気持になってしまうものです。





灯台もと暗し ・・・ 1.その味を知ることなし

2010-10-19 12:07:20 | Weblog
匙(さじ)は器(うつわ)につけども

  その味を知ることなし

                      (法句経)



日本にも 「灯台もと暗し」という諺があります。


近いもの そばにあるものほど

うっかりすると目に入らない ・・・ という皮肉な教訓です。



たしかにスプーンはお皿の一番近くにおかれています。

しかし

皿の中のスープの味が うまいか まずいかわかりません。


釈尊は この句の次に

「げに 舌こそ 美味(あじ)を知るがごとし」とつづけています。



人間の舌があってこそ ものの味わいというものがわかります。






安らぎ ・・・ 5.勝敗の二つをすてて

2010-10-19 12:05:20 | Weblog
敗けた者の怨み 勝てる者のおびえ ・・・

この二つを棄てて生きることこそ

  そこに恒久の平和が生まれるのです。



バイブルには 「汝の敵を愛せよ」と書いてあります。


敵をつくって愛するということは 勝利者の優越感です。



釈尊は

「勝敗の二つをすてて」といいます。

勝ちも負けも等距離における強い淡白な人となれと教えます。


勝利をすてた勝ち方

敗者に怨みをもたせぬ勝ち ・・・ それを追求していくとき

私たちは 勝敗にこだわる自分のみじめさを知りましょう。



こうした「勝ち負けを度外視した」フェアプレイこそ

  ・・・ 「仏心」なのです。


もし 闘って勝ったら

  負けた人に手をさしのべ

  ・・・ 自分から頭をさげるような人間になりたいものですね。



(再掲)

勝つもの怨みを招かん

  ひとに敗れたるもの苦しみて臥(ふ)す

されど

勝敗の二つを棄ててこころ静かなる人は

  起居(おきふし)ともにさいわいなり

                    (法句経)






安らぎ ・・・ 4.強い人間とは

2010-10-19 06:53:55 | Weblog
強い人間とは

  勝敗を二つともすて 越えた人なのだ。


勝ちも負けも上下はない。

優劣もない。

それは同じく等しいものなのだ。


それを忘れて勝利に溺れるとき

  敗者は 怨みごころをもち

  夜もねむれず 苦しみ 憎み 報復心をもつ。


もし それを知ったら

  勝者は たえず敗者の行動におびえねばなるまい。

征服者の不安とは それだ。


そんな暮らし方をして 心は静まるのか。

平和はあるのか。

ゆるぎない安らぎはえられるのか


  ・・・ 釈尊は じゅんじゅんと説かれています。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 母子






安らぎ ・・・ 3.勝利とは

2010-10-19 06:31:05 | Weblog
いったい「勝利」とは何でしょうか。


それは 単独で成り立つものでしょうか。

そうではないでしょう ・・・ 。


勝つ者があれば 一方に負けた者がいます。


負けてくれる相手があるから

  「勝った」という気持も生まれてくるのではないでしょうか。

としたら

勝利者は 誰よりも敗者にむくいる気持ちがなくてはなりません。



・・・ いや それも弱い心のあらわれなのです。


もし あなたが誰よりも強く

  相手とする敵がいないほどの力量があったとしたら

  ・・・ もう 勝ちも負けもないではありませんか。



勝ったと喜んでいるのは まだ自分が弱いのです。

自分の力に負けているのです。


しょせん 勝者は いつかは負けます。



勝敗などというものは ・・・ いいかげんなものにすぎません。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 太極拳





安らぎ ・・・ 2.勝敗

2010-10-19 06:30:09 | Weblog
人間は

幼いころから親に

  「負けるな くじけるな 勝ち抜け」 とはげまされてきます。

幼稚園の運動会でも

  「勝て 勝て 走れ!」 と若い父母が声をからしています。


受験戦争に突入した子どもらは 一刻一刻を「勝敗」に賭けています。

負けたら一生灰色だぞ と教育熱心な親は鞭をふるいます。



子どもらは

  ひとりでも競争相手が脱落することをねがい

  敗れ去ることを祈っています。


そして

入試に成功すれば 勝ったと叫び

敗れた少年はじいっと唇をかみしめて 勝利者に憎しみをいだく。

絶望の余り 自殺する子もあります。



こうした敗者に怨みをもたせるような勝利。

  そんな勝ち方は本物ではない。


敗けたものが恨みをいだかぬような勝利

勝ったという思い上がりの気持を持たぬ勝ち方

  それがまことの勝利者なのだ

            ・・・ と 釈尊は叱っておられます。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 朝の公園 自慢





安らぎ ・・・ 1.心静かな日々

2010-10-19 06:29:28 | Weblog
勝つもの怨みを招かん

  ひとに敗れたるもの苦しみて臥(ふ)す

されど

勝敗の二つを棄ててこころ静かなる人は

  起居(おきふし)ともにさいわいなり

                    (法句経)



仏教は 「涅槃(ねはん)寂静」の境地を理想とします。

平和な安らぎをもって一生を生きぬくことです。

  ・・・ それが 釈尊の示された人生の目標です。



この聖句(ことば)は

  そうした心静かな日々を送るためにはどうしたらよいか

勝ちと負けという争いにとらわれがちな私たちを

  ・・・ さとされたことばです。





* 2010.10. 上海寸景 ・・・ 公園の片隅で