北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

有章院(七代将軍 家継公)の霊廟(東京 芝)

2021年07月18日 | 総論 
七代将軍家継公は、宝永六(1709)年の生まれで、先代の文昭院殿の第4子で母は左京の局(月光院)でしたが、家宣正室の天英院が養育しました。正徳二(1712)年十月に父が急逝したため、後を継いだが幼年(満三歳)であり、先代の臣下であった側用人 間辺詮房と新井白石が幕政を補佐したため、将軍の権威が弱体化したことは否めませんでした。さらに七代家継公は正徳六(1716)年四月に急逝してしまいました。その後は、吉宗公に時代に入って享保の改革の一環として有章院の宝塔はそれまでの銅製から石造に代わり、有章院の霊廟建築の後は、新規の霊廟の霊屋は作らなくなり以前の将軍の墓所に合祀(ただし宝塔と宝塔前拝殿は造営)となります。日光東照宮から七代将軍 有章院までで本格的な霊廟霊屋の建築は終焉を迎え、これ以後は霊廟の修復などに工事内容が変わってきます。彫工のニーズも少なくなり、庶民の神社への宮彫の付加が加速していきます。

・増上寺北廟の全体図


・有章院の宝塔  石造/正徳六(1716)年建造


・同宝塔の構造(文献①)


・同宝塔の基壇と地中部(文献①)


・有章院霊廟の二天門  現存




・有章院霊廟の勅額門
(増上寺将軍墓地 説明版より)


(文献②より)




・有章院霊廟の鐘楼(文献②)


・有章院霊廟の水盤舎(文献②)


・有章院 霊屋前中門(文献②)


・有章院 霊屋拝殿(文献②)




・有章院 霊屋脇 仕切門(文献②)




*後に九代将軍家重公(惇信院)が合祀されます。


参考文献
①鈴木尚、矢島恭介、山辺知行、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』、東京大学出版会、1967
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年

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