元和二(1616)年四月二日死期を悟った家康公は、崇伝、天海、本多正純を呼んで遺言を残したとされます(『本光国師日記』)。その内容ですが、「臨終候はば、御体をば久能へ納め、御祭礼をば増上寺にて申しつけ、御位牌をば三河大樹寺に立て、一周忌も過ぎ候て以降、御体を日光山に小さき堂を建て勧請し候へ、八州の鎮守に成りなさるべし」になります。家康公は四月十七日に駿府城で亡くなったとされます。同日の夜に久能山に御遺体を移しました。急な措置ですが、秀忠公はじめ幕府要職が「家康公の神格化」を進めるために、早急に御遺体を人目から遠ざけたためとされます(文献①)。当時の久能山は山城で、駿府城の支城で、現在の本社の場所に本丸が建っていたとされ、そちらに御遺体を安置し、現在の宝塔のあたりを十八日から地形して、墓穴と奥社仮殿を中井大和守正清に作られたとされます。四月十九日夜に御遺体を純神式(吉田神道)で埋葬しました。また家康公の死にあたり、一切の香典の受け取りを幕府は拒否しています(神になった家康公には香典はふさわしくないとの判断)。
・現在の久能山東照宮の配置図
*江戸の文化人 司馬江漢は江戸から西国へ旅をした記録を、寛政六(1794)年に『西游旅譚』五巻で刊行したが、巻之一の「久能山之図」に東照宮が描かれていたため、不敬のお咎めを受けて絶版を命じられています。九年後(享和三年)に江漢は改めて『画図西游譚』を発行しました。
家康公を祀る正式な社殿建造が元和二年四月二十二日から行われました。家康公には「大明神」が朝廷から勅許されるはずでしたが、豊臣秀吉公(豊国大明神)と同じではよくないとの話(崇伝と天海の論争)がでて、秀忠公の最終判断で「(東照)大権現」になった経緯があります。
また、二代将軍秀忠が先代の遺命によって、元和二年十月から翌年春にかけて日光の地に社殿(東照社)を建立しました。
・久能山から日光への家康公の霊柩の移送
元和三年三月十五日 久能山を出発/富士山麓の善徳寺(15日泊)/三島(16・17日泊)/小田原(18・19日泊)/中原(20日泊)/府中(21・22日泊)、仙波(23~26日泊)/忍(27日泊)/佐野(28日)/鹿沼(29~4月3日泊)/四月四日 日光山座禅院に到着
・現在の久能山東照宮について 鳥居から久能山を見上げる図
・楼門
・神厩 内部に白い神馬がいます
・鐘楼
・唐門の正面
同門の後方
・拝殿
・本殿
・廟門
・宝塔
・宝塔前 銅製灯籠 家康公一周忌
・日枝神社
・神庫
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
・現在の久能山東照宮の配置図
*江戸の文化人 司馬江漢は江戸から西国へ旅をした記録を、寛政六(1794)年に『西游旅譚』五巻で刊行したが、巻之一の「久能山之図」に東照宮が描かれていたため、不敬のお咎めを受けて絶版を命じられています。九年後(享和三年)に江漢は改めて『画図西游譚』を発行しました。
家康公を祀る正式な社殿建造が元和二年四月二十二日から行われました。家康公には「大明神」が朝廷から勅許されるはずでしたが、豊臣秀吉公(豊国大明神)と同じではよくないとの話(崇伝と天海の論争)がでて、秀忠公の最終判断で「(東照)大権現」になった経緯があります。
また、二代将軍秀忠が先代の遺命によって、元和二年十月から翌年春にかけて日光の地に社殿(東照社)を建立しました。
・久能山から日光への家康公の霊柩の移送
元和三年三月十五日 久能山を出発/富士山麓の善徳寺(15日泊)/三島(16・17日泊)/小田原(18・19日泊)/中原(20日泊)/府中(21・22日泊)、仙波(23~26日泊)/忍(27日泊)/佐野(28日)/鹿沼(29~4月3日泊)/四月四日 日光山座禅院に到着
・現在の久能山東照宮について 鳥居から久能山を見上げる図
・楼門
・神厩 内部に白い神馬がいます
・鐘楼
・唐門の正面
同門の後方
・拝殿
・本殿
・廟門
・宝塔
・宝塔前 銅製灯籠 家康公一周忌
・日枝神社
・神庫
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
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