この銅像は、江戸住三大彫工流派の一つ石川流の本家五代目になる石川光明が製作に関わっている。皇居外苑北に建ち馬上の正成公は斜め右を向き、その方向は皇居を向く。
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彫型は高村光雲(教授)が主任をつとめ、石川光明(教授)、山田鬼齋(教授)、後藤貞行(教員)らが参加している。
・石川光明について
嘉永五年(1852)八月十八日、江戸浅草松山町で出生。幼名は藤太郎。父朝光(藤吉)は早世し、10歳で木彫を習い、12歳の時に根岸の根付師菊川正光の門に入って牙彫を学ぶ。明治十年頃は牙彫の全盛期で、「象牙にあらざれば彫刻にあらずという勢いであった」と高村光雲は述懐している。明治二十年から始まった皇居の造営の際に、障子、腰板、欄間彫刻製作し、この頃から木彫も見直される気運が高まる。光明は牙彫、木彫を製作しながら活躍し、明治二十三年(1890)東京美術学校へ招聘され帝室技芸員となり、翌年同校教授となっています。同校の同僚で同年生まれの高村光雲とは特に親しく(光雲は「兄弟のように」と述べている)、共に多くの後進の教育にあたった。明治二十六年(1893)のシカゴ万博に木彫観音額面を出品。光明は三女一男をもうけ、次女の夫は木村武山、三女(丹麗)の夫は石川確治になる。光明は大正二年(1913)7月30日60歳で亡くなった。
・石川流本家の系譜
初代 石川勝右衛門周信:花輪の石原吟八の弟子。武州中瀬の生まれ。寛政二年八月没。
二代 石川信豊:周信の二男、石原藤吉、江戸下谷町住
三代 石川豊光:信豊の子、天明四年頃江戸で生まれ、万延元年四月没。78歳。
四代 石川朝光:石川藤吉、行年33歳。
五代 石川光明
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彫型は高村光雲(教授)が主任をつとめ、石川光明(教授)、山田鬼齋(教授)、後藤貞行(教員)らが参加している。
・石川光明について
嘉永五年(1852)八月十八日、江戸浅草松山町で出生。幼名は藤太郎。父朝光(藤吉)は早世し、10歳で木彫を習い、12歳の時に根岸の根付師菊川正光の門に入って牙彫を学ぶ。明治十年頃は牙彫の全盛期で、「象牙にあらざれば彫刻にあらずという勢いであった」と高村光雲は述懐している。明治二十年から始まった皇居の造営の際に、障子、腰板、欄間彫刻製作し、この頃から木彫も見直される気運が高まる。光明は牙彫、木彫を製作しながら活躍し、明治二十三年(1890)東京美術学校へ招聘され帝室技芸員となり、翌年同校教授となっています。同校の同僚で同年生まれの高村光雲とは特に親しく(光雲は「兄弟のように」と述べている)、共に多くの後進の教育にあたった。明治二十六年(1893)のシカゴ万博に木彫観音額面を出品。光明は三女一男をもうけ、次女の夫は木村武山、三女(丹麗)の夫は石川確治になる。光明は大正二年(1913)7月30日60歳で亡くなった。
・石川流本家の系譜
初代 石川勝右衛門周信:花輪の石原吟八の弟子。武州中瀬の生まれ。寛政二年八月没。
二代 石川信豊:周信の二男、石原藤吉、江戸下谷町住
三代 石川豊光:信豊の子、天明四年頃江戸で生まれ、万延元年四月没。78歳。
四代 石川朝光:石川藤吉、行年33歳。
五代 石川光明
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