二代秀忠公は、天正7(1579)年7月7日生まれ、寛永9(1632)年1月24日に亡くなられています。
二代将軍以降は、家康公と異なり純粋な仏式で葬儀が行われ、家康の「東照大権現」という神仏習合の名前とは異なり、院号になります(以降の将軍も同じですが、十五代慶喜公は例外)。二代秀忠公は「台徳院」と呼ばれ、正室のお江の方(祟源院)とともに徳川家の菩提寺である増上寺(浄土宗)に、三代将軍家光公によって作られました。また、三代家光公の霊廟は、日光の東照宮の隣と上野の寛永寺の二カ所に造られました。七代将軍までの霊廟は、増上寺または寛永寺に単独で建造されましたが、八代将軍吉宗公以降は、自身の意向(倹約を奨励し、新規のお霊屋建造を禁止)で先の将軍の霊廟に合祀という形になってきます。台徳院霊廟は残念ながら、先の戦争で焼失、宝塔は木造であったため焼失しており、その後正確な宝塔のあった場所は不明になっていましたが、昭和33~35年の発掘調査で明らかになりました。秀忠公の御遺骸は、祟源院石造宝塔に合祀されました。
・戦前の台徳院霊廟(増上寺南廟)の地図
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惣門は戦火を逃れ、現在も増上寺の南隣にあり、勅額門、御成門、丁字門は狭山不動尊内に移築されています。
霊廟宝塔区域の拡大
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霊廟霊屋区域の拡大
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・台徳院霊廟の惣門 奥にみえるプリンスパークタワーの場所に宝塔がありました。
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仁王像は明治以降に他から持ってきたもので霊廟のものではありません。
・台徳院霊廟の勅額門(狭山不動尊内) 虹梁等の彩色細工が精巧です。
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・台徳院霊廟の御成門(狭山不動尊内)
正面
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左前から
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天井画
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・台徳院霊廟から祟源院霊牌所に向かう通用門(丁子門)(狭山不動尊内)
門の側方の飾りが丁字であることからこの名称になっています。秀忠正室 祟源院は、淀君の妹の江姫であり大河ドラマの主人公になりました。
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・水盤舎(文献②) 現存せず
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・霊廟霊屋前の中門(文献②) 現存せず
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・霊廟霊屋拝殿(文献②) 現存せず
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同部斗供(文献②) 現存せず
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・霊廟宝塔覆屋(文献②) 現存せず
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覆屋内部(文献②)
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・在りし日の台徳院宝塔霊屋内 木造宝塔(増上寺絵葉書を使用させていただきました)現存せず
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・台徳院の宝塔(焼失)の地下部(石室)(文献①)
栃木の大谷石が使われています。
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増上寺北廟にあった六代将軍家宣言公(文昭院)のものより(下図)もかなり簡素であることがわかり、寛永期のものはこのような形態であり、日光東照宮の家康公の初代宝塔(多宝塔)の地下部も同じような構造であったと考えられます。
(比較図)文昭院の石室
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*台徳院霊廟霊屋のレプリカ
増上寺宝物展示室にあります。これは、東京美術学校(現 東京芸術大学)よって作成され、明治43年ロンドンで開催された日英博覧会に出展され、英国王室に寄贈されました。
ロイヤルコレクションとなっていますが、平成26年にエリザベス女王陛下から増上寺に長期貸与されて、現在も増上寺で公開されています。
*祟源院(秀忠公正室 江姫)のお墓(宝塔)はどこに?
前述の地図では、台徳院霊廟霊屋の北に「崇源院の霊牌所」とありますが、宝塔はありません。
江姫は、秀忠公の没する6年前の寛永三年九月に亡くなっています。増上寺墓地で火葬され、その骨を石箱に納めて石柩を塔身とした宝篋印塔が増上寺北廟墓地に建てられたとされます。秀忠公が亡くなり、その霊廟が建てられた際に付帯して祟源院霊牌所も作られました江姫の宝篋印塔がその後破損して、屋根型八角堂の宝塔が造られ、その場所が寺では「祟廟跡」と伝わってきました(下図)。
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江姫の墓は言い伝えのみで明確な証拠がありませんでしたが、昭和33年の調査で、「祟廟跡」八角堂の宝塔の地下に、宝篋印塔がパーツに分かれて埋まっていました。
この宝篋印塔の総高は515㎝と巨大なもので、下から2段目の四角の部分の内部が空洞になっており、檜の箱が入れてあり、内部には火葬骨と木炭が入っていました。
四角部分には、「祟源院殿一品大夫昌誉大禅定尼尊儀・・・・寛永三年九月十五日・・・」と刻まれて、崇源院のものであることが確定されました。
直方体の石棺部は、現在は恵林寺宝物館(山梨県)で保存・展示されている。増上寺は戦火の被害で所沢に移動し、その後恵林寺に譲渡されたと考えられる。この石棺は恵林寺の開山堂前に長い間置かれていたが、平成26年に崇源院のものであることが判明し、宝物館へ移動となった。正面に「祟源院殿一品大夫昌誉大禅定尼尊儀」と刻まれていることが確認できる。
地中部に埋まっていた宝篋印塔(江姫の墓)
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現在の増上寺将軍家墓地内の江姫の八角屋根の石造宝塔
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台徳院の遺骸も合祀されています。
祟源院(秀忠公正室)の宝篋印塔が5mを超える巨大なものであったため、後の時代にその後方につくられた将軍(おそらく十二代将軍家慶公)の宝塔を建てるにあたり、問題ありとされて宝篋印塔は分解され、石造の宝塔に変わった可能性があります。六代家宣公(文昭院)の宝塔からは外れていますので問題ありませんし、倹約の為、銅製宝塔から石造宝塔になるのは七代家継公(八代吉宗公が造立)からになりますので、その前の六代将軍の没までに作られた宝塔であれば銅製になりますので、祟源院の石造宝塔は十二代将軍の亡くなった頃のものと推測されます。
*将軍家の菩提所である増上寺
天正十八(1590)年、家康公の江戸御打ち入り(関東御入国)の際に、当時の増上寺の住職であった源誉存応に家康公が帰依したことに始まります。その後、関東十八壇林の首座となっています。
参考文献
①鈴木尚、矢島恭介、山辺知行、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』、東京大学出版会、1967
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
二代将軍以降は、家康公と異なり純粋な仏式で葬儀が行われ、家康の「東照大権現」という神仏習合の名前とは異なり、院号になります(以降の将軍も同じですが、十五代慶喜公は例外)。二代秀忠公は「台徳院」と呼ばれ、正室のお江の方(祟源院)とともに徳川家の菩提寺である増上寺(浄土宗)に、三代将軍家光公によって作られました。また、三代家光公の霊廟は、日光の東照宮の隣と上野の寛永寺の二カ所に造られました。七代将軍までの霊廟は、増上寺または寛永寺に単独で建造されましたが、八代将軍吉宗公以降は、自身の意向(倹約を奨励し、新規のお霊屋建造を禁止)で先の将軍の霊廟に合祀という形になってきます。台徳院霊廟は残念ながら、先の戦争で焼失、宝塔は木造であったため焼失しており、その後正確な宝塔のあった場所は不明になっていましたが、昭和33~35年の発掘調査で明らかになりました。秀忠公の御遺骸は、祟源院石造宝塔に合祀されました。
・戦前の台徳院霊廟(増上寺南廟)の地図
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惣門は戦火を逃れ、現在も増上寺の南隣にあり、勅額門、御成門、丁字門は狭山不動尊内に移築されています。
霊廟宝塔区域の拡大
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霊廟霊屋区域の拡大
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・台徳院霊廟の惣門 奥にみえるプリンスパークタワーの場所に宝塔がありました。
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仁王像は明治以降に他から持ってきたもので霊廟のものではありません。
・台徳院霊廟の勅額門(狭山不動尊内) 虹梁等の彩色細工が精巧です。
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・台徳院霊廟の御成門(狭山不動尊内)
正面
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左前から
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天井画
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・台徳院霊廟から祟源院霊牌所に向かう通用門(丁子門)(狭山不動尊内)
門の側方の飾りが丁字であることからこの名称になっています。秀忠正室 祟源院は、淀君の妹の江姫であり大河ドラマの主人公になりました。
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・水盤舎(文献②) 現存せず
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・霊廟霊屋前の中門(文献②) 現存せず
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・霊廟霊屋拝殿(文献②) 現存せず
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同部斗供(文献②) 現存せず
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・霊廟宝塔覆屋(文献②) 現存せず
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・在りし日の台徳院宝塔霊屋内 木造宝塔(増上寺絵葉書を使用させていただきました)現存せず
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・台徳院の宝塔(焼失)の地下部(石室)(文献①)
栃木の大谷石が使われています。
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増上寺北廟にあった六代将軍家宣言公(文昭院)のものより(下図)もかなり簡素であることがわかり、寛永期のものはこのような形態であり、日光東照宮の家康公の初代宝塔(多宝塔)の地下部も同じような構造であったと考えられます。
(比較図)文昭院の石室
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*台徳院霊廟霊屋のレプリカ
増上寺宝物展示室にあります。これは、東京美術学校(現 東京芸術大学)よって作成され、明治43年ロンドンで開催された日英博覧会に出展され、英国王室に寄贈されました。
ロイヤルコレクションとなっていますが、平成26年にエリザベス女王陛下から増上寺に長期貸与されて、現在も増上寺で公開されています。
*祟源院(秀忠公正室 江姫)のお墓(宝塔)はどこに?
前述の地図では、台徳院霊廟霊屋の北に「崇源院の霊牌所」とありますが、宝塔はありません。
江姫は、秀忠公の没する6年前の寛永三年九月に亡くなっています。増上寺墓地で火葬され、その骨を石箱に納めて石柩を塔身とした宝篋印塔が増上寺北廟墓地に建てられたとされます。秀忠公が亡くなり、その霊廟が建てられた際に付帯して祟源院霊牌所も作られました江姫の宝篋印塔がその後破損して、屋根型八角堂の宝塔が造られ、その場所が寺では「祟廟跡」と伝わってきました(下図)。
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江姫の墓は言い伝えのみで明確な証拠がありませんでしたが、昭和33年の調査で、「祟廟跡」八角堂の宝塔の地下に、宝篋印塔がパーツに分かれて埋まっていました。
この宝篋印塔の総高は515㎝と巨大なもので、下から2段目の四角の部分の内部が空洞になっており、檜の箱が入れてあり、内部には火葬骨と木炭が入っていました。
四角部分には、「祟源院殿一品大夫昌誉大禅定尼尊儀・・・・寛永三年九月十五日・・・」と刻まれて、崇源院のものであることが確定されました。
直方体の石棺部は、現在は恵林寺宝物館(山梨県)で保存・展示されている。増上寺は戦火の被害で所沢に移動し、その後恵林寺に譲渡されたと考えられる。この石棺は恵林寺の開山堂前に長い間置かれていたが、平成26年に崇源院のものであることが判明し、宝物館へ移動となった。正面に「祟源院殿一品大夫昌誉大禅定尼尊儀」と刻まれていることが確認できる。
地中部に埋まっていた宝篋印塔(江姫の墓)
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現在の増上寺将軍家墓地内の江姫の八角屋根の石造宝塔
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台徳院の遺骸も合祀されています。
祟源院(秀忠公正室)の宝篋印塔が5mを超える巨大なものであったため、後の時代にその後方につくられた将軍(おそらく十二代将軍家慶公)の宝塔を建てるにあたり、問題ありとされて宝篋印塔は分解され、石造の宝塔に変わった可能性があります。六代家宣公(文昭院)の宝塔からは外れていますので問題ありませんし、倹約の為、銅製宝塔から石造宝塔になるのは七代家継公(八代吉宗公が造立)からになりますので、その前の六代将軍の没までに作られた宝塔であれば銅製になりますので、祟源院の石造宝塔は十二代将軍の亡くなった頃のものと推測されます。
*将軍家の菩提所である増上寺
天正十八(1590)年、家康公の江戸御打ち入り(関東御入国)の際に、当時の増上寺の住職であった源誉存応に家康公が帰依したことに始まります。その後、関東十八壇林の首座となっています。
参考文献
①鈴木尚、矢島恭介、山辺知行、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』、東京大学出版会、1967
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
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