北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

上州の宮彫師たち(上州彫工集団)とその周辺

2018年10月15日 | 総論 
Gooブログ「北信濃寺社彫刻と宮彫師」(2018年05月13日)の内容をこちらに引っ越ししました。上州彫工集団の概論を理解するのにお使いください。

 埼玉妻沼の郷土史家で、妻沼聖天山歓喜院のガイド団体(あうんの会)の阿部修治氏から了解を得て、北関東で寺社彫刻文化を広げた上州彫工集団についての講演資料(平成25年7月)を、一部改変して掲載させて頂きます。上州彫工集団の入門編としてご利用ください。

・妻沼聖天山本殿(国宝)右側面





●現代-時代の変革と寺社彫刻の衰退

 日頃、あまり世間の注目を集めることもなく、ひっそりと歴史(とき)の流れを見つめ続けている寺社彫刻には、建立当時の地域住民の熱い想いや、心意気が込められている。とはいえ、時が流れ、世の中の仕組みや人々の暮らしぶり、そして先人の想いまでもが変わっていくことに歯止めはかけられない。特に、平安末期から鎌倉期以来、700年に亘り延々と続いた武家社会を終わらせた明治政府は、それまでの世の中の仕組みを一気に変換させ、まさに、国の在り方そのものをドラスティックに改革することから始まった。その一環として執られた政策の一つに、明治元年に発令された神仏分離(判然)令がある。徳川封建制の規範に取って代わり、天皇の絶対的優位性確立のためには、歴史的皇統を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするという、新しい精神規範として、いわゆる「廃仏毀釈」の動きが発生し、瞬く間にその波が全国に広まっていったのである。この時に、わが国古来の文化的遺産の廃滅、または海外への流出といった現象が起きたことは衆知のとおりである。しかし、その陰にあって忘れてならないのが、木造建築から生まれた彫刻技術と、芸術・文化の衰退という負の遺産もあったということである。こうした世情の大改革を経て、次第に寺社彫刻への関心が薄れ行き、名人・名工達が匠の技を発揮する機会をも失い、寺社彫刻に懸けた先人たちの想いと共に、その成果でもあった歴史的遺構までもが忘れられがちになっているのが現状である。

●江戸文化の華・装飾建築と名人・名工

 寺社建築が、華美な装飾建築へと変化する中で、目覚しい彫刻技術の発達を遂げたのが、日光東照宮の建築様式であった。「第二の東照宮は出現せず」と言われた「日光東照宮」の装飾建築は、庶民の芸術・文化への関心を一躍惹きつけることとなった。さらに、江戸時代中期になると、北武蔵国妻沼郷に寺社建築職人達はもとより、庶民の目をあっと言わしめた「装飾建築物」が出現したのであった。享保の時代に始まり、安永年間までの59年をかけて再建された、権現造りの装飾建築「妻沼聖天宮(堂)」は、後に、「江戸時代中期の建築装飾技法の頂点」、「塗装・彫刻技術は、日光の社寺建築に劣らぬ密度の濃いもの」等々の評価を受け、江戸中期を代表する装飾建築物とまで評価される装飾建築物だったのである。

 この「妻沼聖天堂」の再建は、「多くの民衆の力により、庶民信仰の象徴として造られた建造物として、まさに国民の宝と呼ぶに相応しいものである」として、建立から250年を経た平成24年(2012)7月、国宝に指定されるに至ったのであった。

 その「江戸文化の華」を実現させ得るだけの高い技術を持った名工たちは、一部を除いて殆どが、上州の彫物師たちの手になるものだったということは実は知られていないのである。彼ら匠たちは、「妻沼聖天堂」の装飾建築を成し遂げた後、こぞって各地に招かれ、匠の技を発揮すると共に、北関東一帯に多くの足跡を残している。

・妻沼聖天山本殿(国宝)後面





●寺社彫刻を飾った上州の匠(たくみ)たち

 平成15年(2003)から23年にわたる、9年の月日をかけた妻沼聖天堂の保存大修復工事は、それまでほとんど明かされずに来た聖天堂の再建の経緯、建築物としての意味合い、後の寺社建築に及ぼした構造・技法・職人技などと、実に多くの影響を与えていたことが分かったのであった。つまり、江戸中期以降、関東一帯にかけての寺社建築はもとより、各地の山車彫刻・家具調度品などにおいて、芸術的な文化遺産を生み出した匠(職人)たちの多くに、その根幹にあるのが上州の彫物師たちであることに気付くのである。

 なぜ上州という地区に、寺社の彫物という一種の芸術職人の集団が形成されていったのか、いつ・誰によって・どのような経緯を経て、「彫物師の里」が築かれていったのか、などについて話を進め、さらに、地元に深い関わりのある、名彫工・弥勒寺音八についてもとり上げる。

・世良田東照宮本殿(日光東照宮から移築、群馬県太田市)





●「上州彫物師集団」の祖-高松又八(邦教)

 初代の日光東照宮と、再建された現存の東照宮を見比べてみると、その建築様式の華麗さ・荘厳さは一目瞭然、誰の目にも区別が付くものと思われる。この豪華絢爛たる装飾建築様式への変化の波に乗り、大きく飛躍すると共に、公儀彫物師として大活躍していったのが名人・「高松又八」とその弟子達だったのである。高松又八の出身地、上州花輸村・祥禅寺の過去帳によると、沼田城主・真田昌幸の家臣、「蜷川親武佐右衛門」という人物が、負傷により花輪村に引き移り、その子である「左平太」が、江戸の名彫工「島村俊元」の下で修業し、彫物師として独立した後、寛文年間(1661~72)頃には「高松又八」と改名し、「公儀彫物師」を拝命したと伝わる。この高松又八こそが、「上州彫物師集団」の誕生に大きく貢献した人物であり、その後、彼が育成した多くの門弟たちが、明治期に至るまで、各地で優れた彫物師群を育て上げていったのである。そうした意味においては、江戸期以降の彫物師を語る上で、高松又八は切っても切れない最重要人物だといっても差し支えないだろう。高松又八の足跡には、宝永6年(1709)の上野寛永寺・常憲院(5代・綱吉公)、正徳3年(1713)の芝・文照院(6代・家宣公)、享保16年(1731)の日光大猷院(3代・家光公)などの徳川将軍家霊廟等々、多数あるものの、その殆どが焼失している結果、「幻の名工」とも言われている。

・桐生と花輪の間の地(渡良瀬川)



・高松又八の弟子たち





●日光東照宮と匠の里「花輪郷」

 日光参詣道の裏街道(通称 「銅山(あかがね)街道」)に沿った花輪村の若者たちにとって、日光東照宮や大猷院(たいゆういん)で、その名を知られた「高松又八」は、まさに郷土の大先輩、憧れと尊敬の念もって惹かれていったであろうことは想像に難くない。山と渓谷が織り成す「銅山街道」沿いの花輪村周辺では、農・林業以外にこれといった産業もなく、当時の若者たちが、「彫物師」として大成した先輩、「蜷川左平太」(=高松又八)の後を追うように、彫師の道へと進んでいき、その結果、花輪村周辺から多くの名彫物師が輩出され、遂には、花輪一帯が「匠の里」と言われるまでになっていったのである。同時に、この「銅街道」は、花輪一帯の「匠の里」から育った多くの彫師たちを、関東一帯の寺社建築現場へと旅立たせる幹線ルートでもあったのである。因みに、足尾から産出した銅は、最終的には「銅山街道」の終点、利根川の「平塚河岸」、あるいは前島河岸(元禄期以降)まで運ばれ、ここから船で江戸へ運ばれていった。同じルートを経て、舟便を利用して、南関東方面へと出向いていった上州の彫師たちも多数いたのではないだろうか。

・妻沼聖天山本殿





●「黒川郷彫物師集団」の祖-石原吟八郎

 黒川郷と八黒保根・東から大間々にかけての渡良瀬川流域一帯(現桐生市・みどり市)を指す。名工・高松又八に師事した11名の高弟のうち、同郷の石原吟八郎は、師匠(又八)譲りの技を磨き、遂には「上州の名人」と謳われるようになる。又八・吟八郎、二人の名彫工を先輩に持つ花輪村近辺の若者たちが、ごく自然な流れで彫師の道へと進み、その流れが石原吟八郎を中心とした彫物師集団へと結実し、後に、「黒川郷彫物師集団」と称されるようになっていった。

 吟八郎の出世作は、享保9年(1724)の本庄(埼玉県)・金讃神社と言われており、享保16年(1731)には高松又八と共に、日光東照宮・大猷院(3代・家光公)霊廟の修復、享保20年(1735)に八妻沼聖天宮の再建に着手し、奥殿の竣工(1744)と同時期に、桐生・青蓮寺本堂の竣工(1744)、さらに江南・諏訪神社本殿の竣工(1746)と、この頃の吟八郎は精力的に活躍している。しかし、寛延年間(1748~50)頃から重い病を患うようになったと伝わり、聖天宮の造営工事中断を境に、聖天宮工事の一線からは身を退いている。吟八郎の足跡は、宝暦7年(1757)の高崎・八幡宮の古文書記録以降、見られなくなるが、「黒川郷彫物師集団」を誕生させ、多くの上州彫物師輩出の礎を築いた人物こそが吟八郎だった。石原系の流れを汲んだ彫物師たちは、上州、北武蔵を中心に関東一帯に多くの影響を及ぼし、その足跡は今も多く残されている。

 明和4年(1767)没し、師の高松又八、弟子・石原常八らと共に、故郷花輪村の祥禅寺に眠る

・高崎 八幡宮本殿







●「上田沢村彫物師集団」の祖-関口文冶郎

 関口文冶郎は、享保16年(1731)、上州上田沢村に生まれ、10代のはじめには石原吟八郎の仕手となり、妻沼聖天宮造営工事に参加している。延享4年(1747)銘の黒保根・医光寺の棟札には、僅か16歳の文治郎の名があり、本堂内前縁、大間には宝暦6年(1756)銘、文治郎作といわれる両面透かし彫りの欄間彫刻18枚が残っている。名工・文治郎が、若くして天賦の才を遺憾なく発揮して完成させたこの大欄間彫刻は、延享4年から宝暦6年にかけ、彼が黒保根にこもり、ひたすらこの欄間彫刻制作に励んでいたものと考えられる。10代初期に参加した国宝・妻沼聖天堂を嚆矢(こうし)として、30代初めに手がけた重文・熱田神社(長野県)、そして最晩年の重文・榛名神社など、多くにその名を残し、「上州の甚五郎」とまで謳われている。文治郎の仕事は、初期の作品に比べ、年季が増すにつれて、写実性を超えた細やかさ・迫力などが、一際きわ立っていくかのようにすら感じられ、大きな仕事をなし終えて、自信をつけた一人の職人が、一気に高みに向けて飛躍していった様を見るかのような感慨を受ける。76歳で生涯を閉じるまで精力的に活躍し、亡くなる前年の文化3年(1806)には、榛名神社・拝殿海老虹梁に迫真の龍を遺している。

 妻沼聖天宮工事の後、20代にして独立した文治郎の下では、上田沢村を中心とした「上田沢村彫物師集団」が誕生し、以後、師・石原吟八郎を祖とする「黒川郷彫物師集団」と、文治郎の「上田沢村彫物師集団」を総称して、「上州彫物師集団」と呼ばれるようになっていった。そうした大集団の祖・高松又八を原点とした上州の彫物師たちは、その後、関東周辺の寺社建築はもとより、職人の系譜にも多くの影響と足跡を残していったのである。

・医光寺(群馬県)本堂内 欄間



・熱田神社(長野県)本殿





●花輪の名工-石原「常八」三代

 宝暦年代(1751~1763)以降、上州花輪村では全国に類を見ないほど、多くの彫物師を輩出した「彫物師の里」が誕生している。その中で、石原吟八郎に師事した石原常八雅詖(まさとも)を初代とする「常八」三代に亘る活躍は、一際目立つ存在としてその名を留めている。初代・常八雅詖の作品は、16歳で棟札に名を記した弟子の桑原新蔵と手がけた、高尾山の飯縄権現堂(安永9年(1780))以外には見当たらない。2代目常八主信(もとのぶ)初めて棟札に名を連ねた代表作が、文政2年(1819)の栃木・野木神社を手掛けている。常八主信は、常八三代の中では最も多くの作品を残し、後年、弥勒寺音八、武士伊八郎(「波の伊八」)と共に、「名工三八」と謳われている。3代目常八常(恒)蔵主計(主利とも)は、安政5年(1858)の羽生・須影八幡奥殿に、本殿建設工事の様子を表現した独創的な胴羽目彫刻を残している。

 花輪村を拠点として、三代に亘り活躍した名工・常八三代ながら、不思議なことに、故郷花輪村に残る作品は、二代目・常八による大蒼院本堂の欄間彫刻のみである。さらに、三代目・常八には三人の息子がありながら、誰にも石原家を継がせることなく、自分の代で彫師・常八に終止符をうっている。この三人の息子たちは、いずれも彫師の道を継ぎ、第1子・改之助は尾島・高沢家に養子に入り、高沢改之助として宮内庁彫物師を務めている。第2子・歓次郎は藪塚・岸亦八に師事し、のちに高松姓を名乗り横浜で家具彫刻の道に進んでいる。第3子・幸作も薮塚・岸家の2代目に師事し、後に岸家・三代目を継承するが、腕の良さを悪用された結果、27歳の若さで亡くなっている。

・石原吟八郎の弟子たち



・野木神社(栃木県)本殿



・宿稲荷神社(群馬県)





●武州で活躍した孤高の名工-前原藤次郎

 初代石原吟八郎の門人で、延享3年(1746)の江南・諏訪神社棟札下書きに師・吟八郎と共に名が残ることから、弟子の中でも腕を見込まれていた一人であったことが窺える。

 秩父・三峰神社本・拝殿や太田市・冠稲荷神社、安永7年(1778)の深谷市・横瀬神社本殿、天明4年(1784)の桶川・泉福寺阿弥陀堂欄間など、上州の彫師ながら埼玉に多くの作品を残した名工。

・熊野大明神本殿(埼玉県深谷)





●日光東照宮「眠り猫」にその名を残す-「星野」三代

 関口文治郎の門人で、宝暦11年(1761)の秩父・三峰神社本殿、宝暦12年の伊那・熱田神社(重文)では文治郎を助け、文政2年(1819)の栃木・野木神社では政八・慶助父子と石原常八2代目・主信と共作している。

 独立後は官工関係の仕事に携わった関係で、彼の銘が残る作品は少ないが、俳人(号。「指高」)としても知られている。

 2代目の啓助甚右衛門は、腕のいい彫師ながら画家(号・「慶助」)としても活動している。

 3代目の理三郎政一は、幕府御用達(官工)として、徳川将軍家霊廟修復の他、天保2年(1831)の日光東照宮・国宝「眠り猫」の修復では、「杉村理三郎」の墨書銘を残している。



●弥勒寺音八の師・藪塚山の神-岸亦八

 上州藪塚(大田市薮塚町)山之神には、花輪の石原系の流れを汲む「藪塚山之神」彫物師一族が誕生している。幕末から明治期にかけ、岸家4代にわたり寺社彫刻で名を残した「岸亦八」とその一族がそれで、土地の人たちは、初代・岸亦八の名から「彫り亦」と呼んでいる。

 初代・岸亦八(旧姓:渡邊亦八)は、熊谷の飯田仙之助に師事した後、27歳で彫師として独立、藪塚山之神村の川岸佐吉の娘婿となり、彫師・岸亦八と名乗る。弘化三年(1846)、54歳の時、公儀彫物師、従六位下・「岸大内蔵藤原義福」と名乗るようになり、作品には「豊琳斎」とも記している。天保十三年(1842)、龍穏寺(埼玉県越生町)経蔵、同所・熊野神社には、「岸豊琳斎藤原義福」の銘を残し、同じく山門(楼門)彫刻には「岸豊琳斎藤原義福」銘のある大作が残っている。嘉永四年(1851)には、3代目・石原常八に協力して妻沼聖天山貴惣門を手がけ、万延元年(1860)、沼田・正覚寺には山門彫刻を残している。文久元年(1861)の妙義神社・総門に掛けられていた奉納額を支える烏天狗の彫刻を作った他、世良田・総持寺総門、太田市・受楽寺山門等々、寺社の顔とも言える各地の山門に、その名を残したのが亦八の特徴といえる。

 3代目石原常八主利の次男・幸作は岸家に婿(岸亦八の孫娘縁組)に入り彫工として活躍し、三男鶴次郎は、岸亦八の下で修行し、故郷の大先輩、名工・高松又八の姓を名乗り、彫師・高松政吉として独立している。

 初代・岸亦八の弟子に、皇居賢所・表玄関車寄せに、菊の御紋章を彫ったことで、当代一の名工と謳われた弥勒寺音八がいる。

・桐生 四丁目の鉾





●境下渕名(伊勢崎市)出身・当代一の名工-弥勒寺音八

 名工・弥勒寺音八は、文政4年(1821)、下渕名で小林音次郎の長男として生まれ、父・音次郎に付いて宮大工の道に進んだが、のちに岸亦八の下で彫工修行に入っており、系譜では、「飯田仙之助/岸大蔵亦八」の流れを汲む武州系の彫師である。

 天保7年(1836)の伊勢崎市・千本木神社の工営記録に、音八の名が初見されており、僅か15歳で記録に名を留めるほどであることから、宮大工としてもそれなりの腕前に達していたものと思われる。音八は、笠間稲荷神社を手がけていた折、優れた技量が認められ、明治新政府から彫刻棟梁を拝命し、皇居賢所に「菊花紋」を彫っている。

 明治20年(1887)、馬喰町の旅館で客死したと伝わる。

 音八の子(銀次郎)は、石川別流の石川信光の娘婿になり、二代石川信光を名乗っている(柴又帝釈天の彫物)。

 「武士(志)伊八郎信由」(通称・波の伊八=宝暦元年(1751)~文政7年(1824))、「石原常八2代目・主信」(天明6年(1786)~文久3年(1863)、弥勒寺音八(文政4年(1821)~明治20年(1887))の三名工は、各々35年の年齢差を隔て、異なった時代に活躍しながら、「名工三八」と呼ばれる名人として、今にその名を残している。音八は、「向松軒梅雪」の号で南画絵師としても活躍したと伝わっている。



*阿部修治氏の話「私の調べたことを、後の人達がつなげて広げていってほしい。」

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