北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

大猷院(三代将軍家光公)の霊廟(日光市)

2021年07月14日 | 総論 
 徳川三代将軍 家光公は、慶安四(1651)年四月に亡くなりました。霊廟は2カ所つくられ、一つは日光の現在の輪王寺大猷院であり、もう一つは上野の寛永寺内の供養塔で享保五(1720)年に焼失しました。家光の希望で、敬愛していた家康公と天海上人の眠る日光山へ遺骸は埋葬されました。寛永寺には、供養塔(遺品、毛髪、爪などを収めた)と位牌所が造られました。
日光の大猷院の配置図


他の将軍のものと比較しますと、霊屋の拝殿・相之間・本殿のラインと 宝塔とその拝殿は同列(日光東照宮)か、平行(台徳院霊廟)に配置されますが、大猷院は宝塔と拝殿のラインが霊屋のラインと直行します。


大猷院の宝塔のラインの延長上には、衛星写真で見ますと天海上人の墓のある慈眼堂があります。家光の宝塔は、東照宮を向いておらず、慈眼堂を向いています。このことは、家光公が天海上人(寛永二十(1643)年に没)を生前にいかに尊敬していたか示すものだと思います。
大猷院と慈眼堂の位置関係-地理院地図(国土地理院)

天海上人は、政僧ではなく、宗教家としての立場を堅持し、失脚者の赦免や減刑をなどを将軍に願いでるような人間味があり、仏教の論議や祈祷によって将軍三代にわたって厚く信任されました。慶長(1613)年、日光山の法主として光明院の座主に任じられました。

家光公の遺命
「生涯東照宮すなわち家康公の神徳を仰徳し給うこと並々ならず、世を終ふるの後も魂は日光山中に鎮まり、朝夕家康公の側近くに侍して仕えまつろうとの意志ゆえ、遺骸をば日光山に送り、慈眼大師堂の傍らに葬るべし」

造営関係者  承応二年(1653)
 御大工頭:大工頭木原木工允義久
 御被官大工 片山三七郎、吉本嘉右衛門
 大棟梁 平内大隅(応勝か)

元禄三年(1690) 霊屋修復
 御大工頭:鈴木長左衛門穂積長頼
      平内大隅齋部政治(応勝の長男、林兵庫正清の兄)
 

・大猷院 仁王門









・大猷院 二天門










・大猷院 夜叉門






・大猷院 唐門








 唐門の後面








・大猷院 霊屋拝殿






・大猷院 霊屋相之間










・大猷院 霊屋本殿










・大猷院 鋳嘉門








・大猷院 宝塔(『日光市史』より)
 現在の宝塔は、銅製であり二代目になります。天和三年に綱吉公により造営されたもので、東照宮の銅製の宝塔(三代目)とほぼ同時期のものだと思います。天和三年の日光地震で初代の石造宝塔(承応元年、家綱公造立)が損壊しました。


・大猷院霊廟が日光山に造営された経緯
 家康公(東照大権現)は別格として、二代秀忠公(台徳院)の霊廟が芝の増上寺に建てられた経緯から、三代目以降も増上寺になるはずでしたが、家光公は自身の死に際に、老中酒井忠勝らを呼んで、自らの遺骸は東叡山(寛永寺)に移し、その後は日光山に埋葬するように指示しました。

・上野の寛永寺と芝の増上寺
 東叡山(上野)は、二代秀忠公が天海上人に上野の台地を寄進し、その後家光によって寛永二(1625)年に将軍家の祈祷寺として寛永寺が建造されました。ちなみに将軍家の菩提寺は、以前から芝の増上寺でした。この寛永寺と日光山の両者を天海上人が兼帯しており、ほぼ一体の寺でした。家光公の遺言から、寛永寺が増上寺と並ぶ菩提寺としての性格を持つようになり、四代、五代将軍の霊廟は寛永寺に作られるようになります。六代将軍家宣公は、芝の台徳院霊廟、増上寺が寛永寺よりも軽んじられていることを懸念し、自身の霊廟は芝の増上寺とし、台徳院霊廟も同様に参詣するように遺言を残しています。六代家宣公はバランスを重視した将軍であったと思います。

・参考文献
①日光市、『日光市史』
②田邊秦:『日光廟建築』、龍吟社、昭和19年
③田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
④浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年






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