四代将軍家綱公(厳有院)の霊廟は、上野の寛永寺にありましたが、戦火で焼失しています。
家綱公は、延宝八(1680)年に亡くなられました。本来であれば、徳川家の菩提寺であった増上寺に霊廟が造営されるはずでしたが、父家光公の供養塔のある寛永寺に葬られることを希望したとされます。
その理由として、家綱公の誕生にあるとされます。寛永十七(1640)年世嗣がいなかった家光公は、天海に祈祷を依頼し、その翌年に授かった男児が家綱公になります。家綱公も自身の誕生から天海への思いが強く増上寺よりも寛永寺を選んだとされます。
寛永寺の徳川家の墓所の図を示します。赤で塗った部分は合祀の形をとった将軍らの宝塔になります。
*八代吉宗公以降は、質素倹約の為、霊屋(拝殿、石の間、本殿)建造を禁止し、宝塔は七代家継公から銅製から石造に戻しました。
合祀された将軍の宝塔も示したもの。十一代将軍家斉公(文恭院)は厳有院霊廟に合祀されましたが、正確な配置がわからず、図には書き込まれていません。
厳有院の霊廟、および合祀された将軍の宝塔
現存しているものは厳有院の勅願門と水盤舎があります。
勅額門
厳有院 鐘楼(文献②) 現存せず
厳有院 霊廟前中門(文献②)
厳有院 霊廟拝殿
厳有院 鋳抜門と宝塔(現存)
合祀 浚明院(十代将軍家治公、天明六年没)の石造宝塔
合祀 文恭院(十一代将軍家斉公、天保十二年没)の石造宝塔
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
家綱公は、延宝八(1680)年に亡くなられました。本来であれば、徳川家の菩提寺であった増上寺に霊廟が造営されるはずでしたが、父家光公の供養塔のある寛永寺に葬られることを希望したとされます。
その理由として、家綱公の誕生にあるとされます。寛永十七(1640)年世嗣がいなかった家光公は、天海に祈祷を依頼し、その翌年に授かった男児が家綱公になります。家綱公も自身の誕生から天海への思いが強く増上寺よりも寛永寺を選んだとされます。
寛永寺の徳川家の墓所の図を示します。赤で塗った部分は合祀の形をとった将軍らの宝塔になります。
*八代吉宗公以降は、質素倹約の為、霊屋(拝殿、石の間、本殿)建造を禁止し、宝塔は七代家継公から銅製から石造に戻しました。
合祀された将軍の宝塔も示したもの。十一代将軍家斉公(文恭院)は厳有院霊廟に合祀されましたが、正確な配置がわからず、図には書き込まれていません。
厳有院の霊廟、および合祀された将軍の宝塔
現存しているものは厳有院の勅願門と水盤舎があります。
勅額門
厳有院 鐘楼(文献②) 現存せず
厳有院 霊廟前中門(文献②)
厳有院 霊廟拝殿
厳有院 鋳抜門と宝塔(現存)
合祀 浚明院(十代将軍家治公、天明六年没)の石造宝塔
合祀 文恭院(十一代将軍家斉公、天保十二年没)の石造宝塔
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
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