五代将軍綱吉公は、宝永六(1709)年一月に亡くなられています。その霊廟は、上野寛永寺の厳有院(四代将軍 家綱公)の霊廟の隣にあります。寛永寺は東叡山と呼ばれ三代家光公が創建したもので、東の比叡山という名前からも比叡山延暦寺を倣って、初代トップであった天海上人が主導して作られました。四代家綱公には子がいなかったので、弟の綱吉公が将軍を継いでいます。綱吉公の生母は桂昌院で、その宝塔は増上寺から狭山不動尊内に移されています。桂昌院は信心深く、その意を汲んだ綱吉公は、仏教の放生思想から発した「生類憐みの令」、広く仏教、神道を支持して、多くの寺院・神社・聖堂の建築や修繕をしています。各地に「綱吉公寄進のもの」が多いのもそのためです。日本人の小さな生き物も大事にする精神は綱吉公の影響が大きかったのではないでしょうか。
綱吉公の遺命も「東叡山に葬るべし」ということで、増上寺の反発もあったかと思いますが、寛永寺に霊廟が建造されました。(文献①)
常憲院の霊廟(赤ぬきは、後からの合祀) 文献②を参考に作成
・常憲院霊廟の勅額門(現存)
獅子の顔つきも厳有院(四代家綱公)勅額門のものとだいぶ異なります。
梁には龍がほられ、精巧になってきます。
・常憲院水盤舎(文献②)
・常憲院霊屋前の中門(現存せず)(文献②)
・常憲院霊屋拝殿(現存せず)(文献②)
・常憲院の銅製宝塔(文献②) 宝塔内には「正観音」が安置されているとのことです(文献①)。
・合祀された有徳院(八代将軍吉宗公)の石造宝塔(文献②)
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
③高埜利彦:『日本の歴史⑬ 元禄・享保の時代』、集英社、1992年
綱吉公の遺命も「東叡山に葬るべし」ということで、増上寺の反発もあったかと思いますが、寛永寺に霊廟が建造されました。(文献①)
常憲院の霊廟(赤ぬきは、後からの合祀) 文献②を参考に作成
・常憲院霊廟の勅額門(現存)
獅子の顔つきも厳有院(四代家綱公)勅額門のものとだいぶ異なります。
梁には龍がほられ、精巧になってきます。
・常憲院水盤舎(文献②)
・常憲院霊屋前の中門(現存せず)(文献②)
・常憲院霊屋拝殿(現存せず)(文献②)
・常憲院の銅製宝塔(文献②) 宝塔内には「正観音」が安置されているとのことです(文献①)。
・合祀された有徳院(八代将軍吉宗公)の石造宝塔(文献②)
参考文献
①浦井正明:『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂、1983年
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年
③高埜利彦:『日本の歴史⑬ 元禄・享保の時代』、集英社、1992年
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