東京葛飾区の柴又は、山田洋次監督、渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズで知られている。
柴又の帝釈天は、正式には題経寺(日蓮宗)の帝釈堂に祀られている。
帝釈堂の内殿(別名 喜見城)の外周には10枚の素晴らしい胴羽目彫刻があり、彫刻ギャラリーとして公開されている。
帝釈堂は西を向き。
ギャラリー入口から入ってすぐの南面(内殿右面) 胴羽目は三枚
まわって内殿後面(東面、胴羽目四枚)から内殿左面(北面、胴羽目三枚)
・帝釈天の主たる建造物は花輪の石原系彫工、武志伊八郎四代の関係が関わった。
明治30年(1897) 二天門 -彫刻師:加藤勘蔵、高石仙蔵(四代武志伊八郎信明)/設計 林門作正啓
大正四年(1915)帝釈堂内殿-彫刻師:高石仙蔵、高橋貴一(高澤改之助の弟子)/設計 林門作正啓。高石仙蔵は明治41年(1908)に亡くなっている。
昭和四年(1908)帝釈堂拝殿-彫刻師:加藤寅之助(加藤勘蔵の子)/設計 三村規七
横浜の加藤家(勘蔵、寅之助)は三代石原常八主利の二男 高松政吉(横浜で活躍)と関係があるとされ、高橋貴一は主利の長男の改之助(石原知信)の弟子になる。主利の三男は岸亦八家に婿で入る。
阿久津稲荷神社拝殿(群馬県太田市)は、棟梁が林門作正啓(林兵庫家)、彫物師は 尾島住であった高澤改之助が担当して明治十三年(1880)に完成している(『一世日記』(白石家))。
帝釈天二天門はその17年後に、林門作の設計の元に、横浜住吉町の加藤勘蔵と高石仙蔵が関わった。改之助は明治24年に亡くなっている。
帝釈堂内殿は、林門作の設計、彫刻で改之助の弟子の高橋貴一が参加している。
加藤勘蔵、加藤寅之助は、高澤改之助に関係した彫刻師と考えたいが調査中。
・胴羽目十枚(法華経説話彫刻)の製作
当初の題材は群猿図で、下図が横山大観に依頼された。その下図は屏風になって大客殿で公開されている。
しかし、計画が変更になり題材が法華経説話になった。
「法華経28品」(日蓮宗で最重要とされるお釈迦様の教え)を描いた立本寺の本法法華経曼荼羅を元に、
高井英州に図案を依頼した(寺伝)。
最初に製作されたのが、第10面の「法師守護(陀羅尼品、法華経第26品)」で、彫刻師は加藤寅之助になる。
大正十二年(1923)の関東大震災で、第10面の胴羽目1枚が難を逃れ残ったが、他の9枚のケヤキ板は製作者に送った直後の震災で灰となってしまった。
大客殿の廊下に胴羽目の原型彫刻が10枚飾られている。
第5面の胴羽目「多宝塔出現(見宝塔品、法華経第11品)」に注目すると
原型彫刻は、石川銀次郎(昭和6年、79歳)
完成品の胴羽目は、同一の石川銀次郎で「二世信光八十翁 石川銀次郎作」とあり、原型制作後の翌年に完成したことがわかる。
原型彫刻と完成品を比較すると
第1面 完成品 金子光清 ― 原型銘 「光清」(同一人物)
第2面 木嶋江運 ― 「江運」(同一)
第3面 石川信光 ― 「石川信光」(同一)
第4面 横谷光一 ― 「光一」(同一)
第5面 石川銀次郎― 「石川銀次郎」(同一)
第6面 加府藤正一 ≠ 「木島正夫」
第7面 山本一芳 ― 「一芳」(同一)
第8面 今関光次 ― 「光次」(同一)
第9面 小林直光 ― 「直光」(同一)
第10面 加藤寅之助 ≠ 「木島正夫」
となり、異なった人物が原型彫刻を製作したのが、第6,10面の2つになり、ともに木島正夫が製作している。
前述したように、第5面の原型彫刻は昭和6年に造られており、
第10面の原型彫刻は、大正11年の完成品を元に後から木島正夫が作った。
第6面であるが、加府藤正一(本名 波次郎)は製作途中で胸の病(結核か)で亡くなり、今関光次、石川信光、大塚光造らが引き継いだとされ、加府藤正一の胴羽目は第10面と同じように震災を逃れていた可能性がある。加府藤正一は加藤寅之助の類者か。
完成品の作者である、山本一芳、小林直光は当初彫る予定であった本所の牧田さんが亡くなったので引き継いだとされる。この「本所の牧田さん」は牧田巳之輔矩中(後藤巳之輔、木嶋江運の師)の関係者であろうか。
最後の胴羽目 第9面が昭和9年11月に完成している。
まとめると
大正11年 第10面(加藤寅之助)
昭和6年 原型彫刻制作
昭和6-9年 第10面以外の胴羽目が製作(第6面は不明)。
となる。
参考資料
『帝釈天題経寺建造物調査報告書』(葛飾区教育委員会発行、令和四年)
『帝釈堂 法華経説話彫刻』 (帝釈天題経寺発行)
*棟札では、全て肩書きが「彫刻師」のため、ここでは彫工ではなく彫刻師とした。
柴又の帝釈天は、正式には題経寺(日蓮宗)の帝釈堂に祀られている。
帝釈堂の内殿(別名 喜見城)の外周には10枚の素晴らしい胴羽目彫刻があり、彫刻ギャラリーとして公開されている。
帝釈堂は西を向き。
ギャラリー入口から入ってすぐの南面(内殿右面) 胴羽目は三枚
まわって内殿後面(東面、胴羽目四枚)から内殿左面(北面、胴羽目三枚)
・帝釈天の主たる建造物は花輪の石原系彫工、武志伊八郎四代の関係が関わった。
明治30年(1897) 二天門 -彫刻師:加藤勘蔵、高石仙蔵(四代武志伊八郎信明)/設計 林門作正啓
大正四年(1915)帝釈堂内殿-彫刻師:高石仙蔵、高橋貴一(高澤改之助の弟子)/設計 林門作正啓。高石仙蔵は明治41年(1908)に亡くなっている。
昭和四年(1908)帝釈堂拝殿-彫刻師:加藤寅之助(加藤勘蔵の子)/設計 三村規七
横浜の加藤家(勘蔵、寅之助)は三代石原常八主利の二男 高松政吉(横浜で活躍)と関係があるとされ、高橋貴一は主利の長男の改之助(石原知信)の弟子になる。主利の三男は岸亦八家に婿で入る。
阿久津稲荷神社拝殿(群馬県太田市)は、棟梁が林門作正啓(林兵庫家)、彫物師は 尾島住であった高澤改之助が担当して明治十三年(1880)に完成している(『一世日記』(白石家))。
帝釈天二天門はその17年後に、林門作の設計の元に、横浜住吉町の加藤勘蔵と高石仙蔵が関わった。改之助は明治24年に亡くなっている。
帝釈堂内殿は、林門作の設計、彫刻で改之助の弟子の高橋貴一が参加している。
加藤勘蔵、加藤寅之助は、高澤改之助に関係した彫刻師と考えたいが調査中。
・胴羽目十枚(法華経説話彫刻)の製作
当初の題材は群猿図で、下図が横山大観に依頼された。その下図は屏風になって大客殿で公開されている。
しかし、計画が変更になり題材が法華経説話になった。
「法華経28品」(日蓮宗で最重要とされるお釈迦様の教え)を描いた立本寺の本法法華経曼荼羅を元に、
高井英州に図案を依頼した(寺伝)。
最初に製作されたのが、第10面の「法師守護(陀羅尼品、法華経第26品)」で、彫刻師は加藤寅之助になる。
大正十二年(1923)の関東大震災で、第10面の胴羽目1枚が難を逃れ残ったが、他の9枚のケヤキ板は製作者に送った直後の震災で灰となってしまった。
大客殿の廊下に胴羽目の原型彫刻が10枚飾られている。
第5面の胴羽目「多宝塔出現(見宝塔品、法華経第11品)」に注目すると
原型彫刻は、石川銀次郎(昭和6年、79歳)
完成品の胴羽目は、同一の石川銀次郎で「二世信光八十翁 石川銀次郎作」とあり、原型制作後の翌年に完成したことがわかる。
原型彫刻と完成品を比較すると
第1面 完成品 金子光清 ― 原型銘 「光清」(同一人物)
第2面 木嶋江運 ― 「江運」(同一)
第3面 石川信光 ― 「石川信光」(同一)
第4面 横谷光一 ― 「光一」(同一)
第5面 石川銀次郎― 「石川銀次郎」(同一)
第6面 加府藤正一 ≠ 「木島正夫」
第7面 山本一芳 ― 「一芳」(同一)
第8面 今関光次 ― 「光次」(同一)
第9面 小林直光 ― 「直光」(同一)
第10面 加藤寅之助 ≠ 「木島正夫」
となり、異なった人物が原型彫刻を製作したのが、第6,10面の2つになり、ともに木島正夫が製作している。
前述したように、第5面の原型彫刻は昭和6年に造られており、
第10面の原型彫刻は、大正11年の完成品を元に後から木島正夫が作った。
第6面であるが、加府藤正一(本名 波次郎)は製作途中で胸の病(結核か)で亡くなり、今関光次、石川信光、大塚光造らが引き継いだとされ、加府藤正一の胴羽目は第10面と同じように震災を逃れていた可能性がある。加府藤正一は加藤寅之助の類者か。
完成品の作者である、山本一芳、小林直光は当初彫る予定であった本所の牧田さんが亡くなったので引き継いだとされる。この「本所の牧田さん」は牧田巳之輔矩中(後藤巳之輔、木嶋江運の師)の関係者であろうか。
最後の胴羽目 第9面が昭和9年11月に完成している。
まとめると
大正11年 第10面(加藤寅之助)
昭和6年 原型彫刻制作
昭和6-9年 第10面以外の胴羽目が製作(第6面は不明)。
となる。
参考資料
『帝釈天題経寺建造物調査報告書』(葛飾区教育委員会発行、令和四年)
『帝釈堂 法華経説話彫刻』 (帝釈天題経寺発行)
*棟札では、全て肩書きが「彫刻師」のため、ここでは彫工ではなく彫刻師とした。
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