北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

・大前神社の拝殿(おおさき神社:栃木県真岡市)-嶋村円哲推定、元禄十二年(1699)頃(後補部)

2023年01月09日 | 各論 嶋村流
*2018年10月22日に投稿しましたが、その後の調査により大幅に改変し再投稿しました。今回は拝殿です。

拝殿は向拝部、身舎頭貫が後補で嶋村円哲の作(元禄12年、本殿と同時期)を推定します(後述)。
●拝殿写真



・拝殿平面図
 拝殿は、奥の幣殿と一体化した凸型。
 拝殿部は3x3間で、四隅と正面2ヵ所に「獅子」(青の五角形)の頭貫が付いています。
 向拝部以外には、地紋彫はありません。
 拝殿(身舎)、幣殿に比べ拝殿の向拝部の装飾が、別のレベルである印象を受けます。


●向拝部(唐破風)


・兎毛通(うのけどおし) 「鳳凰」

・破風入(琵琶板部) 「瑞雲、波」


・水引虹梁 「双龍(夫婦龍)」、木鼻「獅子」
 二匹の龍が尾を絡めて水引虹梁を形づくる事例は、この拝殿が初見と思われます。嶋村円哲の作風が随所に見られます。後の彫工に大きな影響を与え、これ以降、「双龍」型の虹梁が作られてきます。近くの田野辺(市貝町)を拠点とした千本(せんぼ)彫工も用いています。





「夫婦龍」の龍の比較
 阿吽形以外の他の相違点ですが、
  緑龍:宝珠・有、 背びれがトゲ状 、 膝裏 トゲ
  橙龍:宝珠・無、 背びれがトゲと膜、 膝裏 巻き毛
 となっており、あえて雌雄とするならば、緑龍が雄、橙龍が雌になるかと思います。


・「龍」の作風について
 大前神社拝殿の龍ですが、龍の顔や足首に嶋村円哲の作風が濃厚に表れています。(詳細は省略)

●拝殿向拝柱
 拝殿身舎には地紋がなく、向拝部のみに見られます。 (向拝部のみ後補の傍証)
  正面 地紋「四つ菱文」(飛文:卍紋、右三つ巴紋)/側面「菱七崩し」(飛文:卍紋)


●「獅子」木鼻(頭貫)
向拝部


身舎-拝殿頭貫の獅子は、やや単調な印象があり、嶋村円哲の弟子が主として関わった可能性をあげたいと思います。



●手挟み「菊」


●拝殿内天井画
 銘はありません。創建時の天和期であれば、幣殿天井画がないはずですので、向拝部を後補した時期と同じものではないかと思われます。龍の顔が、円哲の彫物に似ていることから円哲画の可能性あり。
・鯉
 向拝「双龍」の真後ろ部分(拝殿の正面入口)に「鯉」があります。「竜門の滝を登りきった鯉が龍になる」の意味で描かれたものでしょうか。鯉が、向拝部「龍」、奥の天井画「龍」になる。または、誰でも最初は「鯉」という意味でしょうか。

・四神  鯉の両脇に位置します




龍(中央)-黄龍か

・幣殿の天井画  四季を表現か





●拝殿は向拝部、身舎頭貫が後補で嶋村円哲の作を推定(元禄12年、本殿と同時期)
 大前神社調査報告書(文献①)では、「建築遺構の特徴からみた場合、拝殿は17世紀後期に主体部分を建設し、その後の18世紀中期に向拝及び千鳥破風を付加したものとみなせる」(15頁)と記述されています。最初の建造時期の「17世紀後期」の根拠ですが、「庫内日記」(大塚正高氏蔵)で、天和三年(1685)11月7日の記述に、「同暮大前拝殿普請」とあることから、天和三年とされます(原資料 後に掲載)。
現拝殿の向拝部につく中備「龍」と木鼻「獅子」は、本殿に関わった彫物師・嶋村円哲の作風を強く考えるものです。嶋村円哲は享保五年(1720)に没しています(会報060号)。報告書の記述のように、拝殿の向拝部が18世紀中期に付加されたものであるならば、円哲の没後になり矛盾します。
 拝殿本体は、四隅に「獅子」の他は、梁に地紋彫はなく装飾もないため、報告書の記述のように本殿建造の元禄十二年(1699)よりも前の天和期建造のものと思われます。一方、拝殿向拝部ですが、円哲の作風と考えられる龍、獅子があることから、本殿の建造(元禄末~宝永期)と一緒に、従来の拝殿に向拝が付与され、その際に嶋村円哲が彫工として関わったとするのが自然ではないかと思います。拝殿四隅の「獅子」の木鼻も同時期に作られたと考えられます。
 大前神社蔵の『元禄古図』(元禄六年、図)では、五行川の脇の神社境内で、拝殿と本殿が離れて書かれています。今の拝殿の場所よりも50mほど南に拝殿が建っていました。元禄十三年に大洪水(六尺余)があった記録があり、この時に社殿の損壊により、元禄期末から宝永期にかけて現在本殿を建造し(会報068号)、この工事の際に、拝殿を北(今の位置)移築・修繕・向拝部付加したのではないかと思います。
彫物、周辺資料から、以上のように推定しますが、屋根の構造変化に関しては参考にする資料がないため、ここでは論じられません。
―以上から、拝殿の向拝部(後補)、身舎の頭貫は、本殿と同じ元禄十二年から宝永期のもので、嶋村円哲と考えます。

・資料『庫内日記』(大前神社蔵)より
 ①天和二年十一月十四日条
   仝 一大前権現拝殿こん立之儀横田吉右衛門殿 田村九左衛門殿梅沢権左衛門殿ヨリ申来候間十一月十日之晩惣百姓中へ申渡候也
 ②天和三年条   一同暮大前拝殿普請(この年の暮:12月に普請をした、の意。)

 ③元禄十三年九月二日条  大洪水六尺余満水

参考文献
①大前神社:『大前神社社殿 歴史的建造物調査報告書』、平成29年3月


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