北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

北関東の街道と宮彫師

2018年11月24日 | 総論 
 江戸時代、人と物資の移動は街道、水運が重要でした。街道には宿が設置され人も集まります。宮彫師は広範囲に活動しましたので街道周辺に拠点を置いて活躍しました。例えば、花輪の宮彫師は、街道下って(標高ではなく、江戸を基準に)日光東照宮へ修復作業に出かけ、下って北関東・江戸で新規の建造物に関わりました。
 北関東で重要な、水運は利根川です。中瀬(深谷市)には、船を扱う有力な集団がいました(彫工 石川流の本拠地)。
 今回は、北関東の重要な街道3つを紹介し、彫工の関係、建造物等についても紹介させて頂きます。

●北関東の街道


①銅街道(銅山街道):「あかがね街道」といいます。
 慶安二(1649)年に整備されました。足尾で取れた銅を、江戸に運ぶために作られた街道で、渡良瀬川の峡谷を進みます。約3里間隔で「銅蔵」が作られました。最後の平塚(境の隣)から利根川の水運を使って船で江戸まで運ばれました。銅街道は、高低差がありますが、距離が短いので日光東照宮への参拝にも利用されました。また、例幣使街道の玉村宿から大胡(おおご)を経由して、銅街道(深沢:大間々と花輪の間)につながる日光裏街道(大胡道)も整備されました。
・銅街道のマップ


・深沢(群馬県)辺り わたらせ渓谷鐵道の本宿駅の少し東方
 渡良瀬川に沿って線路があります。


・萩原は、花輪の少し東にあり、彫工 星野家の本拠地になります。


・花輪宿 花輪駅周辺




 花輪の祥禅寺(高松又八、石原家の菩提寺)

 
 高松又八の墓所(向かって左が高松又八の墓、右が息子の高松又六の墓、中央の2つは父と母)


・銅街道を拠点に活動した彫工は、
 花輪では、高松又八(途中から花輪を引き払って江戸にでました)、石原吟八郎、石原常八。(上州宮彫師集団の本拠)
 花輪の少し東の萩原は星野家、少し山にはいった黒保根田沢には関口文治郎がいました。
・大間々から少し東の田面(前橋市粕川、日光裏街道)には吟八郎の弟子の深沢軍八郎。
 藪塚(本町)の近くの山之神には、岸亦八。

②日光例幣使街道
 毎年、朝廷からの幣帛を、日光東照宮(家康の墓所)へ奉献するため、勅使(例幣使)が通った街道です。慶應三年(1868)の廃止まで、毎年4月に朝廷から派遣されました。銅街道と異なり勅使ですのでなるべく平坦なルートが選ばれ、中山道の倉賀野(高崎市)から、利根川の左側を進み、太田、足利、佐野、栃木、鹿沼を通り、今市(日光市)の追分で日光街道に合流します。


「下野国全図」例幣使街道の部分(水色が例幣使街道、黄色□が東照宮、赤色が銅街道)


・倉賀野宿の中山道と例幣使街道の分岐部


・分岐部の常夜燈
右 中山道、左 日光道



・倉賀野宿の脇本陣


・中山道から分岐するの倉賀野(高崎)にある倉賀野神社


 拝殿向拝部  拝殿の彫工は石川兼次郎、北村喜代松。明治八年。


 拝殿向拝部の中備

 裏には「彫工 高嵜住 石川兼次郎藤原豊重」とあり。兼次郎の師匠は、石川流三代の石川豊光を推定。


 拝殿の木鼻 獅子と獏


 拝殿の左手挟み 松に鷹


 倉賀野神社の本殿 本殿の彫工は新井主膳、勘蔵、喜代松。


 本殿の右海老虹梁 巻龍    彫工 高崎の勘蔵(=石川兼次郎推定)


・倉賀野の次の玉村宿

 玉村六丁目の屋台:現役で曳行されます。


・宮彫師 礒辺家の本拠地 富田宿


・鹿沼(栃木県)の屋台(下材木町) 彫刻屋台として有名です。(磯辺、神山、石塚らが彫工を務めています)




・今市(栃木)の、日光街道との追分の地

 今市住吉町の屋台-今市の屋台も鹿沼に匹敵する素晴らしいものです。



・彫工では、
 境(群馬県)の下渕名の弥勒寺音八、太田尾島(群馬県)の高澤改之助、富田(栃木県)の磯辺家、鹿沼(栃木県)の神山政五郎、石塚家など。他にも長坂の弟子に伊勢崎、尾島の出身の彫工がいます。

③中山道 
 いわずとしれた「五街道」の一つです。倉賀野宿から、本庄、深谷、熊谷と利根川の右側を通ります。


 熊谷の妻沼の聖天さまをはじめ、素晴らしい寺社彫刻が沢山あります。


・彫工では、
 深谷・熊谷を拠点とした前原藤次郎、深谷中瀬の石川家、河原明戸の飯田家、熊谷玉井の小林家など。




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