道東の狼!驀進 新鮮組

動乱の幕末を想わせる薄野。新鮮組は動乱の薄野を驀進します!

なぜ日本は夫婦同姓なのか?

2024-12-09 01:24:53 | 時事トーク
ということで今週もお疲れっす!
先週日月で帯広行ってたこともあって、今週はきつかったな💦
まぁなんだかんだで始まってしまった12月!
どうか皆様よろしくお願いいたします。

ちょっと最近は政治がめちゃくちゃで
訳が分からなくなっている中、せっかくだから書いておこうかな。

夫婦別姓をどうするか?
それを議論するのはいいんだけれど、そもそもなぜ日本は同姓なのか?
それをまず考えなくちゃいけないし、言ってしまえば
それを理解せずに別姓にするべきはおかしな話だよね。

ではなぜ日本は同姓なのか?
日本には戸籍があります。
戸籍ってどこの国にもあるものじゃないんですよ。
日本で暮らすと当たり前のことだから気にしていないかもしれないけれど、
戸籍って世界でも数か国しかないです。

では、戸籍って何を示しているのか?
それは物事を家族単位で考えているということです。
諸外国はこれが家族ではなく、個人になります。
そして、この考え方が日本において様々な場面で基本的な考えとなります。

個人の幸福を追求する諸外国に対し、
日本は家族の幸福を追求する。
ということです。 

難しい言い方をするなら、
諸外国は群れの中に自分がいるとするのを
日本は、群れそのものが自分であるという考え方です。

例えば、会社に対する考え方なんかがわかりやすいと思います。
欧米的では会社と一個人が契約により提携しているという関係であり、
日本では会社は家族であり、家族という集合体により会社は形成される。
この考え方が日本において元々あった終身雇用制となるわけです。

鮭のメスは産卵後、自らを朽ちて子供たちの餌となる。
なぜ鮭はそのようなことができるのか?
それは、生まれた子供は自分であるととらえているから。
新しい自分がそこにいるのだから、今の自分が朽ち果てる事に恐怖はない。
群れが自分なんだという考え。

ただこれは個を排除した、いわば神の領域の考え。
ちなみに、滝に打たれたりというのは個を排除する修行です。
しかし、しょせん人間である限りはそんな領域にはたどり着きません。
だからこそ個を持ちながら家族の幸福を追求するのが日本の考え方です。

戦争において欧米が日本に恐怖したのはこの精神。
飛行隊が突撃したのは、日本という中にそれぞれの家族があったから。
その家族を思う精神に欧米は恐怖したんです。

さて、日本はなぜ夫婦同姓なのか?
それは個人の幸福ではなく、家族の幸福を考えているということです。
では家族の幸福とは、とりわけ誰の幸福を考えているという事か?

個と個の結びつきが夫婦であるとするなら、
その意識が個ではなく群れとなったものが家族である。
家族の幸福とは群れの幸福であり、個の先には子が生まれる。
夫婦から家族という群れに変わったときに、
その幸福のために最も考えなくてはいけないのは、
群れの中で新たな自分となる「子供」の幸福である。
新たな自分である子供の幸福は当然にして自らの幸福であるのだから、
今ある自分ではなく、子供の幸福こそ最優先に考えなくてはいけない。
これが日本的な考え方なわけです。

夫婦同姓が個人の幸福ではなく家族の幸福を考えているというのは、
子供の幸福を最優先に考えているという事であり、
「子供にとって家族が同じ性を名乗ることが良いだろう」
という考えの結果である。

まぁその結論が正しいかはわからいけれど、
現在ある夫婦同姓において最も重要である事とは、
「子供のことを最優先に考えるというプロセス」
だということです。

夫婦別姓とはあくまでも夫婦の話であり利己的な問題。
それに対し、今ある夫婦同姓とは群れの意識を持った家族の問題。

日本の根幹が揺らいでしまうという否定の中にあるのは、
集合体として幸福を考える社会が利己的な社会へ変わってしまうという恐れ。
そして、そんな恐れが他の問題では現実味を帯びているのが現状。

これは日本の中でよくあることなんだけれど、
「日本は遅れてる」と言って一歩先に進んでるつもりが、
実は日本の歴史的考えから言えば「それこそ」が一周遅れてる。
夫婦別姓なんかはまさしくそれなわけです。








エアポケットに入ったので兵庫県について

2024-11-27 18:55:02 | 時事トーク
ということで、11月も終盤に入りましたが本日はクールダウン💦
まぁなんかかんかブログでも書こうかな?
ということで、久しぶりに投稿をスタートしてみるのです。

と、考えたところで何を書くか?

世の中の流れに乗って、兵庫県の話でもしますか。
先日知事選があった兵庫県ですけれども、
正直な話みなさんわけがわからなくなっていないですか?

単純な話でいうと、
「内部告発されて知事が失職した」ということなんですが、
なぜかその後の選挙で知事が再選!
どういうことなんだ?

まずははっきりしていることから言うと、
選挙結果とは何だったのか?
報道などを見るとヤンやヤンや言っておりますが、示されたのは何なのか?

それは「知事に対する満場一致の不信任案が不当であった」とする民意です。

かと言って、知事に問題がなかったわけでも責任がなかったわけでもない。
要は問題が明らかになっていないのにも関わらず不信任が可決された事への抗議。

不信任にあたって問われたことは、告発に対する事実関係と
告発者が亡くなったことに対する責任問題。

しかしマスコミなど報道は、事実関係や責任問題が明らかになっていないにも関わらず、それらが事実であり責任があるように報道していました。
そして、その流れを背景にして行われた不信任案決議。

そもそも問題追求にあたっている百条委員会が継続されているわけであり、
それは問題が明らかにはなっていないと言うことです。
事実として、不信任が可決された時点において
告発内容が真実であるとはされておらず、
合わせて告発者が亡くなった事も知事責任とはなっていません。

しかし、日々報道される内容はまるで全てが明らかになっているかのように
知事に対して責任を問うものばかり!?
いや責任を問うていました。さらには全国放送の中で
「あなたが告発者を殺した」とまで言われていました。

これらの報道と、問題が明らかになっていない段階での不信任決議に対し
「知事の失職は不当である」と言う民意が出たと言う事です。

では、実際のところはどうなのか?
それは現時点では確定していないので、どうなんでしょうか?
と言うところであります。

しかし、ここからの問題は先ほどまでのマスコミ報道とは別に、
百条委員会の進め方はどうなのか?と言う問題が含まれるてくることになります。

本来、百条委員会で追及されるべき事は大きく分けて3つ
①告発内容は事実であるか?
②告発に対する対応は公益通報者保護法を害すものなのか?
③告発者が亡くなったのは告発者を保護しなかった事が原因なのか?

となるのですが、百条委員会はなぜか
「公益通報者保護法を遵守しなかった事が告発者が亡くなった原因」という流れで、
「知事の対応が公益通報者保護法を害していれば告発者の自死に責任がある」
かのように追求を展開しております。
それは、本来別物である②③を一緒くたにしているという事です。
そしてこの問題が百条委員会に対する不信を作っていると言えます。

結果的に重なる事はあれど、追求段階で一緒くたにする事はおかしい、
はたからみると何か意図を感じてしまうという事です。

元副知事が訴えた事はここであって、
告発者の自死の原因は保護の問題以外にも考えられるとして
いわゆる「公用パソコン」の話が出てくるわけです。

それに対して委員長は発言を遮りました。
「プライバシーに関することなので」
という事です。

しかし、そもそもプライバシー問題を省いて
人が自らの手で命を絶った問題の原因追求などできるのでしょうか?

もしそのような考えで展開していくのであれば、
告発者の自死は公益保護がなされなかったからではないのかという問題は
追求する事はできないはずです。
ということは、告発者の自死に関して知事の責任は問えないとなるはずです。
しかし百条委員会ではそれを問うています。
告発者の自死の原因追求を否定しながらも知事には責任を追及する、
これは告発者の自死の責任は知事にあると決めつけているということです。
先ほど言った①②を一緒くたにしているということ。

普通に考えれば「なぜ?」となりますよね。
それが百条に対する不信であるということです。

そしてこの事がこの問題を難しくしている原因になっています。
本来ならば、告発内容が事実でなければ全てが終了なのですが、
今回は告発がデマであっても、その対応が問題で人が亡くなったんじゃないのか?
としているんです。結構メチャクチャです。

公益通報者保護法は外部通報の場合には適用条件があります。
なぜかというと、外部に話を出してデマだったらただの犯罪ですよね?
名誉毀損とかそのような感じです。
今回でいえば、マスコミ報道機関に向けられたので外部通報です。
もし、これが意図的なデマであれば知事や関連した企業は大迷惑です。
意図的に人に迷惑をかけた人を保護しなくてはいけなくなったらこの社会は問題。
なので、外部通報の場合には真実相当性が必要になります。
今回であれば知事の主張はそれがなかったとしています。

しかし、話の流れを構図にすると
真実相当性がない通報であり、公益通報と認められないとする知事と、
そんな事関係なく通報は通報だから通報者を保護しなくちゃダメだ!という議会
ということで、何だかめちゃくちゃです。

論点が公益通報者保護法の適用となっていますが、
真実相当性があったのか?はどっかにいっているわけです。

さぁ皆様はどうおもわれますか?

まぁいずれにせよ、告発が事実であるか通報に真実相当性があったか
これを追求するのが百条委員会なんだけどね。












コロナが終わった

2023-04-03 19:14:41 | 時事トーク
というのは、僕ら的には終了ってことです。
雇調金関連が終わって、そんな感じになっております。

コロナってなんだったんでしょうか?
いろいろありますが、それはまたということで・・・

しかし、この3年間で色々勉強になったこともありました。
まぁ改めて思うのは、政府や市町村のページは確認しなくちゃダメだね
ってことだったりします。

色んな助成関連の提出など多くあったことで、
申請などは「面倒だけど、難しくはない」というのがわかった。
それこそ雇調金なんかは、簡略化前から新鮮を準備したこともあって
そのように思えました。

持続化補助金の申請も面倒が多かったけれど、
人にお金を払ってまで助けを得るものではないと思ったし
創業の時に活用した新規事業の補助金も今思い返せば同様だった。

そうやって考えると、銀行の借入のこととかも合わせて
経験のない人の助けになれるスキルがそこそこ身についたのかな?





ミステリーの本質を探る為の二つ目の扉

2022-08-26 04:05:02 | 時事トーク
ミステリーとは何か?
「動機やトリックにより意図的に理解できないようにした謎」
その動機やトリックが上質であるかによって極上のミステリーが出来上がる。

なぜ報道による重傷者数は消えたのか?
”知られれば不都合が生じる”為に”説明なしに報道をやめた”という
下級の動機とトリックにより出来上がったミステリーとは呼べない茶番。
その不都合とは何か?
重症者数と死者数の矛盾した関係から見えるコロナ死者数の定義 。
意図的に隠されたものは
直接的にも間接的にも死亡要因とされないものまでカウントされている」

小説などに代表されるミステリーを”意志の持った創作物”だとした場合に、
その本質は受け手に対する創作者の意思とは何であるか?
今あるコロナ禍における様々な出来事にも、それを動かす人と意志がある。
この本質に向かう為の初めの扉がコロナ死者数の定義 となる。

それではWHOにより要請されたこのカウント方法が悪であるのか?
そんなことはない。少し考えればその理由に辺りが付く。
世界各国における被害の状況把握において、それぞれの国が独自の判断に
よって死者カウントされてはその把握もままならない。
だから一定のルールのもとに死亡者のカウントしているだけである。
曖昧な判断を失くすため陽性者の死亡は全てカウントする。
そのような観点から考えれば、この死者数のカウントは
各国の状況把握や比較の為のものであり、感染の恐怖を計る物ではない
本当に意味が解らないのは、感染の恐怖を計る事が出来ないはずの
この数字を使って、なぜコロナの恐怖をあおっているか

さて、コロナ死者数の定義 について知る事でいくつかの疑問が出てくる。
同じ”死者数”という数字を使って比較されるインフルエンザとの関係性。
その論調は2つで、1つはA「コロナはインフルより死者がいない」
もう1つが「コロナはインフルなんかと比較できない恐ろしい物だ」
という論調で、その”恐ろしい物だ”と言う根拠が
B「コロナ死亡率はインフルの死亡率よりも高い」であって、
一方には比較するなと言って自らは比較しているとんでも論調。

勘違いされやすいが、Aの論調はコロナとインフルを比較した物ではない。
Aの本質は「死者数に対し対策が過剰ではないか?」である。
インフルと比較してどうだと言っているわけではなく、
「決してコロナの死者数は多くない」という事を理解しやすくするために、
インフルの死者数を用いて目に見えるようにしているだけ。
初期の例えで言えば、餅を詰まらせた死者数などと同様だ。
あくまでもコロナの死者数に対しての論調でインフルは関係ない。
この論調自体は間違ったものではなく、当然出てくる意見。
もしこれを”過剰ではない”とするのなら、数字をもって説明すればいい。
インフルと比較するなと言ってかき消す事こそおかしな話だ。

そもそもコロナとインフルの死者数は、そのカウントの仕方が違うので
比較なんてすることは出来ないし、誰もしない。
コロナの死者数は死者が検査陽性であればカウントされるが、
インフルは医師が判断して「直接的要因」とされる死者数と、そこから
数式にあてはめて推測して数字を出す「間接的要因」の死者数がある。
要はインフルによる死亡かインフルがきっかけの死亡なのか。
直接的には年に3500くらいで、間接的には13000~20000とされている。
コロナ死者数は要因が関係ないのだから、もし双方が同様の毒性であれば
当然死者数は インフル直接<インフル間接<コロナ死者数 となる。
なんにせよ前提の違う数字を比較する事なんてできない

ただし、本来多くなるはずのコロナ死者数が少ない限りにおいて
「現状では」という前文を付けたうえで比較する事も出来る。
しかし現状の対応を続ければ必ずコロナ死者数は大きく膨れ上がるので、
あくまでもその時点においてとなり、その理由は後に出てくる。
いずれにせよまずはAの論調こそ無視できない問題だと言う事。
ではなぜそれに対し議論することをしないのか?

コロナ死者数に対し対策が過剰ではないか?について議論するとは、
言い変えると「対策の効果を議論する」事になる。
そうなると、なぜそうならないかの答えを考えても、推測の域を出ない。
しかし、報道が隠した重症者数を死者数と照らし合わせて見えた
死者数の定義と言う最初の事実の扉から枝が伸びたそれは過剰な対策なのか?
という疑問を考える事で、さらに見える事実はある。
それは、コロナを直接の要因とした死者は少ないということ。

さぁここで一呼吸あけていきます。
スケ番なのに愛らしいナンノちゃんを見てください!


コロナを直接の要因とした死者は少ないというと、何言ってるんだ!
と怒ってしまう人がいるかもしれませんが、それはニュアンスの問題で
実は誰しもが知っている事です。
基礎疾患をもった高齢者による被害が大半である
この言葉をどう受け取るのか?もしくはどう伝えるのか?
それによって事実が隠れてしまいます。
現状の受け止め方は「感染させてはいけない」と言う恐怖感のピックアップ。
それ自体は正しい事であるが、それが全てではない。
「基礎疾患をもった高齢者による被害が大半である」と言う言葉の裏には、
そのほとんどの死因が間接的な要因であるという事実です。

コロナ死者数はその要因関係なく、死者が検査陽性であればカウントされる。
当然コロナ死者の内訳にも間接・直接の要因が存在している。
20年21年の二年間におけるコロナ死者数が約13000人。一年ベースで6500。
対して間接的要因(要因なし合わせ)での死者数を少なくとも7割とすると、
直接的要因の死者数はいって2000人。これは多い数字なのか?
さらに、60歳以下の死者数がほぼほぼいないことを考えれば、
その直接的要因となる死でさえ、抵抗力の有無によるものと言える。
コロナ死者の平均年齢が一般の平均寿命を超える理由がそこにある。

これらから見えるものは何か?
まず、ほとんどの死因が間接的要因であると言う事は、
言ってしまえばコロナは死に至るきっかけに過ぎないと言う事になる。
では、コロナだから死亡のきっけとなったのか?そうとは言えない。
もしそうであればコロナの殺傷力がもっと高くなければいけない。
殺傷力が高ければ、直接的要因での死者数がもっと増えている。
データとしてみればコロナ死者の平均年齢がもっと下がっているはず。
しかしコロナ死者の平均年齢は一般の平均寿命を超えてる。
これはコロナに限らず他の感染症でも死亡のきっかけとなりえたと言う事。
でなければインフルの間接的死亡者が年間1万人を超える説明がつかない。
さらに直接的死亡においても抵抗力の少ない高齢者に偏っている。
これらの状況と死者数を考えれば、見えてくる答えとは
コロナは決して特別な物ではない」ということ。

少なくとも死者数と平均年齢を見た場合これが事実。
ただし、この事実が正しい物なのか誤った物なのかは判断が必要になる。
なぜこのような事実となったのか?
それを見極める物が「コロナ対策による効果の実態」となる。

さて、一週回って下級ミステリーと言う茶番が出来上がってしまいました。
これまでに上がった疑問はすべてコロナの実態に関わる事。
その議論を避けると言う事は、答えを出す事を避けていると言う事。

コロナ死者の定義を知り、コロナ直接的死亡者を知った事で
色んな可能性が見え隠れしてきた。
次回は先ほど出た B「コロナ死亡率はインフルの死亡率よりも高い」
を考え、その先にある三つ目の扉「感染者」について探りたい。

ミステリーの本質はどこにあるのか?

2022-08-22 01:15:46 | 時事トーク
ミステリーとは何か?
それは「理解できないように工作された謎」と言う事で、
過去2回、コロナに対して書いて参りました。
一般的に使われる”謎”と言う物は「まだ解き明かされていない物」であり、
自然界から言わせれば「ただあなたが知りえてないだけだよ」と。
神秘的な事や不可思議な事とはそういった事。
それに対しミステリーは「意図が加えられたもの」。

言ってみれば、この社会問題をミステリーと言う言葉を使って
決してストレートではない「意図がある物だ」としたわけです。
ただ、ミステリーに例えた場合の動機とトリックにおいては
ほぼほぼが壮大な物とは言えない物ばかりで、下級ミステリーだと。
下級なミステリーは”茶番”としか言えない
間違ってほしくないのは、”コロナと言う感染症”が茶番なのではなく
その対応が茶番だと言ってるんです。
AとBという情報に対しより良い対応を考えていく事がストレートなら、
現在あるのは「事前に決められた対応に向かう為」に一方の情報を隠す。
そのような印象だと。

例えば、話題に上がっている5類の話はすでに2020年の段階で上がっている。
約2年たっても何も変わらないのはなぜなのか?
A=5類に変更する B=自己負担問題が出てくる さぁどうする?
そもそもこんな議論にしている事が茶番で、対応する気がないです。
目的は5類にする事ではなく「感染者に対する対応をどうするか?」で、
それは目的の為の対応の一つ。Bにしたって、元々が特例処置なのだから
特例を継続させればいいだけの簡単な話。
要は現状に見合った新たな特例処置を設置(変更)すればいいだけ。
いくらでも間を取れる話を難しく思わせて結局議論もさせない。
「現状の感染者に対する対応を変えられないし、ほかに方法もない」
として動けないのならいいんですよ、それが出した答えなんだから。
でも否定する理由が金だけなら、これが茶番でなくて何なのでしょう?

さて、またミステリーに立ち返ってみます。
そもそもミステリーの本質とはどこにある物なのか?
それは、そこには絵を描いたものと受け手が存在すると言う事。
何か意思のある創作物だと言う事です。あくまでもミステリーですから。
例えば、小説であれば作家がいて小説があって読者がいる。
それはミステリーと言う手法を持ちいて”何か”を読者に伝えている。
今ある社会問題をそれに当てはめるなら、
小説=情報 であり、読者=国民(私達)となる。
私たちが直面している社会問題は、誰かの意図のもとに行われている茶番。
そう書くと陰謀論的に感じるかもしれないですが、「何か理由がある」
としているだけで、もしかしたら”ただの正義”なのかもしれない
正義の為の辻褄合わせが茶番になっているのかもしれない。
ただ、正義か悪かなんて右から見るか左から見るかだけだから。
いずれにせよ、意図をもって誰かが書いた茶番だ。
    
前回書いたコロナ重傷者の数字が削除されたことで言えば、
コロナにおける死亡者数の定義が誰かにとっては知られたくない事だと。
報道機関にとっては説明すればいいだけの事を隠す必要がなぜあるのか?
結局はその奥に何かがあると言う事になる。良くも悪くもね。
いずれにせよ「黙って言う事を聞いていればいいんだ」的な報道に対して
不信感が出てしまうし、なんだか納得いかなくなってしまうよね。
そうなると胸の中のコナンが騒ぎだしてしまうのです。
だからもう少し奥の扉を覗きに行ってみたいと思うのです。

そして恒例のナンノちゃんで一息つくわけです。
本日は、本田美奈子ちゃまも一緒なわけです。


前回お話した「コロナ死者数の定義」を知る事によって、
話の枝葉がどんどんと伸びていく事になります。
まずそれによって開く最初の扉が、インフルエンザとの死者数の比較

YouTubeなどではコロナとインフルエンザを比較すると、
問題な動画だとして動画が削除されたりしていますが、これは正しいのか?
要はどの様な比較をするのかが問題となります。
何故かと言うと、一概に二つの死者数を比較する事は出来ないからです。

よく言われる、A「コロナはインフルエンザより死者がいない」だったり
B「コロナはインフルよりも死亡率高い」はどちらが正しいのか?
どちらも言葉としては正しいですが、二つの比較としてはBは間違いです。
間違いと言うよりも、比較できないというのが正しいところです。
何故かと言うと、二つの死亡率は性質の異なる物だからです。
更に言うと、二つの死亡率は導き方が違いすぎて比較すべきではない。
その理由はコロナ死者数の定義に加え、感染者数の定義が関わってきます。

そして、新たなミステリーの扉は
プラットホームである情報機関などがコロナとインフルを比較するなと
主張するのに、実際は比較できないはずの数字をもとに比較しているのか?

簡単に言うと、
A「コロナはインフルとは比べ物にならない恐ろしい物なんだ!」
B「いや、あんたしっかり比較してるじゃん」

又そのうち続きを…