ということで今週もお疲れっす!
先週日月で帯広行ってたこともあって、今週はきつかったな💦
まぁなんだかんだで始まってしまった12月!
どうか皆様よろしくお願いいたします。
ちょっと最近は政治がめちゃくちゃで
訳が分からなくなっている中、せっかくだから書いておこうかな。
夫婦別姓をどうするか?
それを議論するのはいいんだけれど、そもそもなぜ日本は同姓なのか?
それをまず考えなくちゃいけないし、言ってしまえば
それを理解せずに別姓にするべきはおかしな話だよね。
ではなぜ日本は同姓なのか?
日本には戸籍があります。
戸籍ってどこの国にもあるものじゃないんですよ。
日本で暮らすと当たり前のことだから気にしていないかもしれないけれど、
戸籍って世界でも数か国しかないです。
では、戸籍って何を示しているのか?
それは物事を家族単位で考えているということです。
諸外国はこれが家族ではなく、個人になります。
そして、この考え方が日本において様々な場面で基本的な考えとなります。
個人の幸福を追求する諸外国に対し、
日本は家族の幸福を追求する。
ということです。
難しい言い方をするなら、
諸外国は群れの中に自分がいるとするのを
日本は、群れそのものが自分であるという考え方です。
例えば、会社に対する考え方なんかがわかりやすいと思います。
欧米的では会社と一個人が契約により提携しているという関係であり、
日本では会社は家族であり、家族という集合体により会社は形成される。
この考え方が日本において元々あった終身雇用制となるわけです。
鮭のメスは産卵後、自らを朽ちて子供たちの餌となる。
なぜ鮭はそのようなことができるのか?
それは、生まれた子供は自分であるととらえているから。
新しい自分がそこにいるのだから、今の自分が朽ち果てる事に恐怖はない。
群れが自分なんだという考え。
ただこれは個を排除した、いわば神の領域の考え。
ちなみに、滝に打たれたりというのは個を排除する修行です。
しかし、しょせん人間である限りはそんな領域にはたどり着きません。
だからこそ個を持ちながら家族の幸福を追求するのが日本の考え方です。
戦争において欧米が日本に恐怖したのはこの精神。
飛行隊が突撃したのは、日本という中にそれぞれの家族があったから。
その家族を思う精神に欧米は恐怖したんです。
さて、日本はなぜ夫婦同姓なのか?
それは個人の幸福ではなく、家族の幸福を考えているということです。
では家族の幸福とは、とりわけ誰の幸福を考えているという事か?
個と個の結びつきが夫婦であるとするなら、
その意識が個ではなく群れとなったものが家族である。
家族の幸福とは群れの幸福であり、個の先には子が生まれる。
夫婦から家族という群れに変わったときに、
その幸福のために最も考えなくてはいけないのは、
群れの中で新たな自分となる「子供」の幸福である。
新たな自分である子供の幸福は当然にして自らの幸福であるのだから、
今ある自分ではなく、子供の幸福こそ最優先に考えなくてはいけない。
これが日本的な考え方なわけです。
夫婦同姓が個人の幸福ではなく家族の幸福を考えているというのは、
子供の幸福を最優先に考えているという事であり、
「子供にとって家族が同じ性を名乗ることが良いだろう」
という考えの結果である。
まぁその結論が正しいかはわからいけれど、
現在ある夫婦同姓において最も重要である事とは、
「子供のことを最優先に考えるというプロセス」
だということです。
夫婦別姓とはあくまでも夫婦の話であり利己的な問題。
それに対し、今ある夫婦同姓とは群れの意識を持った家族の問題。
日本の根幹が揺らいでしまうという否定の中にあるのは、
集合体として幸福を考える社会が利己的な社会へ変わってしまうという恐れ。
そして、そんな恐れが他の問題では現実味を帯びているのが現状。
これは日本の中でよくあることなんだけれど、
「日本は遅れてる」と言って一歩先に進んでるつもりが、
実は日本の歴史的考えから言えば「それこそ」が一周遅れてる。
夫婦別姓なんかはまさしくそれなわけです。