旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続

2023年11月16日 23時30分30秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続

*容量が一杯だって。新しくするね。

★ 旅のエピソード 2
 城さんは、可愛いお遍路さんだ。娘さんの遍路は珍しい。おばちゃんなら結構いる。吉野川に掛かる長い橋を、荷物をカートに載せてガラガラ引いていたら、彼女が追い付いて声を掛けてくれた。その日は結局、彼女が泊まると言っていたゲストハウスにした。
 12番の難所を、一部一緒に登った。その後2日、同じ宿だった。遍路に宿の選択肢は大してない。自分はバス・電車を使うから、その先は先行して会っていない。城さんは、all歩きなんだ。でもある宿で、自分の名前を宿帳に見た、とのことでLINEを送ってくれ、その後やり取りがある。城さんはまだ遍路の中にいる。彼女が旅していると、自分もまだ旅しているような気になる。
 ゲストハウスでは、歩き遍路がたくさんいて、ロビーで夜楽しい歓談のひと時を持った。城さんは、2日前に会社を辞めたばかりで、ちょっと気持ちが揺れていたが、その場にいた5人が全員無職なのを知り、なあんだ、全員無職!と力を抜いた。
 城さんは本当に優しい子で、山の上のゲストハウスで、到着が遅くなった見ず知らずの外国人(チェコ人)を、ここまでかと心配していた。彼女は土地の人
から、頻繁に声をかけられる。そりゃそうだ。自分でもそうする。娘さん、休んでお茶でも。あんたじゃない。ジジイ遍路は呼んでない。
 彼女とイスラエルのアリ君が、山道で呼び止められ、爺さまにぬるいお茶としけった煎餅をご馳走になったそうだ。急いでいるのに、結構迷惑な話しだが、心優しい城さんは断るのが苦手だ。
 爺さんは、家族に全員先立たれ大きな家に一人ボッチと愚痴りだし、記念にたくさんある食器をどれか持って行ってくれまいか。人に使ってもらえばうれしい。これこそ迷惑。荷物は100gでも減らしたい。断る城さん。しつこく懇願する爺さん。結局アリは、一番小さな徳利とぐい飲み。城さんは、けっこうな重さの器を2つ。
 困った、困ったという城さんに、自分は入れ知恵をした。道端にお地蔵さんがあるだろ。あの前に置いてきちゃいな。でも心優しい城さんは、そんなわけにはいかないわ。お爺さんの気持ちを裏切ることになる。でも困った。誰か貰ってくれないかな。

★ 旅のエピソード 3
  外国人の遍路は、別に仏教徒ではないから、お祈りはしない。あまり遍路っぽい恰好もしていない。若い娘は、山岳救助隊みたいなのがいる。男は例外なくひげを生やしている。彼らと話すのは面白い。ミカンをあげると喜んでくれる。おいしいそうだ。
 12番・焼山寺過ぎた所のゲストハウスで、夕食にデンマーク人がいた。120kgの巨漢だ。彼は、どこからここへ来たのか、明日の朝に12番に行くという。12番は登るのも大変だが、ここまでの下りもきつい。あれで駄目押し。親指の爪が剥がれた。
 明日はたいへん(Hard work)だね。そう言ったら、こう返ってきた。何の、毎日スーツを着てネクタイを締め会社に行く。今日も明日も行くのがHardなんで、これはわくわくする。楽しくてしょうがないよ。

★ 旅のエピソード 4
 春さんは、まだ十代かと思われるボーイッシュな娘さん。自転車で遍路に来た。どうやって自転車を持ってきたの?お父さんに車で送ってもらって、フェリーで来ました。見たところ電動ではなさそうで、12番のくねくね道を担いで押して登るのは、相当大変だろうな。下りは一気に行けるけど。
 また、何で遍路に?誰だって聞きたくなるよね。うーん、美容院に行ったのね。そこのママが話の中で、あんた、お遍路に行きなさいよ。次の日、大して親しくもないおじさんから、君は遍路に行った方が良い。
 たぶん、言ったほうは何も考えていなかったんだろうな。言われた春さんは、そうかな?2人から続けて言われるんだから、行ったほうが良いのかな。でも何?お遍路って。それでアルバイトを辞め、自転車担いで来ちゃうんだ。凄いな、この子は。

★ 旅のエピソード 5
 民宿・樹園が大当たりだったのは、食事だけではないんだ。ここには犬がいる。割と大柄なおとなしい犬だ。食堂の脇、玄関の前にゴザのような丸い敷物
が置いてあり、そこが彼女の定位置だ。
 この犬は、ワンともスーとも言わないが、目としぐさで促す。あなた、そこに立っているなら、私を撫ででちょうだい。おばさん、この犬、お年寄りでしょ。もう16歳(or 17歳)で、耳が聞こえないの。でも賢い犬よ。徳島新聞に載ったこともあるの。海岸から捨ててあるペットボトルや空き缶を拾ってきていたのよ。
 もともとは近所のお年寄りのご夫婦の飼い犬だったんだけど、夫婦が相次いで脳溢血で倒れてしまった。保健所で始末すると聞いて、うちでもらったの。
翌早朝、自分が出発するのでドアを開けたら、彼女が敷物からゆっくり立ち上がり、ゆっくりスタスタと先に出てゆく。そして玄関先にちょこんと座る。いいのかな、外に出して。xx、またお見送りかい。何と行ってらっしゃいをしてくれるんだ。ジーンときたね。

・旅のエピソードは、まだまだこれから。でも文章ばかりじゃ、疲れるよね。

〇 四国の鉄道
 バスはバス。異国のバスのように、乗客を眺めて楽しい、といったことは、ここではない。電車や路面電車は楽しい。ワンマン列車は、最初は戸惑った


この渡し舟はただ。








〇 路傍の石仏
 遍路路や寺の参道には、お地蔵さんや石仏が並んでいる。お遍路の歴史を感じさせてくれる。よく見ると、味のあるものだ。お寺の中の像も一緒に、ご鑑賞あれ。




































★ 旅のエピソード 6
 やっぱゲストハウスが良い。前日泊まったビジネス旅館の夕食は、お通夜か自閉症セミナーのようだった。向かい合って、目を合わさないようにして食う飯は最悪。ゲストハウスは、ただベットとシャワーと洗濯機を提供するだけで、朝は勝手に行ってらっしゃい。でも人との触れ合いがある。
 76番・金倉寺近くのゲストハウス安宿ミカサスカサも面白かった。良い宿は、予約の時に客のことを知ろうとする。何か嫌いな食べ物はありますか?
とか、うちは何もありませんよ。ベットを提供するだけです。とか。電話番号も知ろうとしない宿は、客によほど関心がないんだろう。
 ミカサスカサはJR土讃線の駅前で、翌朝電車を待つ間にホームから降りて、宿の灰皿に行ったほどだ。ここの女性オーナーの話しが面白かった。コロナで数年、開店休業状態。毎日駅を見ても、降りてくる乗客すらいない。といって、自分の宿から患者を出すわけには、けっしていけない。
 政府の補助金は、料理屋や旅館ほどは出ない。そうだろうな。行政がゲストハウスに優しいわけがない。でもそのなけなしの補助と貯金で過ごしているうちに、働くのがいやになっちゃった。分かる。分かる、その気持ち。
 そんな話しをしていると、電話が入り、急にペルー人の夫婦が車でやってきた。まだ若いご主人は、日本語が達者だ。奥さんは話せない。彼らは、仕事で来たそうだ。何の仕事か、翌朝聞いたがよく分からなかった。疲れていたんだろう。シャワーを浴びると、すぐ寝るそうだ。
 では、奥さんはこちらのベットを。いいえ、一緒に寝ます。ヒエー、仲のよろしいこと。夜中に帰ってきた青年の、地割れのようなイビキを夢うつつに聞きながら、ぐっすり寝た。翌朝、ペルー旦那が注射を打っている。インシュリンです。あー、僕もそうだよ。奥さんにミカンをあげて、アスタ・ルエゴ。



★ 旅のエピソード 7
  先入観や思い込み。嫌だね。そういう物に囚われている人間は。ところが自分がそれをやっていた。難所、遍路転がし Part 2 へ向かう前日に泊まった宿の親父さんは、なかなか味のあるお爺さんでした。
 遍路杖をバスの中に置き忘れた話しをしたら、ちょっとついてこい。手製の自然木の杖が何本も立てかけてある。自分で選びたかったが、これをやると先がちょっと曲がった一本をくれた。申し分なく硬くて、そこそこ軽い。この杖は、最後まで遍路旅を共にした。でも四国を離れる前日に、駅の傍に置いてきた。ロードオブリングの魔法使い、ガンダルフが持つような杖で、大阪の街を歩き、新幹線に乗るのはどうもな。
 その宿に、台湾人の年配の夫婦がやってきた。支払いの時に、二人で1万円と親父が言ったら、奥さんはちょっと変な顔をして、一瞬ためらった。ははーん、あれだなと自分は思った。実は、ネットで調べた情報では、素泊まりが4,500円だったのに、宿では5,000円と言われたんだ。えっと思った。
 でも杖をもらい、役に立つパンフももらった。これ、持ち出し禁止って書いてあるんですけど。いいの、いいの、持ってき。洗濯・乾燥はサービスで、翌朝6時に山(寺)の登山口まで、車で送ってくれる。これで徒歩1時間は助かる。
 車の中で、豚コレラの話しなどをし、聞いてみた。ホームページには、素泊まり4,500円ってなっています。これは直したほうが良いのでは?だな。でも直し方が分からねえ。昨日の台湾人もそう思った(4,500円)のでは?ああ、あれは違う。あの奥さんは、12,000円出したんだ。

 駅で特急電車を待っていると、前日のゲストハウスで話しをし、自分の下段のベットにいたスイス人のおばさんがやってきた。電車一緒ですね。あと30分です。ところが、彼女は1時間後の各停に乗るという。何故?
 本を開いて教えてくれた。次の一駅、すごい高低差(峠)があるんだ。彼女は基本歩きだが、この一駅だけ乗って、その峠をカットするわけだ。これなんか、聞かなきゃ理由が分からないだろ。

★ 旅のエピソード 8
 杖を置き忘れる。初日は寺の納経所の杖置きに忘れ、2km戻って取り返した。手を洗う。鐘をつく。ローソク、線香、般若心経。納経所と杖を手放すことが多いんだ。納経所と本堂が250m離れた寺。階段が見上げる寺。くそ!もうこのまま手放すか。と思いつつ、取りに戻った。
 ところが最後の寺、88番に行くバスの中にまた置き忘れた。あっちょうどよいかも。もう最後だもんね。ところが、迎えに来たバスが同じバスで、再会した。あんまり嬉しくない。
 納経を忘れたことがある。前のページをめくっていたら、アチャー、一枚抜けているじゃあありませんか。忙しい行程の日だったから、行くのを抜かしたかな、それとも納経を忘れたかな。電車で半日かけて戻った。後戻りは嫌じゃ。


これがガンダルフの杖


★ 旅のエピソード 9
 エピソード7で出てきた春さんの話しを、夕食後にしたら、調理場で聞いていた女将さん、綺麗な女性ですよ、がそうそう惹かれるってことあるわね、と話し出した。あれはある夏の日、雨の夜----。おいおい、怖い話しは嫌だよと思った。
 でも怪談ではなかったのよ。その日は客がなく、さあお風呂に入って寝る準備というタイミングで電話が鳴ったそうだ。若い女性の声だが、外国人で日本語がたどたどしい。私は東京にいるんですが、友達があなたの宿の近くにいて困っています。どうか泊めてやってくれませんか!
 xx時だし、外は土砂降り。断ろうとしたが、電話は必死になって頼んでくる。うん、分かった。では見てくるね。傘をさし、手にもう一本持って電話で言っていたコンビニに行くと、軒先に女の子がしゃがみこんでスマホを見ている。脇には大きなリュック。
 声をかけ、宿に彼女を連れて帰ると、濡れて震えている女の子をお風呂に入れ、あり合わせの食事を用意した。その子はマリアと名乗った。日本語は出来ない。お風呂から出たマリアを見るとビックリ。腕に真っ黒な入れ墨が。
 スマホの翻訳サイトで会話した。マリアはチリ人。大好きなおばあちゃんが亡くなり、その思い出を抱いて日本に来ました。日系なのかな?おばあちゃんは、ユリの花が大好きで、娘、マリアのお母さんをユリ(スペイン語)と名付けた。私もユリの花、大好き。この入れ墨はユリなの。

 ふーん、あんた、この宿の名前を知ってる?ここは、りり庵だよ。ユリの英語名は、lily。私のxx(叔母?)が百合子っていうんだ。
 一瞬、ポカーンっとしたマリアは、故国のユリの名を持つお母さんとFacebookで、大興奮で話し始めた。お母さん、あたし今どこにいると思う!ユリの宿だよ!ユリの花の女の人に助けてもらった!まあまあ、娘を助けていただき、ありがとうございます。
 もともとお金のないマリアは、寝袋を持ち、ただで泊まれる所を調べて行ったのだが、先客がいて追い払われ、行き場を失ったんだ。
 翌朝、すっかり元気になったマリアは、快晴のなかリュックを背負い、大きなマグカップにコーヒーをなみなみと入れ、反対の手をブンブン振って満面の笑みでアディオス!おいおい、そのコーヒー、持って歩くんかい。こぼれるだろ。こぼれたら、手が熱いでしょ。早く飲めよ、マリア。あっ、そんなに手を振るな。

〇 四国八十八ヶ所
 仏教のお寺が88あるわけだ。宗派はどこ?弘法大師・空海の真言宗が80。残りは8だね。空海のライバル、天台宗が3。禅宗の曹洞宗が1、臨済宗が2。内1寺は、長宗我部元親が再建した。あと、一遍上人の時宗が1、単立(包括宗教団体に属さない)が1で88だ。

 開基(物事のもとを開くこと。開山)は?弘法大師 42、行基(ぎょうぎ) 29、役行者(えんのぎょうじゃ) 4、他は様々で、十一面観音を山で拾った狩人兄弟とか、長者、上人。天皇の勅願(天武と天智)、聖徳太子、藤原不比等、鑑真和上など。凄いメンバーだこと。
 弘法大師は、774~835年。だから生誕1,250年記をやっているんだね。行基(ぎょうぎ)は、668~749年。このお坊さんは、明治以前は大層な人気者だった。もともと在野の人で、土木工事の監督、各地の行基伝説、後に朝廷に重用され、東大寺・大仏殿の建立に携わるなど、空海の先駆者のような人物だ。
 役行者(小角=おづぬ)は、634~701年と言われているが、実在の人が疑わしい。仏教僧というより、孔雀の呪術を使う行者、仙人、修験道の開祖というべきだ。伊豆の島に流された時、海上をすたすた歩いて赴き、夜になると空を飛んで富士山に上がって修行に励んだという。行きも飛んで行けば良いのに。
 ちなみに、幕末に現れた金光教と天理教は、修験道の世界と濃厚に接触している。脱線ついでに、聖徳太子が、574~622で、仏教伝来が、552年?または538年だ。

 本尊は、伝、弘法大師が49、行基 19、智証上人 3、聖徳太子 1、役行者 1、恵心僧都 1、聖徳太子 1、運慶 1、伝なし 14。あれ、一つ多いな。まあ、こんなのはどうでもよいや。仏像製作者じゃあるまいし、そんなの作るほどひまな人たちじゃあない。運慶は本職だけどね。国宝も重要文化財も、本堂の奥にあるのか、ほとんど見られない。

 長宗我部元親は、一代の英雄だ。活躍の場がほぼ四国に限られるため、さほど有名 ではないが、彼の行った土佐統一、四国平定は一人の武将が行った事業としては、規模は小さくとも信長を上回る。彼は一領具足という、半農半兵の兵士を活用した。彼らは、農作業をしている時も槍と鎧を、田畑の傍らに置いていた。予備がなく、一領しかない具足(武器・鎧)だ。農作業で身体壮健、集団行動に慣れている。
 四万十川の戦いに勝ち、土佐統一を果たした元親は、伊予、阿波、讃岐に侵攻する。 信長に敗れ、落ち目の三好一族はそれでも、根拠地の淡路島から阿波、讃岐方面に勢力を誇っていた。元親の侵攻は、当初は三好の抵抗が激しく、思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577年)に三好長治が一揆で戦死すると、一気に加速する。
 この長宗我部元親の四国統一戦で、現遍路寺は大変な目にあった。高知で 1、愛媛(伊予)では 13(内4は、直接の長宗我部戦役ではない)、香川(讃岐)では 7(内2は、直接の長宗我部戦役ではない)、徳島(阿波)では 12(内1は、直接の長宗我部戦役ではない)の寺が、兵火に焼け落ちた。66番・雲辺寺は標高千m、西側のロープウェイの駅のある山麓は香川県だが、頂上の雲辺寺は徳島県。ロープウェイの標高差は650mだ。ここを攻め落とした長宗我部兵は、まるで山岳部隊だな。レンジャーだ。
 歩いた自分はよく分かる。山の上の寺は、守るに易く攻めるに難い。上からは、石やら材木やらを落とす。弓でも鉄砲でも狙い撃ちだ。一領具足の長宗我部兵は、歯をむき出して猿のように山道を攻め上ったのだろう。夜討ち、奇襲に、寝返り調略も駆使しただろう。
 山の上の拠点に、敵を残したまま前進するのは危険だ。隙を見て山から降りて兵站を狙われる。こまめに潰し、焼き払う必要があったんだね。これで、その後数百年廃寺となり、再建したのが曹洞宗とかになるわけだ。寺がひとつづつ復興して、江戸時代の遍路ブームにつながるわけだが、明治になって、遍路はまた断絶する。明治初年の神仏分離令による、廃仏毀釈だ。この運動による廃寺、荒廃は凄まじいものだった。
 近年の失火も多い。江戸時代にも2-3あるが、8番・熊谷寺は昭和2年の火災、17番・井戸寺は昭和43年。40番・観自在寺は昭和34年の火災で本堂消失。44番・大宝寺は明治7年。55番・南光坊は、昭和20年の今治空襲。58番・仙遊寺は昭和22年の山火事による類焼。どこだか、参拝者(遍路?) による火の不始末が原因。ドキっとさせられる。

四国遍路 ー 遍路ってこんなの?

2023年11月14日 01時25分39秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?

 9月の終わり、猛暑の残る中、夜行バスで横浜から徳島に行った。

遍路の旅は誤算の連続。

 あっその前に、俺は歩き遍路ではない。残念ながら。電車、バス、市電を使う、言ってみれば準歩き遍路だ。これで、岩波新書になる資格を失った。岩波編集部に面倒をかけることもないなら、ハジケちゃえ。

 自分の遍路旅は、ちょうど一か月かかったが、オール歩きならあと3週間は必要だった。またオール歩きでも、ロープウェイやケーブルカーを使うか使わないかによって違ってくる。歩くのが大変で、急斜面な所にあるのをわざわざ使わずに登ろうというのは阿呆だ。マゾだ。だけどもその覚悟には敬服するよ。本当に。一気に高低差650mは、66番・雲辺寺。下は残暑で上は紅葉が始まっていた。85番の八栗寺も、ケーブルカーを使わなかったら相当きつい。

 四国は、ほとんど初めてだったが、その山野の美しさには圧倒された。どこを歩いても山が遠くに近くに見え、その山系は重なり合い、木々に覆われていた。南を歩けば太平洋、北を歩けば瀬戸内海。歩き始めは、曼殊沙華。後にはコスモス。柿とミカンの鈴なり、ボンタン、栗。ススキとセイタカアワダチソウの群生。まあ、見てよ。
















 誤算は、悪い方ばかりではない。

・コロナが明けて遍路は復活し、多くの遍路が歩いているのかと思った。
確かに徳島では、そこそこの遍路さんがいた。高知にもまだいた。でも愛媛、香川と進んでゆくと、ほとんどいなくなった。お寺を独占状態だったのも、遍路道を歩いて数時間の間、誰にも会わないことが度々だった。しかも、歩き遍路の60%は外国人、主としてヨーロッパ人でした。

・6番・安楽寺には宿坊がある。自分も、初日に善根宿に泊まらなかったら、ここにした。なにしろ、ここのお風呂は温泉だからね。他にも2-3、宿坊があるらしき寺はあったが、12番・焼山寺、24番・室戸岬の最御崎寺、38番・足摺岬の金剛福寺と宿泊は止めていた。最新版の『四国八十八ヶ所詳細地図帖』によると、宿坊のある寺は21ヶ所となっているが、実際は壊滅状態だ。
 コロナで、3年間お客が来なかったからね。他にも、遍路路の旅館、ゲストハウスの3軒に一つ、4軒に一つは廃業していた。本やネットの情報がup dateされていないのだ。経営者の高齢化も原因の一つだ。

・バス路線は、もっと悲惨だ。バス?去年、廃線になったよ。バス?昔はあったんだけどね。あっても一日2便とかじゃあ、しゃあない。バスが駄目なら鉄道。これがまた一筋縄ではいかない。一時間に一本づつ出てる。ヤッターと思いきや、ほとんどの電車は2つ先の駅まで。目的地に行くのは、一日3-4便。次は?2時間半後かよ。
 テレビのローカルニュースで見たのだが、どこからか道後温泉に行くバスが一日15便から3便になるそうだ。ずいぶんと急な減便だが、深刻な運転手不足が原因だそうだ。補助金とかでは解決しない。運転手がいなけりゃ、バスは動かない。

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・野生動物は、ほとんど見なかった。バッタやトンボ、蝶はいたさ。トカゲは良く見たが、蛇はミミズの親分くらいのしか見なかった。一度、あぜ道を横切る、多分イタチを見たが、何せ0.5秒の早業だから確かではない。熊は、四国では剣山にいるとかいないとか。
 猪はたくさんいるそうだが、最近ネズミが媒介する豚コレラで、めっきり減ったと、猟をする宿の親父が嘆いていた。
 四国の街は、側溝にきれいな水が流れている所が多い。田舎道でもそうだ。ここには小さな魚がいるし、近づくと水に飛び込む蛙がいる。何故か、カマキリが道に出てくる。産卵の季節なんだろうか。車にペシャっとかも多い。










・実は出発の前に、Pasmoを失くした。以前京都・奈良を旅行した時、Suikaが使えなかった。Suikaじゃ駄目だとメルカリでPasmoを入手した。今、駅でPasmoが買えないのよ。半導体の不足によるらしい。これの郵送が遅かったので、出発を2日遅らせた。
 バスや鉄道、全部現金じゃあ大変だもんね。全部現金になった。1万5千円入金したPasmoは、四国では一度も使えなかった。財布と小銭入れは、コインでパンパンになった。88ヶ所のお寺で、賽銭2回と納経料が300円かかる。
 しからば、四国では電子カードは無いんか?使っている人を発見し、運転手さんに聞いてみた。そのカードは、四国全部で使えるんですか?いや、高知だけなんだよねって、駄目じゃん。

・旅の出だしでスマホが壊れた。画面が真っ黒で立ち上がらない。落としたりぶつけた記憶はない。2日目の鴨島でスマホショップを見つけ、シムカードの出し入れで直してもらった。その後も二回調子が悪くなった。
 自分で修理しようと、シムカードを出したらはまらなくなった。観光局のおじさんと話し、数駅前のauの店を目指して逆戻りした。
 焼山寺の登山中と翌日の渓谷の所では、スマホは直っていたが、焦点を合わすジーっという音をシャッター音と間違え写真を撮りそこなった。だから最初の3日間は、何も写していない。焼山寺への登り道、見晴らしのよい所を撮り損ねた。
 また一度は、電話と写真しか出来なくなった。K's電気で見てもらうと、Wifiがoffになっていた。そして最後の数日、動作が超スローになったが、これは容量が0.00になっていたことが、後で分かった。
 電話が出来ないと、宿の予約が出来ない。公衆電話など、駅とコンビニくらいしかない。そのコンビニがなかなか無いのだ。一度スマホが使えず、駅の公衆電話に入ったら、何とコインは使えません。テレフォンカードをお使い下さいって、どこでカードが買えるの?その時は、途中一度話しをした、区切り遍路の人にスマホを貸していただいた。予約はしていたが、駅までの出迎えを宿に連絡する必要があったのだ。

・遍路路の表示だが、徳島県は結構あった。高知以降は少なくなり、あっても消えかかっていたりする。またよほど寺の近くまで行かないと無かったりする。地元の人に聞いても、若い人は知らないことが多い。10分圏内にあるはずの寺を知らないことに驚く。よほど関心が無いんだろう。
 あと『四国の道』。立派な表示物だが、ただ四国の道。あった。あそこに看板があると近づく。四国の道。蹴っ飛ばしたろか!あれ、後で右はxx寺xxkm、左はxxとか付け加える積りなんだろうか。
 四国にある道路なら、四国の道だろうよ。意味がない。腹立つ。
 グーグルのMapには助けてもらった。特に街中に散在している寺には有効だ。だが、長距離で後xkm、1時間25分とか出て、その方向に1時間以上進み、スマホを見ると、後1時間35分となっていて、逆上することもあった。




・外国人は本当に多かった。大半はヨーロッパ人と台湾人でした。アメリカ人は、初日にバージニア出身の42歳のおっちゃんだけ。彼は、リュックと服のポケットに水のペットボトルを何本も突っ込み、早くもバテていた。イギリス人もいないなあ、と思っていたら、いた。もっとも彼は、スコッチ、スコットランド人と名乗ったのだが。スコッチウィスキーには初めて会った、と言ったら、じゃあ君のコレクションが増えたね。シャレた答えが返ってきた。
 フランス人が多い。これはベトナムやラオスと一緒だ。70歳、白いひげのおじいさんは2度目の遍路で、泊まるのは民宿だそうだ。日本語が達者な、お人形のように綺麗なフランス娘。自己主張の強い、嫌われフランスおばさん。
 他にデンマーク人(TVで、遍路のドキュメンタリーをやったらしい)、スイス、オーストリア、スペイン、ドイツ、チェコ、etc。イスラエルのアリ青年とは、その後山の中で再会した。彼は、他の多くの外国人と違って、懸命に日本語を覚えようとしていた。いいかい。アリは日本語では蟻だぜ。えー、antですか!24歳のアリは、6年兵隊をやっていたそうだ。映画みたいなことは無いよ。でも一度撃ち合ったことがあります。
 屋根のある簡易休憩所で、寝袋から出たばかりのアリと30分も話したのが、ハマスによるガザ侵攻の前日だった。予備役の彼は、速攻帰国したのではないかな。元気でいてくれよ、アリ君。

・12番の登山は、死ぬかというほどきつかった。ここは、遍路で最初の遍路転がし。バスで行こうと思っていたが、廃線になっていた。前日泊のゲストハウスと、12番を過ぎた所のゲストハウスが提携して、荷物を運んでくれたので助かった。この登山には、2つの中継地点がある。長戸庵と柳水庵だ。長戸庵には、お堂があるだけだが、柳水庵には水場と休憩所がある。立派な一軒家の休憩所だ。原則、宿泊は禁止と書いてある。でもここで一夜を過ごしたら、頂上までは一息だな。
 でもそのあと一息が曲者だった。柳水庵を出てしばらく行くと、道は何故か下りになった。えっ下り?それも半端じゃあない。岩の急斜面を下る。下る。まだ下る。980円の運動靴は、靴の中で足が固定されていないから、指先に負担がもろにかかって痛い。下りなので息は切れないが、指先、特に親指の痛みは一歩ごとにジンジンとくる。
 痛い。痛い。まだか。まだ下るんか。やっと開けた所に出た。おっ到着か?家があって、畑がある。人もいるし、ここにお寺が?違った。そこから最後の登りは、頭が白くなるほどで、下った分を全部取り戻してお釣りがあった。
 自分は、当日登った20人ほどの中で、ビリに近かった。俺の後ろにいた10人ほどは、最初の長戸庵までで諦め、引き返したようだ。年配の台湾人のご夫婦は頑張って、自分より早く完登した。
 そして着いた焼山寺。何と100人からの、汗もかいていない連中がワラワラいるじゃん。え~、ズルじゃん。車で来た連中でした。

・焼山寺の遍路転がしを制覇して数日、左足の親指が痛い。見ると、心なしか黒ずんでいる。押さえると、爪の間からドロっとピンクの液体が出た。膿に血が混じったような。テープを貼り、様子を見ることにした。幸い、遍路路の8割は平たんな道で、山に差し掛かっても、舗装されている所が多いので、痛くはない。
 その後も小指に小さなマメが出来た程度で、ダメージは意外に少なかった。学生の時に、コンクリートの上で空手の練習をしていたし、ミャンマーでは、靴を履いたことがない。足の裏には自信があるのさ。
 ところが、帰宅して10日経つ昨日、左足の親指の爪が浮いているのを見つけた。ヤバいかも、これは。テープで固定し、気付かなかったことにした。

ps. 医者に行った。化膿止めの薬を3日分ほど飲み、後は放っておいてよい、とのこと。いずれ浮いている親指の爪は、剥がれ落ちるらしい。その下に、カニの脱皮のように新しい爪が出てくるそうだ。問題ない。ぶつけたりしなければ、痛くないものね。結局、剥がれ落ちた。けど、新しい爪は、まだフニャなので、落ちた爪をカバーに残してテーピングしている。

〇 さて、ここらで一息入れようか。旅の誤算編は置いといて、遍路/巡礼について。巡礼といえば、昔のエルサレム巡礼。今は世界遺産になったスペイン、サンチャゴ・コンポステーラの巡礼。マッカ(メッカ)巡礼とチベットの霊峰カイラス山巡礼。カイラスは、仏教徒、ヒンズー教徒、ボン教徒、ジャイナ教徒にとっての聖なる山 だ。
 中世の巡礼は命がけ。エルサレムを目指すキリスト教徒と、メッカを目指す回教徒は、盗賊・海賊の格好の獲物だった。回教徒の巡礼船を襲うのは、ロードス島の聖ヨハネ騎士団の快速ガレー船だ。
 今回出会った外国人の2人に1人はサンチャゴ巡礼に行っている。目的地の聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラを目指す900kmの旅だ。途中にピレネー山脈が立ちはだかる。コースは、7-8通りあり、約20kmごとに安い宿泊所があるそうだ。
 スペインの大半が回教徒の支配下にあった中世とは違い、現代の巡礼は、案外快適らしい。ちなみに、オスマン・トルコもその前も、イスラムの人たちはキリスト教徒の巡礼を黙認していた。エルサレムには、聖ヨハネ騎士団の医療スタッフによる病院があり、巡礼者の治療にあたっていた。
 日本人でサンチャゴ巡礼に行く人は少ないが、クリスチャンの多い韓国人は目立つそうだ。日数に限りがあるのだろう。若い韓国人の中には、一日で40km、倍の行程を行く猛者もいるらしい。
 上にあげた3つの巡礼は、目的地が一つだ。普通はそうだ。ゴールに近づくにつれ、興奮が高まるだろうな。88ヶ所の目的地がある、巡廻式の巡礼は珍しい。四国遍路は、いつ世界遺産になるんだろう。早くしないと、日本人の遍路は、団体旅行以外はいなくなってしまう。

〇 私見だが、巡礼の達成感、その後の人生に及ぼす影響、ご利益(そんなものが、あるのかどうか)に於いて、all 歩きの遍路を100とする。自分のような公共交通を使う、準歩き遍路は50~55。自転車は、電動無しで70。電動付きで55。バイクは30。車は5。
 何しろ、車は楽すぎるし、人との触れ合いもゼロ。宿に泊まれば別だが、車に寝て節約するメリットを捨てることになる。4-50分かけ、急な山道を登ってたどり着くと、頂上に自動車3分と書いてある。
 車遍路の人たちの中に、上下白に輪袈裟、編み笠といった完ぺきな装束で、杖の鈴をシャナリ、シャナリとついて駐車場から出てくる人がいる。こっちは、ここまで5時間かけてたどり着き、ヨレヨレの汗だくだ。これで納経所の人に、本当に歩いてきたの?車じゃない?と疑われたら腹がたつ。大ていの寺で駐車料金を回収しているのだ。
 電動バイクは、バッテリーがいつ切れるかが日々の葛藤らしい。バイクも、やっとたどり着いた農協のスタンドが、日曜休業とかで、ガビーンとなったりするそうだ。自転車やバイクの遍路は、土地の人からよく話しかけられている。だから、点数はそこそこなんだ。
 車で遍路、500回。実際にそんな人がいた。納札がギンギラギンだ。でも自分の中では、歩き遍路5回の人の方が、断然上だ。

ps. これは、自分がこの旅を、巡礼として考えているからだ。修行と考えず、88ヶ所のお寺で礼拝、供養、祈願をするのが目的の人もいるだろう。足が悪くて、長く歩けない人もいるだろう。途中経過を考えなければ、車の遍路は効率がよい。

〇 遍路の日々
・雨の日が、一か月の遍路で3日あった。一日は朝だけの土砂降り。一日は、午後から強い雨に降られた。そして一日は、終日シトシト降る雨。その日は道に迷い、雨の中をあっちこっちと歩き通した割に、実に効率の悪い日になった。編み笠は、ビニールカバーを付けるとしっかり機能する。
 ポンチョは駄目だ。全く役に立たなかったが、ビニールカバーをつけたリュックは、水が中まで浸透して、何もかもが濡れた。悪いことに、ビニール袋に入れてなかった洗濯物は全滅だ。ノートも般若心経も何もかも。その日、寒くて震えながらたどり着いた民宿で、風呂に飛び込むと15分は浸かっていた。
 その時自分は、荷物を買い物カートで転がしていた。ポンチョの中に入れていたら、もう少しよかったかもしれないな。でもかさ張ってビショビショになるポンチョは捨てた。バス停で、年寄りっぽいが頑丈で大きな傘を拾い、クモの巣を払って使うことにした。この方がポンチョより、ずっと良い。靴と足首が濡れるが、それはポンチョも一緒だ。
 その後トイレで折り畳み傘を拾い、ジジババ傘をゲストハウスに置いてきた。でももう雨は降らなかった。

・靴もだが、靴下は消耗する。薄くなり、穴があく。五指靴下を買いたくても店がない。あっても、宿に着いて洗濯をしていると店は閉まっている。終盤、やっと3足組みを買い、だましだまし、薄いのと2枚重ねで履いていた穴あきを捨てた時にはスッキリした。
 結局、風呂には毎日入った。初日の善根宿では、2km先の銭湯に行った。洗濯は、洗濯機は2日に一度か、3日に二度。後は手洗いをした。どの宿にも洗濯機はあるが、乾燥機はあったり無かったり。料金は、かかったりサービスだったりする。洗剤は持って行った方がよい。100円とかかかる所もあるからね。夜干しでもハンカチと靴下以外は、案外乾くものだ。だから着替えは、ほとんど要らない。もし次に行く時は、自分は作務衣にする。
 ある宿で、エアコンの真下に金網で洗濯物を置く工夫がしてあった。これなら数時間でカラカラだ。

・ここらで、遍路路を見てみようか。
 遍路の七割は、国道・県道と市街地の道路だが、中には遍路路もある。また寺に近づくと長い階段や参道、山道になるが、その道は様々だ。着くまでが相当大変な寺は、いくつもある。大変ベスト3、ベスト5を教えることは出来るが、止めておく。自分で体験するが良い。もっとも、どれほどきつくても車でならチャッチャと行ける。







































〇 毎日歩いた。4日目の午後、何だか歩くのが楽しくなってきた。
 足の親指の爪で皮膚科に行き、こうなった経緯を話したら、先生(女医)がこう言った。ああ、歩くのが好きな人なのね。その時、黙って否定しなかったが、それは違います。自分は、歩くのもましてや走るのも大嫌いな人です。少々遠回りでも、階段を避けてEVやエスカレーターに乗ります。
 遍路では、街中でも田舎道でも、歩いていれば刻々と景色が変わる。河川敷や田んぼのあぜ道、ミカン畑が連なる山の路を歩くのは楽しい。秋の空は晴れ渡り、イワシ雲が空高く浮かんでいる。そよ風が吹いて心地よい。
 時には犬に吠えられるが、一歩一歩進んで、次のカーブの向こうへ進むのは、確かな歩みだ。雨の日に傘を斜めに差すと、視界が足元に集中する。思考はあちらこちらに飛び、普段は思い出さないような記憶がフっと出てくる。これは、この状態は歩き瞑想、Walking Meditation だな。

 こう思った。人は死ぬと、こんな風に旅に出るのかな。晴れた空、深い青空に真っ白い雲が浮かぶ。そよ風の吹く遍路路。緩やかな登り道。遠くに緑の山が重なり、道端にはコスモスの花が咲く。小鳥が鳴いている。
 さあ、今日も一人で歩こう。あの曲がり角の先、さらにその先に。急ぐことはない。ゆっくり歩こう。死が、そんな旅路なら悪くない。また新しい旅に出るだけだ。

 自分のように、電車・バスを使うと、2日がかりの長い道や延々と続く車道、街中や住宅街といった所を飛ばすことが出来る。一見つまらなくて退屈でうんざりする道をオミットでき、宿代を節約出来るならいいじゃん。
 でもね、その無駄なような歩きが巡礼なんだ、修行なんだと、俺は思う。やはり遍路の王道はオール歩き。ロープウェイくらいは使っても良いと思うけどね。

☆ 旅のエピソード

 高知の室戸岬にある最御崎寺までは、前の寺から歩いて2泊3日といったところ。ずっと海岸線で、天気が良けりゃ太平洋を日の出から日没まで見て歩く。商店もコンビニも無い。だいたいここを歩くのは遍路だけだ。自販機も数十キロ無かったりする。でも民宿はある。夏の海水浴、釣り客と遍路向けだろう。 
 名著、『四国遍路を歩く』の中で、佐藤孝子さんが、一番印象深いのはこの道、と書かれている。自分は、バスの乗り継ぎがよくて、3-4時間で通ってしまった。バスの窓から見た限りでは、歩いている人はいなかった。
 ある宿の主人(ミカン農家)は、遍路に2回行っているが、この道で台風並みの豪雨と強風にあい、全く逃げ場のない所を、軽トラックが止まってくれて助かったそうだ。このままでは、お前は死ぬから拾ったと言われたそうだ。地図を見ても、道の山側には見事に何も書かれていない。緑と等高線のみ。
 さてその long road の一部を自分も歩いた。バスは万能ではなく、途中までしか行かない。その日は、トレーラーハウスを貸し切り(¥3,000)で泊まったが、なかなかに快適だった。でも歩いている途中に、店は一軒も無かった。饅頭の製造所があったので、一箱6ケ入り300円を買ったら、出来損ないといってもうひと箱サービスしてくれた。
 結局その日の晩飯は、一口饅頭12ケ。翌朝食べるものは何もなく、タバコも切れた。


*エピソード1
 翌朝、 国道56号線を室戸岬目指して、荷物をガラガラと引き、歩き始めた。他に歩いている人などいない。車も大して通らない。タバコが切れていたので、ホテルの看板を見つけて近づいたら、何年も前だろう。廃業していた。
 ずっと先、道の反対側に赤いものが見えた。もしかして、ひょっとするとあれは、コカ・コーラの赤!ヤッタ、自動販売機!おい、飲み物より飯、orタバコだろ。何にしろ、何かが手に入るのはうれしい。
 ところが近づくと、確かに自販機だが、その後ろの建物の屋根にボコっと穴が開いてるじゃん。ここは、廃墟のゲストハウスか?でも自販機は動いた。冷たいコーヒーを飲み、座り込んでコーラも買った。
 気が付くと、自販機の横に大きな水槽がある。藻で曇っているが、メダカのような小魚がいて、ブクブクと空気が送られている。建物、廃墟の横には、たくさんの植木鉢が置かれている。道の前も後ろも、他の建物は何もない。
 しばらくボーとしていたら、いつの間に、どこから?おばさん、メガネで小太りの、普通のおばさんがいて、水差し片手に立っている。目が合って、お互いかすかな会釈をした。でも話しかけるキッカケがない。おばさんは、植木に水をやりに行ってしまった。唐突に現れ、行ってしまったおばさんは、この廃墟の住人?それとも山の方に家があるのか?あるようには見えないけど。
 
☆ 愛媛ミカン
 遍路の一か月で、ミカン箱一箱分ほどのミカンを食べた。四国のミカンは、甘くて美味い。スーパーで買ってはいけない。路傍の無人販売なら、100円で多い時には10個ほど入っている。10月の初めは、青いのが多かったが、だんだん黄色くて甘みが増した。
 すごく小さいのを、ジュースにしているスタンドが寺の門前にあった。ベビーミカンとか赤ちゃんミカンとか呼んでいた。そのまま食べても美味しい。小さいけど、甘いでしょう。自分は、これより小さいのをミャンマーでよく食べていた。
 無人販売は路傍だけでなく、お寺やウドン屋でもよく見かけた。愛媛から香川にかけては、ミカン畑の横を歩くことが多かった。何枚も写真を撮ったはずだが、不思議なことに一枚も残っていない。柿の木もたわわに実をつけていた。アケビを拾って食べたが、これは大して美味くはなかった。山道で、立派な栗を拾ったが、これはお寺に置いてきた。栗は生では食えない。ミカンは、よく飯屋や宿でもらった。ミカン農家は、雨が降らないのを心配していたよ。
 路の両側に並ぶミカン畑。手を伸ばせば、取れちゃうよ。土の上にも落ちている。道路にまで転がったのはOKにして、拾って食った。よい水分補給だ。一度、大きな青いのを拾った。まだ早いかな、と思ったが、これが口の中を柑橘類のジュースで満たした。ドヒャー、旨い!それからは、青いのを買うことにした。




☆ 四国の景気
 豊かな自然と対比して、町は寂しい。大きな街でも商店街は、シャッターが閉まっている店が多い。スーパーの廃墟は迫力があった。ここは地図に載っていたから、当てにしていたのだが、もう10年ほど前に閉じたそうだ。夜街に出ても飯屋がないので、居酒屋でラーメンを食ったり、おにぎりを頼んだりした。もちろん、高知とか活気のある街もあった。









☆ 四国のうどん
 四国で食べた、旨いもんベスト3はこうだ。順位は問わない。まずは、JR牟岐線きき駅近くの民宿、樹園さん。ここは遍路路からは外れている。宿の宿泊客も、工事で来ている作業員さんだけだった。
 22番・平等寺近くにある宿3軒が満杯で、仕方なく泊まったのだが、これが大正解だった。夕食は、鯛の刺身に小鯛の塩焼き。魚と野菜の小鍋、茶碗蒸しに伊勢海老半身が入ったお味噌汁。その他諸々と、これが何とハモの天ぷら。天ぷらは野菜やキス?もあったが、絶品だったな。ハモの天ぷら。
 36番・青龍寺近くの、りり庵さん。この宿は、基本素泊まりなので、自分はラッキーだった。逆打ち(反対廻り)のベテランさん2人と一緒に食べた夕食は、目にも鮮やか。大きな絵皿に、ぐい飲みのような器がたくさん並んでいて、それぞれに楽しいおかずが盛り付けてあるじゃあ、ありませんか。
 どれから食べよう。食べちゃうのが勿体ないな。この宿は、朝食がまたビックリ仕掛けなのだが、言わない。自分で体験するが良い。
 徳島県で道に迷った。また、物言わぬ『四国の道』に出くわし、逆上していると、車が停まって、どうしました?この人は、近くのビジネスホテルの経営者の息子だった。¥5,500はちと高いが、その日の宿を決めていなかったので、ここに泊まることにした。
 ホテルの隣にレストランがあり、フロントの人がここで給仕をしている。同じ経営なのだ。天ぷら・うどん定食、¥1,260 は、自分の基準では高いが、これが正解でした。20cmを超えるほどの海老、カニの爪が2本づつ、イカが1本、しし唐やイモなどの野菜の天ぷら。カニの脚だよ。こりゃ、絶品。
 これらベスト3は、食べるのに夢中で写真を撮り損ねた。映像と味の記憶は、自分の頭の中さ。
 うどんは、あちこちで食べた。10時ちょっと前に店に入ると、開店は10時です。外でお待ち下さい。って客、いないじゃん。ところが、10時3分前に車がワラワラと駐車場に入ってきて、あっと言う間に行列が出来た。家族連れやら、おっちゃん、お兄さん。
 昼過ぎにフラっと入った、うどん屋で食べた、冷やしうどん、300円が一番美味かったかな。氷水の中に、うどんがブっこんである。これは写真がある。





生ハムうどん
これは、あんまし
これは豚肉丼。美味かった。
これは、ラーメンとチキンの定食。美味い。

モーラミャインからダウェーへ

2020年04月07日 15時22分08秒 | 旅日記
モーラミャインからダウェーへ

 3月の終わりから4月の初めにかけて、ヤンゴンから東南の地を目指した。することが無くなったのだ。ミャンマーで初の感染者が出た翌日、先生も生徒も学校に来なくなった。この変わり身の早さは凄い。日本人の生徒さんはチラホラ来るのだが、自分の生徒はミャンマー人なので、全く一人も来ない。
 ヤンゴンの街も閑散としてきた。この後、BBQ  shop、一般の商店、レストラン、ショッピングセンターと次々に店仕舞いが始まる。この街にいても仕方がない。
 で、ダウェーを目指した。海辺でコロナをやり過ごすのだ。一泊4ドルほどの安宿を見つけ、海人となって浮世離れする。でも結局この計画は失敗した。

 さてモーラミャイン。どこの旅行代理店も店が閉まっているので、直接郊外のバスステーションに行った。ダウェー行きのバスは無かったが、モーラミャインまでならある。直ぐの出発だった。料金は1万チャット(約700円)。水を買って飛び乗った。ところが出発したのは定刻の一時間後。午後1時にバスステーションを出て、モーラミャインに到着したのは午後8時半ごろだった。
 バスは最初は空いていたので、最後部の座席を独占して横になった。でも2時間ほどすると、混んできて満席状態になる。一つ隣の席の娘さんが、車酔いしてずっともどしていた。最後の2時間は、またガラガラ状態になった。


 モーラミャインでは、良いホテルのドミトリー(US$11)に泊まったが、客が少なくてベット数が20ほどあったが、他に一人しかいなかった。2泊した。きれいなホテルで食事が美味かった。
 郊外の聖地巡礼。まずは寝仏。ここは、一大仏教テーマパークなのだが、おりからのコロナ騒ぎのせいか、人がほとんどいなかった。







建ててから、着色するんだ。









分かる?新しい寝仏(世界最大の涅槃仏)の隣に、
埋もれていた古代の寝仏が横たわっている。その下半身は崩れ去っている。







 そして、新しい寝仏の体内は、仏教説話の世界になっている。現在も建設途中。
























フー、おどろおどろしい薄暗闇の世界は疲れる。
次の聖地は、平原に突如そびえたつ岩山2つ。





悪戦苦闘の岩山階段登り。

頂上直下で二つの頂上があり、その一つは女人禁制。




もう一つの頂上には、これがある。えっ?これだけ?

そして、もう一つの岩山。ごめん、もうのぼる気が失せた。








これ、何の光?ひょっとして凄い写真なの?





次は、モーラミャイン市内のパゴタ。ここはエレベーターで上に行ける。














わっちっち。裸足の足裏が焼ける。

モーラミャイン市内散見。
大きな市場があるが休みだった。何だか眠っているような街中でした。
街の中をヤギが歩いている。






 次はダウェーへ。鉄道を使った。朝4:30出発でupper class 6,000チャット(420円)
ダウェー着は18時の予定だったが、20:30に着いた。列車は空いていた。
朝4時半のモーラミャイン駅





どこまでも続く緑。

この駅で、列車乗り換え。謎の2時間停車。

 ダウェーで2泊。ここで衝撃の事実が判明。
 どのビーチも、西側の半島部分も閉鎖されて入れない。特に漁村等がある半島は、地元の人すら行けない。汽車も内陸を走っていたので、結局今回の旅で一回も海を見なかった。
 帰りは、列車の運行が無くなりバスも外国人ということで断られ、飛行機で帰ることになった。
























以上、ダウェーのリバーサイドの市場。
何だか細長くて、まとまりのない街だこと。元々この町は通過点にする積りだった。


 
博物館も休み。ダウェー街中

























 何しに行ったのか分からない旅行になっちゃった。海辺で長逗留してコロナをやり過ごすのには失敗した。一人デカメロン計画は挫折した。
 飯屋で、外国人はお断り・出てけと数回嫌な思いをした。でも最後に素敵な出会いがありました。何?それは教えない。 


パテイン紀行

2020年01月05日 13時43分21秒 | 旅日記
パテイン紀行

 12/31から2020年の1/3まで、パテインに行っていました。
ヤンゴンからバスで5-6時間かかります。12/31の21時ごろにバスに乗り、夜中の2時半に着きました。このバスは、早朝5時ごろにビーチに着くので、パテインの町に降りたのは我々2人だけでした。
 おいおい、ここはどこ?道路っ端で食堂があるだけ。男たちが数人麺を食べているが、周りに町はない。男たちに話して、バイクの後ろに乗せてもらいホテルへ行った。10分以上走って70円。夜中の3時に着いたホテルでは、可愛らしいお嬢さんが対応してくれて、チェックイン出来た。
 ほとんど3泊だが、朝食代だけで泊めてくれた。初日はパテインにいて、翌日は午前中にパテイン川クルーズ。午後からビーチへ行った。



お神楽?

パゴタ参道


















街に2軒の映画館






 パテイン川(エイヤワディー川・旧イラワジ川)の川下り。2時間半で2人で1,500円。
支流にも連れて行ってくれた。舟の進行方向に光の洪水が現れた。この光は死ぬ時に出てきそうだ。あっあの光は。どこかで見たな。そうだ、イラワジ川、合掌!









途中、上陸してパゴタへ。









また上陸して、村を歩く。








 グエンサンビーチへは、バスで2時間半かかった。帰りはタクシーで1時間。料金はバス280円。タクシーは、その十倍。ビーチは現地の人が多くて、欧米人はチラホラ。レストランの値段はびっくりするほど高い。


数キロに渡る遠浅のグエンサン海岸。最初は、自分たちだけで独占した。
我々以外に誰も泳いでいなかった。水はきれいでゴミ一つない。

エビ、旨かったー。500円。


 パテインは、竹製の手作り傘が有名です。
街では、エイヤワディー・カレン族のお嬢さんが美人揃いで楽しい。
レストランのビールのキャンペーンガールがカレンで美人。クレオパトラ・カットがよく似合っていた。











この街も、色彩が溢れている。









メルギー諸島の旅

2019年10月28日 16時13分31秒 | 旅日記
メルギー諸島の旅

 ミャンマーは、光と色に溢れていた。そして帰国した日本は、台風19号が通り過ぎていた。
でも嬉しいニュースがあった。日本がスコットランドに勝った。帰宅して直ぐに前日の試合の録画を見た。良い試合だったねー。スコットランドは強かった。

 今回の訪緬の目的は二つ。荷物を仕事場に持ってゆくこと。数年前に観光が出来るようになったベイ(アンダマン海、メルギー諸島)に行くこと。相棒選びは苦戦した。まず息子、次に娘、友人2人に断られた末にキムラ君を捕まえた。一人でもいいっちゃいいが、二人の方がずっと楽しい。キムラ、Thanks。

 この旅行で気が付いた。ミャンマー人は勘が良い。ヤンゴンのホテルの近くの中華料理屋、というか中華居酒屋に入った。高校生くらいの娘さんが数人働いていた。この店、特にうまいわけではない。うまい!とうなったのは、空心菜の油炒めだけ。料理は安いが、ビールは案外高くてぬるい。
 娘の一人が聡かった。英語はほとんど通じない。キムラ君がタバコを手に持って振り向くと、さっと灰皿。取り皿が欲しいな、と思う。キムラ君が振り返って、彼女と目が合うとすかさず持ってくる。何も言っていないのに。さり気なく、素っ気なく。この娘がちょっと得意顔をした。木の棒にネジを打ったので、器用にビールの栓を開けたとき。


テーブルの上にあるのが、手製の栓抜き。

写真を見たらスブタだったのに、実物は肉団子。味はマアマア。

 さて、メルギー諸島に飛ぼうか。ミャンマーに到着した翌朝、朝5時にホテルを出てMyeik(ベイと発音)に飛んだ。ミャンマー国内線は高い。ヤンゴン⇔ベイで3万円以上する。成田⇔ヤンゴンが4万円強なのに。ミャンマー人は半額。それでも高い。でもバスで行ったら25時間かかる。
 ベイの空港に着いたら、やはりゲストハウスのPick upが来ていない。ここには、4回メールを送ったが、返事が来なかった。他のお客さんもいるし(いなかった)、もしかしてって思ったんだが。目がクリクリした空港の係りの娘さんに頼んで、トュクトュクでゲストハウスに行った。ベイは意外に大きな街だ。風が気持ちが良い。やっと海が見えたと思ったら着いた。まだ午前9時だが、ここは朝からチェックイン出来る。部屋に入ったら、窓から海が見えて、対岸に寝仏が見える。合掌。





 ❝地球の歩き方❞ミャンマー版を本屋で見たら、このゲストハウスのマスターが、日本語がちょっと話せると書いてあった。でも本人に会ったら、コンニチハとお元気ですか、だけだった。マスター、何人?何族?ビルマ人ではないスペシャルな顔。ちょっと仕草がオカxがかっている。
 この日は、観光プランは間に合わないというので、対岸の寝仏に行った。ホテルの前が海だが、回り込まないと海に出ない。桟橋に出て、往復5千チャット(350円)で島に渡った。ちょい高いが、他に手段はない。まさか泳いでは渡れない。

































 ホテルの近くのレストタンで昼飯を食った。おかずが30種くらい並んでいる。指さし方式はよい。ここはビールが無かったので、一人200円ほど。清算すると、小学5年くらいの少年がパパっと計算した。早、すげー。飲食店では、大抵家族ぐるみで働いている。みんなのんびりと働く。ここのワタリ蟹は美味かったが、ムール貝は今一つでした。

 夜は、ゲストハウスが経営するBBQの店に行った。マスターがいた。「僕のこと、覚えてる?」「あれ、見た顔だな。宿の主人の兄弟?」本人だった。なんだか楽しそうに働いている。店の女の子とふざけ合って、嬉しそうだ。マスター宿で接客し、旅行プランを売りつけ、夜はBBQ。メールなんぞ、見ている暇がないのね。納得。この店の女の子は、とろかった。2つ注文すると、1つしか持ってこない。ミャンマーの若者がみんな賢いわけではないのだ。ホっとした。





 翌日、高速ボートでいよいよメルギー諸島ヘ。朝7:30~17:30で@US$75。同行者は計10人。日本人2人、イタリア人っぽいお姉さん1人。この人は、たちまち超節約ビキニになった。中国人の品の良い30歳代の夫婦。二人とも良い服装で、いかにもお金持ちだが、気遣いの細やかな感じのよい人達だった。他はビルマ人でした。スタッフは4人。案内役の爽やかな青年2人。船のドライバーと、いつも寝ている少年。
 波の無い海上を、突っ走ること1時間半。途中10kmは続く手つかずのマングローブ林の水路を通り、一つの島に到着した。海面から突き立った断崖に滝が流れ、アンダマン海に注いでいる。
























 滝つぼに飛び込むと、確かに真水だ。気持ちー

次はスマート島。滝の島から30分くらいかかった。絵のような、南の島のビーチ。この島の住人は2人(沿岸警備の人)と犬3頭。でもビーチにはテーブル、椅子、トイレとシャワーが設置されている。ベイに来る時の飛行機の中にメルギー諸島の写真があったが、嘘だろ、というくらい綺麗だ。その写真の半分はスマート島だった。
 この島は白砂のビーチと、反対側に丸石のビーチがある。島の中の疎林を15分ほど横断すると対岸に出る。丸石のビーチは、15cmほどの綺麗な楕円形の石が敷き詰められている。この日のビーチは我々が独占した。















スマート島のビーチで昼食の準備が始まった。実はこのツアー、朝飯がついていると聞いていた。そこでゲストハウスのはパスしようと思ったのだが、飲み物だけと座っていたら飯が出た。焼き飯と、その上に二つ折りにした玉子焼きでした。これが何とも美味い。これを食っておいてよかった。

 昼食前に別の島に渡って、シュノーケルで水中観察。海の中は、うわっと水族館。水深2~5mの海の底に様々な熱帯魚が群れをなして泳いでいる、じゃあありませんか。これは楽しい。海底には、サンゴとウニ。泳いでゆくと、海底は変化に富んでいて、泳ぐ魚の種類が変わる。緑の小魚の群れ、エンゼルフィッシュのような奴。赤い魚、黄色い魚。大きな魚はいなかった。









 スマート島に戻る途中、海のジプシー、モーケン族の船に乗って、海老・イカ・タイに似た大きな魚(80cmほど)を買った。モーケン人は視力8.0、子供の時は目の瞳孔が海中で自動的に調整され、水中メガネがなくてもくっきり見えるという。精悍な男たちだ。





 スマート島に戻って食べた昼飯は美味かった。ご飯と5種類のおかず。甘いスイカとBBQのエビ・イカ・タイ。南の島は良いねー。夢のような一日でした。これほど価値ある8千円(ツアー代)は、そうはない。













 ベイを拠点とする島巡りのツアーには、もう一つ代表的なコースがあるようだ。そちらは、垂直の断崖に薄っぺらい掘っ建て小屋がへばりつくように建てられている。断崖は、そのまま海の底まで続いているのだろう。群青色の海から、小屋まではロープか細いハシゴで登るしかない。岩ツバメの巣を採る人たちの住む小屋だ。そこに海上から近づく。あと、海岸近くの断崖にエメラルドグリーンの湖がある島。他にも色々なオプションがあるんだろうな。こんど来たら、あのマングローブ林の中にあるバンガローのような家に泊まりたい。

 10月は雨期の終わりで、午後や夜に雨が降る。時には、凄まじい豪雨となる。海に行った日も夜になって雨が降った。本格的な観光シーズンは11月からだが、観光客って来るんだろうか。シーズンをちょっとずらして行くのも良いね。ベイで見た欧米人は3人のみ。スマート島の熱烈歓迎犬と同数だった。日本人は旅行中の1週間、ヤンゴンの空港だけで見た。年間6万人の日本人がミャンマーに来るそうだが、皆さんどこに行くんでしょうね。別に全然会いたくないが。

ヤンゴン市内
*シュエダゴンパゴタ




















*ヤンゴン街中












*スーレーパゴタ








*環状線の旅








 車内には、次々に物売りが通る。食べ物や水は分かるが、メガネ売りのおじさんが来て、あわや売れそうになったのには驚いた。買い手のおっちゃんは、あれこれメガネを取り換え、売り手の用意した新聞を読んでもうちょっいで買いそうだった。

*ダニンゴン(Danyingon)駅
 この駅は、線路に商品を広げた市場が有名だった。時速15kmの電車が近づいてきたらどける。でも今はやっていない。近くに大きなマーケットが出来て、そこに移ったのだ。最初、駅を間違えたのかと思った。発展加速中の国では、早いテンポで変わって行く。




































 このチビ尼の行進が面白かった。先頭が小学5年くらいの子。2番目と3番目のチビ尼ちゃんがハリキリ屋さんで、店の前に立ち大きな声で唄う(お経?)。すると店のお姉さんが、売り物の葉野菜やら何やら、バサバサとチビの持つ袋に入れる。みんな優しい。行軍の最後は、中一くらいの尼ちゃん。この子はやる気がなさそうだ。

 このマーケットは食品だけではない。衣服、日用品は別棟にあり、そこには屋台の食堂が5-6軒あった。
 それにしてもミャンマーの電車は不思議だ。本当は、バゴー(ヤンゴンから1時間半ほどの古都)に行く予定だったのだが、一日10本あるはずの電車が、何故かこの日は15時が始発。何なの。
 ミャンマーの環状線の電車は、ドアがない。開けっ放しです。

*ヤンゴンの原宿、レーダン












 原宿ってこんな?日本の原宿をよく知らないことに気が付いた。ここには、語学学校、パソコン教室が多い。でも日本語学校100軒、って大げさだろ。
 ヤンゴン大学はレーダン地区にある。凄い敷地だ。門から建物まで歩いて10分はかかりそう。軍事政権の時には、この大学は目の敵にされ、学生は次々に投獄された。血も流れた。平和になって良かった。本当に良かった。

*チャウッタージーパヤー


















 夕方の航空便なので、国立博物館で時間をつぶそうとしたら、何故か休館。この国は、何故か何故かが繰り返される。それを楽しむ人でないと、ストレスが溜まるんだろうな。それじゃあと、ここに来た。今日はミャンマーの祝日(満月の日)で、タクシーから見たらシュエダゴンパゴタに人が続々と集まっていた。ここもたくさんの家族連れが来ている。みんな本当に、仏陀が好きなのね。

 嗚呼、今度の旅も面白かった。ミャンマー、大好き。

・この国の人は、外国人を意識しない。我々が視線を集めることはない。全くない。他民族で、慣れている?カレン族、カチン族、チン族、インド人、アラブ人、中国人、etc
・国連の言う最貧国なのに、皆おしゃれ。特に女性の服がカラフル。子供服が街に溢れている。
・若者と、特に子供が多い。日本はどこに行っても、山でも図書館でも、スポーツジムでも博物館・植物園でも年寄りばっかで、服は地味。
・英語が通じない場合を除いて、誰に道を聞いても親切に教えてくれる。
・英語が日本より、はるかに通じる。
・町のコーヒーが、一杯15円。カップにお湯。ネスカフェの袋。これが砂糖たっぷりなのが残念。
・タクシーの運ちゃんがボラない。ジャカルタやマニラなら、平気で30倍くらい吹っ掛けてくる。
・物売り、変な日本語をしゃべる自称ガイドがいない。但し、ボージョーアウンサンマーケットは別。カミさんと一緒の時は来なかったが、今回男二人には、次々に貼りついた。
・地方は別だが、ヤンゴン市内にバイクと自転車は走っていない。トュクトュクもない。
・ヤンゴンには、パッポンや歌舞伎町のような歓楽街がない。ゴーゴーバーもトップレスバーもない。

 シュエダゴンパゴタが町の中心に立ち、終夜ライトアップされている。これが、高層ビルで隠れてしまうまでは、この街は大丈夫なんじゃないかな。仏様にあんなに見られていたら、そうそう悪いことは出来ない。

 やっぱ、旅は相棒だね。思いついた感想を相棒にその場で話すのが楽しい。但しミャンマー人は、意外と日本語が分かる人がいるので要注意。相棒が喫煙者なら、なお良い。キムラ君に感謝!待ってろよ、ヤンゴン。29日に行くぜ。

*追記
 二人で旅すると、相手から思いがけない感想や提案が出てきて、旅が豊かなものとなる。それだけではない。タクシー代やホテル代も効率的なものとなる。鉄道のような移動手段では個人単位だが、ミャンマーの鉄道はただみたいな値段だ。

 ヤンゴンのホテルは一泊US$35 くらいだったが、日本のビジネスホテルに比べたら、スイートルームといえた。割引料金とはいえ安いし広い。窓からは、シュエダゴンパゴタが終夜輝いていた。最上階の食堂のベランダでは、加えてスーレーパゴタが兄、妹のようにそびえるのが見えた。

 ベイから戻って、このホテルに荷物を置こうと10:30AMに着いたら、好意でそのままチェックインさせてくれた。あのフロントの女性は品があって綺麗だったが、その時しか見かけなかった。残念。
 部屋のある6FのEVを降りたら、制服を着た女子高生?の群れが出迎えるように立っていた。その数15-20人。みんな小柄で、好奇心満々。清掃のお姉ちゃんなのだが、まるでスズメの学校。何が楽しいのかクスクス笑う。どひゃー、こんな規模のホテルになんちゅう人数。しっかし、可愛いねー。やっぱ、この国の未来は明るい。こんなに健康で賢そうな若者が有り余っているんだもん。