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旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

銭湯

2015年10月13日 19時12分31秒 | エッセイ
   銭湯

 子供の頃は、特に風呂も温泉も好きではなかった。家族旅行は楽しかったが、温泉が目的じゃあなかった。その点、自分の子供達は旅行も温泉も子供の時から楽しんでいる。釣りもそうだな。お兄ちゃんは船酔いがあって海釣りは苦手だったが、桟橋からの釣りや釣堀に行くのは好きだった。娘とはよくボートに乗って海釣りをした。
 街の銭湯に行くようになったのは、子供たちが小さい頃からだ。チビ共とワイワイ入るのは楽しい。自分が子供の時と比べれば半減したとはいえ、探すと街には銭湯が結構残っているものだ。それぞれ特色があって面白い。一人で行ったり、家族で行ったりした。行き始めて数回目の事だった。その銭湯には小さなサウナ(+100円)があった。そのサウナで目一杯我慢し(サウナ自体は楽しいものではない。)、一人で一杯になるような小さな水風呂に入り体を冷やす。ギンギンに冷やし頭には冷水をザバザバかける。それから温かい風呂に入るんだな。これが気持ちいい。たまらんなー。水風呂は15-6℃で、温かい湯船には少量の薬草が入っていて、薄い黄緑色をしている。43℃くらいだ。そこでフー、体が溶けてゆくような気持ちの良い体験をしたんだ。
 湯から出している頭から下がお湯に溶け出し、体から剥離していくような感覚ね。あったかくて気持ちいー。その日二回目、三回目のサウナ↑水風呂↑薬草風呂のパターンを繰り返したが、残念ながら最初の体がとろけてゆくような感覚には届かなかった。その後子供達は大きくなって一緒に銭湯に行くことは無くなったが、自分は一人で時々行った。あの水溶人体の感覚はそれ以降ない。
 そのうちに近所にスーパー銭湯が出来た。これは良い。値段も銭湯より150~200円高いだけだが、温泉に行った気分になる。それまでにも繁華街のビルにサウナや、屋内のプールと各種風呂で一日過ごす、といった施設はあったが、一日3千円とかはするしサウナは良い雰囲気ではない。スーパー銭湯は次々に出来て、湯めぐりをするのも楽しい。特に車で10分ほどの所に出来たスーパー銭湯は、裏山に木々が生い茂っていて、露天風呂は本当の温泉に来た風情がある。人気があって混雑するが、平日の昼間はさほどではない。夜勤、夜勤と続く時に家には帰らず、スーパー銭湯で風呂に入り、仮眠し食事しまた風呂に入ったりした。箱根や湯本の日帰り温泉も良くカミさんと行く。
 自分は見ずに溶けてゆく、あの感覚を追い求めているのかもしれない。気持ちいいー、という所までは行くが、溶ける蕩けるといった感覚はその後味わってはいない。あのね、何だかH好きのマダムのようなコメントになっちゃったけど、そんなんじゃないからね。
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捨て奸 嗚呼、関ヶ原

2015年10月13日 19時05分37秒 | エッセイ
捨て奸 嗚呼、関ヶ原

 天下分け目の大合戦、それはやはり関ヶ原だな。西軍10万、東軍7万、真田昌幸の2千に翻弄され、合戦に間に合わなかった徳川秀忠隊3万8千。前哨戦とも言える上杉討伐。徳川が引き返した後、上杉景勝は直江景勝に命じて最上を攻めている。この最上攻めには戦国一の傾き者、前田慶二も加わっている。九州では異彩、黒田官兵衛が暴れまくり、関ヶ原が一日で終わらなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれない。
 日本人の記憶に残る合戦といえば、古くは源平合戦、特に義経の一の谷の合戦、屋島の戦い、壇ノ浦合戦。戦国時代では桶狭間(田楽狭間)の合戦、姉川の戦い。武田信玄と上杉謙信の一騎打ち、川中島の戦い。本願寺と信長の長期に渡る、石山合戦。家康が馬上で脱糞して信玄から逃げ回る、三方ヶ原の合戦。武田の騎馬隊が、信長・家康連合軍の鉄砲隊に撃ち破られて壊滅する、長篠(設楽が原)の合戦、本能寺の変、山崎合戦、賤ヶ岳合戦、小牧長久手の合戦、まだまだいくらでもあるが、きりが無いので筆を置く。秀吉の三木城干殺し、高松城の水攻め、小田原城攻略等、攻城戦は除く。
 信長が出てくる前では、毛利の厳島の合戦があるな。しかし期間が長く戦死者も多く出たはずの応仁の乱や、畿内の三好三人衆の乱戦、松永弾正が登場して裏切り、将軍殺害、東大寺大仏殿焼き討ち等は、ヒーローが不在で劇的要素に乏しいから小説に書かれることも少ない。関ヶ原の後は、大阪冬の陣、夏の陣をもって豊臣は滅び、戦国の世は終わりを告げる。天草・島原の乱はおまけだ。
 戦国の男は、現代人とは精神構造が違う。花の戦場で男をあげることは命よりも大切だ。バサラとか傾き者といった、一瞬の間に命を輝かせる男の美学だ。苦しい事のみ多かりし現世をダラダラと生きるよりは、天晴れ豪傑よ、と感嘆されて討ち死にしたいものよ。南北朝の婆娑羅(バサラ)から戦国時代から江戸初期の傾き者は云う、「廿五まで生き過ぎたりや、一兵衛。」
 関ヶ原では小早川秀秋の裏切りがあるまでは、むしろ西軍が優勢だった。石田隊は黒田・細川・加藤を相手に、島左近の活躍で持ちこたえ、宇喜田秀家17,220名は主に福島正則、藤堂高虎を相手にして意外なほど善戦した。小西行長の相手は、織田長益、古田重勝等の諸隊だがこちらはあまり生彩がない。この男もここで負けたら後がない。しかし西暦1600年10月21日、関ヶ原の戦場で最も輝いた男は大谷吉継だった。吉継はらい病に侵され、顔は崩れ目はほとんど視力を失っていた。顔を布で覆い、戸板の上の椅子を据え付けて座り、四人の部下に運ばせた。戦場の様子を部下に刻々と報告させ、次々に的確な指示を出す。もともと吉継は西軍に付く義理も必然性もなかった。家康の命により上杉討伐に出陣するところに光成の誘いを受けた。聡明な吉継は、分が悪いことを重々承知した上で光成との友情に殉じ、命も家も捨てた。3,000名の大谷隊は藤堂高虎、京極高知等数倍の敵と戦いつつ、半ば小早川の裏切りを予想して伏せておいた600名の兵をもって、小早川1万5千の松尾山からの逆落としの襲撃を一度は撃退している。隣に陣を置いた脇坂が小早川と呼応して裏切り、脇坂の動きに引きずられて朽木、赤座、小川の緒隊合わせて4,200名が大谷隊に襲い掛かるに及び、ついに壊滅した。吉継は病に侵された醜い顔が敵の手に渡るのを避ける為に、部下に命じて首を打たせ、その首をどこかに埋めさせた。大谷吉継の奮戦には、東軍の武将たちも惜しみの無い感嘆の声を送っている。
 吉継は、三成に「お主は人に嫌われている。総大将は人に任せ出過ぎないように。」と諭し、味方をする。以前秀吉の茶会で武将達が茶を回し飲んでいる時、吉継の顔を覆う布の下から膿汁が一滴落ちて、茶の中に入ってしまった。さしもの豪傑、戦国の武将たちもハンセン氏病は恐ろしい。誰も手をつけなかった茶碗を三成が取り上げ飲み干したという。身の縮む思いでいた吉継は三成の好意で救われた。当時の人は純粋で感激屋だ。この一事で命はあげるよ、と言い出しても不思議ではない。
 石田三成は検地や町割り、兵站で抜群の手腕を見せるが、どうしようもない戦下手であった。本人もそれを自覚している。右腕となる島左近を迎える時、当時四万石の三成はその知行の半分、二万石を左近に与え、さらに加増したらその半分を渡すと約束する。戦国の仕官は石高でどれだけ男を評価されるかを表わしていたから、三成の左近に対する四万石中二万石という待遇は破格というよりは、正気の沙汰とは思えない。左近はこの主君に命を捧げて仕えると決意し、事実その通りにしている。またその後三成が加増しても、二万石以上は決して受け取らなかった。金ではない、男の名誉と意地なのだ。世に「三成に過ぎたるものが二つある。島の左近と佐和山の城」と唄われた。
 このように三成には良い所がたくさん有るが、島左近が二度在阪中の家康を襲撃して殺す作戦をたてたが、それに乗らない。関ヶ原の合戦の直前、遠路到着した東軍の先遣部隊に夜襲をかけようと、左近が島津義弘と一緒に提案するが三成は却下してしまう。義弘はこの事もあってすねてしまい、関ヶ原当日の連携を乱す。三成は頭の回転が速くて独創性もあるが、人の気持ちを推し量る事が出来ない。惜しいかな、人の上に立つ器ではない。
 関ヶ原で東軍として戦った豊臣恩顧の武断派の武将達からは、不倶戴天の敵として命をつけ狙われた。三成を裏切った小早川、脇坂は朝鮮出兵での因縁で三成を憎んでいた。もっとも武将達は、理不尽な朝鮮出兵に対する怒りを主君秀吉にぶつけられず、小賢しい三成に代理でぶつけた気配がある。しかしここまで怒らせたのは三成が悪い。人付き合いと要領が悪いのだ。現代でもいるタイプである。三成を見ていると、戦国の人とは思えない。時代を先取りしたような男だが、あくまでもNo.2で力を発揮する人物だ。だが残念ながらこれだけの切れ者を使いこなす人物はそうはいない。
 家康は、武断派の三成への怒りに油を注いでやるだけで良かった。あと利をもって誘いに乗る連中は扱いやすい。似非義人で正義の人を気取った家康が最も苦手とするのは、己の信念によってしか動かない男達だ。上杉、直江、島津、真田、大谷、立花といった武将たちで、家康は彼らにきりきり舞いし、何度も窮地に追い込まれている。それにしても徳川の家臣を除き、関ヶ原で戦った西軍も東軍も主だった武将は全て豊臣秀吉の配下にあった。晩年はボケ老人と化したが、秀吉の人使いのうまさ、人材登用の巧みさが良く分かる。武断派も能吏である三成や吉継も秀吉には心より仕えている。太閤秀吉、やはりただ者ではない。
 先ほどの夜襲だが、三成が却下してしまったのは実に惜しい。夜襲が得意の日の本一の戦上手、立花、一騎当千の荒武者集団の島津、それに島左近が力を合わせて夜襲を敢行していたら、凄まじい戦果が上がっていたものと思う。左近は夜襲こそ出来なかったが、前哨戦となった杭瀬川の戦いで、宇喜田秀家の将、明石全登と力を合わせ東軍の先鋒を打ち負かし、何かとまとまりの悪い西軍の意気を高めた。
 さて合戦の日の関ヶ原は、早朝より濃霧が一帯を覆い10m先も見通せない。銃の火縄に火を点し、武具をガチャガチャいわせて進む東軍兵士は、いつ敵陣に当たって一斉射撃を食らうかと恐ろしかったことだろう。戦端は、井伊直政と先陣争いを演じた福島正則隊が浮喜田隊に襲い掛かることによって始まった。午前8時、一気に霧が晴れ西軍陣地が突然目の前に現れた。途端に鉄砲隊の一斉射撃による硝煙が立ち上り、戦場は再びかすむ。銃声、怒号、関ヶ原は一気に耳をつんざく大音響の修羅場と化した。
 石田隊6,900には黒田、細川、加藤(嘉明)の計17,000が殺到する。何しろ三成は最大の獲物だ。島左近が引き付けて鉄砲隊の餌食にする。しかし不幸にして早い段階で左近は銃創を負ってしまう。黒田の鉄砲隊によるものだ。左近が手当ての為に下がると、石田隊の将、蒲生郷舎が前に出て奮戦する。2.5倍の敵を引き受け一歩も引かない。押されそうになると、三成が戦場に運び入れた秘密兵器、大砲(フランキ砲)5門が凄まじい音をたてて黒田隊に向け発射される。左近は怪我をおして前線に復帰し、石田隊が前進を始める。黒田の兵士は数年たっても、夢で左近の「かかれーっ!」の声を聞き、飛び起きたと言う。小早川、吉川の裏切りがなければ東軍は切り崩されていたかもしれない。左近の嫡男、新吉信勝は見事に敵の部将を討ち取るが、この戦場で花と散った。十八か十九歳だった。不思議なことに戦後東軍がいくら探しても、大谷吉継の首と島左近の死体が見つからない。戦後何年もたってから、左近をどこそこで見かけたという話が出たが、生きていたとしても再び世に出ることはなかった。
 さて主戦場では小早川の寝返りにより勝敗は決した。東側の南宮山では家康と通じた吉川広家が出口を塞いでいるので、安国寺恵瓊、毛利秀元、その後ろに長宗我部盛親、あたら3万もの兵がなすところなく時を過ごす。三成の狼煙に反応しない。意味も無く時間は過ぎて勝機を逸したが、退却戦で少なからぬ被害を出した。自ら不戦を選んだ広家はともかく、安国寺は逃亡して捕らえられ三成と共に斬首されているから、末代まで醜態を晒してしまった。6,600もの精兵を持ちながら、晴れの舞台で退却しかしなかった盛親は、この日から苦しい14年を過ごす羽目になる。
 さてこの日戦場では2万丁の鉄砲が使われている。この17世紀が始まる年において、日本の鉄砲保有率は間違いなく世界一である。使用法も抜きん出ている。朝8時より始まった戦闘は6時間たち、ようやく終わろうとしている。午後2時太陽は真上にある。背後の山へ、武器を捨て丘を越えて逃げていく石田、小西、宇喜田隊の敗残の将、足軽兵、それを追う東軍の大軍勢。人馬が西へ西へと動くなか、岩の如く固まった一隊が戦場に残っている。丸に十文字、薩摩島津隊だ。
 島津義弘は甥の豊久と共に成り行き上西軍に加担したが、本国薩摩藩主、義弘の兄である義久は大の三成嫌い。関ヶ原の島津隊は、大阪の留守部隊と本国から自分の意思で駆けつけた兵を併せても1,588名の小勢だ。義弘は無類の戦上手で薩摩兵はつわもの揃いだ。薩摩のぼっけもん中馬重方は畑仕事をしていたが、大阪の戦の話を聞くと手にしている鍬を放り捨て、知らせてくれた胞ばいを殴り倒してその具足と槍を奪いその場から駆け出した。一刻も惜しかったのだ。中馬は九州を駆け上り、歩き通して関ヶ原に直前に到着したという。槍を奪われた同僚は中馬に家に行き、彼の武具を身に着けて後を追った。
 義弘は慶長の役で、太閤秀吉の死を知って残留日本兵を殲滅しようと勢い込んで進撃してきた明軍20万を、釣り野伏せにかけ一万で撃退した。釣り野伏せとは、島津や立花が得意とした戦法で、簡単に言えば包囲殲滅戦である。先鋒が敵と当たり、タイミングを見て負けと偽り退却する。懐に誘い込むと両脇に伏せておいた兵が立ち上がり、両側から銃撃を浴びせる。云うは簡単だが、鍛え抜かれた兵がタイミングを合わせて攻撃をかけないと逆につけ込まれる危険がある。退きが早すぎても敵は乗ってこない。義弘は海戦でも朝鮮水軍を破り、英雄李舜臣を戦死させている。この際どい勝利で日本軍は撤退が出来た。朝鮮では子供が泣き止まないと、鬼が来るぞと脅す代わりに鬼石曼子(グイシーマンズ=島津)が来ると言い始めた。最も困難で今や何の報奨も無いしんがり戦で、島津が見事な勝利を得たことによって、日本軍はかろうじて朝鮮から撤退した。
 さて島津隊1,500人、この時点で1,000人を割っていた小部隊だが、薩摩の勇猛は全国に知れ渡っているので、諸隊もうかつに手を出さない。手柄を拾うのなら、西へ逃げる敗残兵を追うほうが楽で危険もない。大合戦は終わりに近づき、戦場には万余の死体と重傷者が転がっている。今さら命をかけたくはない。余談だが、関ヶ原には戦後数年たっても、誰かの手で石仏が持ち込まれて密かに置かれたという。
 さて戦場の真ん中で島津は進退窮まっていた。周りの西軍諸隊が潰走したため、今まで積極的に戦闘をしてこなかった島津は、東軍の5万人に取り囲まれてしまったのだ。味方はどこにもいない。明らかに撤退の時期を見誤ったミスだ。義弘は切腹しようとしたが諌められ号令を下す。「東方にあいかけよ。」ここから島津の中央突破が始まる。正面の敵、福島隊は朝からの宇喜田との激闘で疲弊していたが、それでも島津の五倍の兵力を持っている。しかし正則、戦場を往来してきた武将のカンが冴えた。「手を出すな。あやつらは死兵と化している。」
 銃弾を撃ち込み、槍を揃えて一丸となって突っ込んでくる島津隊にそれでも手を出した福島の武将は返り討ちにあった。福島隊の脇を島津は声を揃えて通り過ぎる。「えいとう。えいとう。」西へ向かう五万の東軍兵に逆らって、一千を切った島津隊は真一文字に東に進む。大軍が立ちはだかり次々に討ち取られみるみる兵を減じるが、島津は進行を止めない。関ヶ原を突っ切り気が付くと、家康の本陣の前にポッカリと出た。300を割る小勢だが火の勢いだ。家康は慌てた。本隊は西に去り、後方にいた徳川隊は大半、南宮山の毛利軍団を追っていた。本陣の旗本衆は手薄になっていたのだ。しかし島津は家康本陣への突入はせず、直前で右に折れて伊勢街道に向かった。
 家康は徳川の譜代衆を呼び戻し、島津を追わせる。禍根は断て、維新(義弘の号)討ち取るべし。島津は捨て奸に出た。捨てかまり、または捨てがまりと言うが、カマリの意味は良く分からないようだ。一人、又は数人で戦場にゴロンと転がり、追撃部隊の主に騎馬兵を引きつけて狙撃し、撃ち終ると槍をつかんで追撃隊に突入する。死ぬまで暴れまくり敵を足止めする。座禅陣ともいう。退却の時間稼ぎ、トカゲの尻尾切りだが、この切り離された尻尾は死を決した恐るべき兵士だ。島津隊は前方の敵を撃ち砕き、後方の追撃を捨て奸で防ぐ。義弘の甥の豊久も重臣たちも捨て奸、義弘の陣羽織を借りて身代わりとなって果ててゆく。
 ここは大将を薩摩に逃がすしかない。義弘が生きて国に帰れば、島津は負けたことにはならない。主君の為に犠牲になるというより、勝利をもぎ取る為に有機的に動いた結果が捨て奸だ。この時の薩摩兵は勝利も生死も度外視していた。遮る敵を倒すのみ。指揮官が指示することもなく、絶妙のタイミングで殿の兵士が草原にゴロンと横たわり、敵の指揮官を狙う。自分の役割を命を捨てて果たす。こんな軍団は最強だ。捨て奸にかかり、井伊直政(武田の遺臣を引継ぎ、赤で統一した武具をつけた赤備えで有名)は足を射抜かれて重傷を負った。直政はこの傷の治りが悪くて数年後に死亡。家康四男の松平忠吉は狙撃され負傷。本田忠勝は馬を射抜かれ落馬。
 関ヶ原を西から東へ真一文字に突き進み、島津隊はついに戦場を突破した。1,000人が80人になっていた。ぼっけもんの中馬重方はこの中には入っていない。戦場を離れた義弘は、船で薩摩に帰国する。この凄まじい中央突破は薩摩の途方もない強さを印象づけ、家康はついに薩摩討伐を諦める。関ヶ原の合戦の敗者でありながら取り潰されなかった長州(毛利)と薩摩(島津)、取り潰された土佐(旧長曾我部)によって、徳川は260年後に滅ぼされる。
 薩摩では毎年関ヶ原の合戦の日になると、若者たちが早朝より真剣、木剣を持って山に駆け登り、山頂で皆が口々に叫ぶのだそうだ。「関ヶ原。嗚呼関ヶ原!」江戸時代を通じて明治維新までこの風習は続いた。関ヶ原の戦場で死んだ1,500の勇者たちの敢闘精神は、時を越えて薩摩の若者の心に火を点け続けたのである。
 さて三成は関ヶ原で大きな過ちを犯している。立花宗茂を大津城攻めに使ってしまい、関ヶ原に置かなかったことだ。立花は九州の大名で、戦国最強と言っても過言ではない。この時4,000の鍛えぬいた精兵を率いて西軍に組していた。文禄・慶長の役で立花は、800の兵をもって朝鮮軍2万2千を夜襲、火計を使い撃破している。また1,000で5,000の明軍を夜襲、撃退した。加藤清正からは「日本軍第一の勇将」と絶賛され、小早川隆景から「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と褒められた。秀吉から「日本無双の勇将なるべし」と感状を送られた。こんな男は二人といない。初陣より生涯一度も負けを知らない。立花の4,000を戦場に置き、東軍を早い段階で打ち破っていたら、小早川秀秋は、松尾山から戦況を見て裏切りをためらったはずだ。元々煮え切らない優柔不断な若者だ。
 宗茂は大津城攻めで、城方の夜襲を見破り大損害を与えているが、関ヶ原の大舞台に出られなかった事を生涯の痛恨事としている。もともと立花宗茂は、その戦闘力を恐れた家康から破格の待遇で誘われている。別に西軍にいる義理はなかった。ただ晴れの合戦場で己の力を存分に発揮したかっただけだ。それには西軍の方が自由が利いたからに過ぎない。
 ところで島津と立花は船で一緒に九州に帰ったと言ったが、義弘は立花宗茂にとって親の仇である。船中で部下が小勢の島津を殺してしまおうと提案したが、宗茂は却下し逆に義弘を守って国に送り返した。恩にきた義弘は、宗茂に援軍を送るが3日違いで宗茂は開城、降伏していた。
 さて合戦後、立花、島津、その他はどうなったのだろう。

*関ヶ原、その後
・島津 : 所領を安堵される。
・毛利 : 120万石から36万石へ減封。260年後に倒幕。
・上杉景勝、直江兼続 : 陸奥・会津120万石から、出羽・米沢30万石へ減封。家臣ながら30万石の直江兼続は子がなく断絶する。
・立花宗茂 : 島津義弘とともに船で九州へ脱出。帰国後東軍の勝ちに乗じて攻めて来た黒田如水、加藤清正、鍋島と激しく戦う。特に鍋島は西軍に属していたので、失点回復と攻めてきたが撃退した。しかし天下の趨勢は決まっている。加藤清正の取り成しで降伏する。清正は朝鮮で宗茂に命を助けられている。家康によって改易され浪人となる。
家康は宗茂が大阪の陣に参戦することを最も恐れ、何度も引き止めている。それもあってか1万石の小大名に取り立てる。その後加増されて3万5千石。子孫は明治維新まで残った。
・石田三成、小西行長、安国寺恵瓊: 六条河原にて斬首、獄門。 キリシタン大名で堺の貿易商人だった行長は、血縁のものが生き残り、平塚だかで漢方薬局をしているそうだ。子孫はクリスチャンではない。
また中世のビルマの西隣にミャウーという仏教国があったが、そこに数十人の日本人傭兵隊がいたという記録をポルトガル人が残している。王に信頼され、親衛隊として宮廷に仕えたこのサムライ達はキリシタンだったという。小西行長の残党かもしれない。天草・島原の乱でも小西の残党が活躍している。
・真田昌幸、幸村 : 家康が下した処分は父子とも死罪、上田領没収だったが、長男で東軍で戦った信幸とその義理の父、本田忠勝の必死の助命嘆願により高野山に流罪となる。後に九度山へ移る。昌幸はその地で死ぬが、14年後に幸村は脱出して大阪城に入り、大阪冬の陣(真田丸と呼ぶ出城で徳川軍を粉砕する。)夏の陣で大活躍する。幸村最後の突撃によって、家康はあわや討ち死にの一歩手前まで追い詰められる。
・宇喜田秀家 : 戦場より脱し行方知れずとなる。あの日小早川の裏切りにあって、刺し違えようととしたが明石全登に諌められ脱出した。家康は散々行方を探し、薩摩に匿われている事を突き止めた。薩摩も庇いきれず、戦後3年たって江戸に護送された。八丈島に僅かな供回りと共に流され、島で50年生き84歳で死ぬ。
・長宗我部盛親 : 土佐の領土没収、改易となり京で寺子屋の先生となって世を送る。若い頃の短気な性格も、長く貧しい浪人生活で人格が練れたようだ。1614年大阪夏の陣に旧臣、浪人1,000人を率いて参戦する。木村重成と共に5千余の豊臣軍主力を率い、藤堂高虎隊を潰走させる。戦後逃亡を図るが捕らえられ斬首。

・ 徳川秀忠 : 3万8千、徳川軍主力を率いて中仙道を大阪に向かいながら、真田昌幸2千のこもる上田城攻めで翻弄され時を費やし、関ヶ原に間に合わなかった。家康に叱責されるが、二代将軍となり堅実な政治で徳川の世が2百年以上続く礎を築いた。
・ 小早川秀秋 : 35万7千石から51万石に加増するが、世間の悪評にくさり酒浸りとなり2年後に狂死。子がなく断絶となる。
・ 福島正則 : 加増されるが家康に警戒され、大阪の陣では江戸に留置される。その後言いがかりをつけられて減封され、正則の死後には取潰しとなる。
・ 脇坂 : 所領安堵。
・ 朽木 : 減封。
・ 赤座 : 所領没収。
・ 小川 : 改易。

・ 大谷吉治 : 大谷吉継の子(一説には弟)関ヶ原の激戦場より脱出。14年後に現れ大阪城に入城、100名の隊長となる。豊臣方最後の戦い、天王寺・岡山の戦いで討ち死に。
・ 明石全登 : 関ヶ原を脱し浪人となる。最初は黒田官兵衛(如水)の庇護を受けた。大阪の陣が始まると参戦、最後は家康本陣へ突入して戦死したと言う。しかし逃亡したという説も多い。明石全登は熱心なキリシタンで、戦場に十字架の旗を翻している。南蛮へ船出したという噂は多い。元国連事務次長の明石康氏は全登の子孫である。

*関ヶ原で西軍勝利、徳川家康討ち死に。
関ヶ原で西軍が勝ち、徳川が亡んでいたら日本はどうなっていただろう。この空想は楽しい。日本の中心は大阪で、標準となる言葉は当然関西弁だ。豊臣秀頼が成人するまでは戦乱の世が続いたかもしれない。その場合、関ヶ原には参戦していないが伊達政宗は当時33歳だったから、彼の活躍は見ものだっただろう。
世は実力本位で、海洋進出は盛んに行われテクノロジーは飛躍的に発展しただろうな。江戸幕府は、世界でも稀に見る自主的な軍縮(鉄砲・大砲の時代から弓矢の時代への逆行)を行っている。士農工商とか朱子学なんぞはクソくらえ。細く長くではなく、太く短くだ。孝だの忠だのミミッチイ事には捕らわれずに、世の中はダイナミックに動き貿易が盛んに行われ、港は異国船で賑わったことだろう。建築、医学、絵画、衣服、食事、音楽、全ての面で開放的で国際的になる。火縄銃からライフル銃への進化、大砲の大型化と火薬の性能向上が、日本で世界に先駆けて進んだ可能性がある。オランダとイギリスの東インド会社と張り合って、日本が東南アジアに帝国主義的な進出をしていたかもしれない。これは良くないケースだ。
台湾をオランダから開放した鄭成功(父は海賊の王直、母は日本人)は、三代将軍家光の時に、日本に同盟、それが不可なら義勇軍の派遣を要請してきたが、江戸幕府ですら国内の浪人対策として真剣に考えた。豊臣政権では積極的に派兵したに違いない。ベトナム、タイ、カンボジア、フィリピン(ルソン)等にあった日本人街は飛躍的に発展しただろう。船は竜骨を用いた遠洋航海用の帆船となり、航海術も大いに進んだはずだ。江戸の和算(数学)は、独自に発展して、世界基準に達していた。
文化・芸術面に於いては、ワビ・サビ、伝統の職人芸という方向ではなく、国際色豊かなあけっぴろげな(底の浅い)明るい方向へ進んだんじゃないかな。中世ヨーロッパ社会に暗くのしかかったキリスト教の呪縛とは無縁だから、ルネッサンス(人間復興)は起きる要素に欠ける。刹那主義、快楽主義、金銭崇拝は進んだかもしれない。街は異人が行き来し、教会やモスクが建てられただろう。テクノロジーの進歩と貿易の恩恵によって、商人が力を持ち、女性が活躍する社会になっていたんじゃないかな。豊臣の関白とオスマン帝国のサルタンが手を結んで、アジアからヨーロッパ勢力を駆逐していたら、とか考えると楽しい。オスマン帝国は、ポルトガルと戦うマラッカのイスラム土侯国に援軍の艦隊を派遣しているから、日本とは早晩出会っていたはずだ。何しろ伊達政宗は支倉常長をメキシコ・アメリカ経由でローマに送っている。
世界は17世紀に入り、後は蒸気の活用、産業革命は日本が早いか英国が先か。アジアの諸国も銃や砲や船舶を、国産は出来なくとも欧州からだけではなく、日本から購入することが出来たなら、ああも簡単に植民地にならずとも済んだかもしれない。日本とアメリカは海洋資源をめぐって鯨戦争を起し、日本はハワイ王国と同盟を結んで、アメリカと戦った可能性がある。史実では、明治元年からハワイ移民が始まり、アメリカが強引にハワイ共和国を併合するのは20世紀になる3年前の1898年だが、日本は邦人保護を名目に1893年から巡洋艦〝金剛〟と〝浪速〟を数回に渡って派遣し、ハワイの王室から感謝されている。金剛の艦長は東郷平八郎だ。その時点でハワイの人口の45%は邦人だった。
さて戦略的観点から、南方への進出拠点として九州、琉球の重要性が増し、北方への拠点としては新潟、北海道・千島・樺太の開拓が進んだ。語学も達者な人が増え、市民といえる階級の人々が現れる。ちょん髷を止めて服装も機能的になり、自立心の高い男女が海外へ出てゆく。「長いものには巻かれろ。」「庄屋さんの言うことには逆らえねーだ。」の真逆の精神、フロンティアスピリットの持ち主たちだ。17世紀からの冒険と開拓の時代をアジアで体現するのは日本人だ。
なにしろ内輪もめをしている場合ではない。国内統一は進み、藩は発展的に解消し統一日本になる。歴史は繰り返すから、この時点で天皇が担ぎ出されたかもしれない。或いは豊臣政権か。事実は小説よりも奇なり、と言うけれどそれでは小説家は気の毒だ。あまりに有りそうも無い事を書いたって、誰も読んではくれないのだから。まあキリがないのでペンを置く。俺はよほど家康がきらいなんだな。

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