旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

夢屋のカステラ饅頭

2015年10月18日 19時09分50秒 | エッセイ
夢屋のカステラ饅頭

 二十代の中ごろ、熱海で饅頭屋をやった。一年ほどで止めサラリーマンに戻った。なんで饅頭?きっかけは入院中に知り合ったおじいさんと意気投合したことだ。入院は十二指腸潰瘍で、若い頃に2-3回やりその都度2週間位入院をした。二人部屋でおじいさんと一緒だったのは2日間ほどだったが、何しろ元気なじいさんで、寝る時以外ずっと話していた。症状の軽い内科の患者は(外科も骨折・脱臼とかはそうだが)点滴くらいしかすることが無い。
 そのおじいさん、面倒だからYと呼ぶことにする。Yの話しは面白かった。菓子職人で腕が良かったので、若いころ包丁一本晒しに巻いて全国を渡り歩いたそうだ。樺太へも行っている。大陸へは行かなかったようだ。Yは柔道の有段者でよく喧嘩をしたそうだ。自分と仕事をしていた時にも、公園で浮浪者を背負い投げで投げたので肩が痛いと言っていた。じいさんいくつなんだよ。Yは放浪時代と、店を構えてからの商人(あきんど)心得を有り余る時間を使って語ってくれた。
 こっちは若造で語れることなど、この間行ってきたタイ・カンボジア国境の井戸掘りくらいしか無い。一時間もあれば話し終わる。もっぱら聞き手に回ったが、Yのような人は聞くより話す方が得意で好きなんだな。Yの話しを聞いた時は凄い、これを書いたら小説になると思ったが、今考えればちょっとメリハリの無い話だ。
 退院してYの家にあいさつに行った。割と近所で2kmも離れていない。煎餅を作っていると聞いていたが、意外なほど小さい普通の二階建てで、家族で製造していた。製造の音はさほど大きくはない。でもこれ醤油煎餅ではなくて瓦煎餅だ。これも煎餅って言うんだ。原料が違うぜ。米粉ではなくて小麦粉だ。小売はしていなくて、全部店に卸していた。
 家族の人たちは意外に素っ気なかった。今思うとYは家族にとっては結構持て余し者だったんじゃないかな。Yは公園に行ってよく浮浪者を拾ってくると言っていた。風呂に入れて服を与えて店の仕事を手伝わせるそうだが、今までものになったのは1人半だと言っていた。その1人は若い人だったそうだ。半がどういう意味なのかは分からない。いきなり浮浪者を連れてきたらそりゃ迷惑だよね。
 さてここでYの商人心得を二つばかり紹介しようか。一つは役人に賄賂を贈る心得。Yが店を始める時、規定の条件を完全にはクリアしていなかったのね。そこでYは保健所の職員を接待して、女を呼び酒を飲ませた。職員諸君がいぎたなく酔いつぶれた頃合いを見て、壁に掛けてあった背広の内ポケットに金の入った封筒を入れて送り帰した。これなら受け渡しが直接では無いから、お互い気まずくならないし証拠も残らない。ただこの鼻薬が効きすぎて、職員の転勤で出入りがある度に御祝儀を出すことになり、そのうち結婚した、子供が生まれたと入れ替わり挨拶にきて悲鳴をあげたそうだ。
 もう一つは良い話だ。Yが菓子屋を廻ってセールスに歩いていた頃、どうしても首を縦に振らない親父がいたそうだ。うちは古くから問屋が決っているから浮気はしない、来ても無駄だよと言う。Yは意地になって毎日の納品の度、朝に夕に親父の店に立ち寄っては挨拶をしたそうだ。そんな風にして5-6ヶ月が過ぎた頃、親父に呼び止められ奥に通された。取引が許されたのだ。その後Yが取引先の不渡り手形をつかんだりして信用を落とし、銀行も手を引き大きな取引先を無くした時、親父の店だけはずっと購入を続けてくれたので、何年かかけて立ち直ることが出来たという。
 この時の教訓として、取引先を大きな所二つ位に絞るのは楽な商売だが、一つ失った場合の打撃が大きい。面倒でも小さな取引先を大事にして危険を分散しなければ、というものだった。後は簡単に入る事の出来た取引先は簡単に失う。直ぐに利で釣られる所は、新しい利によって簡単に離れて行く、ということ。
 Yは瓦煎餅について色々と説明してくれた後、「どうだい、俺が教えるから商売をやらないかい。」と自分を誘った。まあ自分も大学を出て最初に入った宝石のセールスの会社を休職中で、その間タイ・カンボジア国境で井戸掘り、帰ってきて疲れからか入院。もうセールスの会社に戻る気は半分無くしていた。良い機会だ。親父に相談したら意外にも乗り気になり、金を出してくれた。軽のバン、熱海の事務所(製造所)の借り代、饅頭の機械代と包装紙・容器等の雑費だ。自分は熱海に住みYは、この人何歳?70は超えているよな、80を超えていた。Yはバイクで横浜から熱海へやってきた。
 話しを少し戻す。饅頭製造の機械は神戸の町工場で製作した。ここいら辺の手配は全てYの指示で動き、一緒に神戸に行った。一か月もすると自宅に工場から宅配便が届いた。開けてみると何やら金色の金属が入っている。どうりで重いわけだ。これは饅頭の金型だそうで、確認して送り返してくれという事が書いてあった。見たって良いのか分からない。Yに相談しようと思ったが、熱海から帰ったばかりで疲れていたし、直ぐにまた戻らなければならない。いいや面倒くさいと送り返した。これが商売の敗因となるとは、その時は想像すらしていなかった。
 後で機械が熱海に着き、試作を始める時になって何だこの金型は、こんなのっぺりした形じゃあ駄目だ、となった。その金型では蒸し饅頭のような、鏡餅のような平べったい形になるが、Yのイメージはもっと小粒でピリリ、立体的なものだった。知らんよそんなの、こちとら素人だ。メーカーに言っても一度金型を承認しているのでゆずらない。するとYは金型をバイクに乗せてどこぞに消えた。一週間ほどすると、どこかで金型を作り変えて現れた。こういうところは実に素早い。ところが今度は機械がいうことを聞かない。鏡もちの金型に合わせた設定になっているので、スマートな立ち饅頭では火が完全に回りきらず、焼き残しが出来るのだ。ここから試行錯誤が始まった。
 機械のスピードを緩めたり火力を調整したり、この試作で使用したアンコと生地の量は半端じゃあない。アンコは大豆を大なべで煮て砂糖をこれでもか、これでもかと入れる。ウワーこりゃ砂糖を食っているようなものだな。大なべに火が通ると溶岩のようにブクブクと煮立ってくる。生地は小麦粉と大量の卵を割りいれる。要はカステラの生地だな。水あめも入れたな。卵は業者から箱(50個か100個入り)で仕入れたが、ある時割った卵全ての黄身が双子で気持ち悪かった。排卵促進剤でも使っているんだろう。あの頃は片手でパカパカ卵を割れたのに、今はたまに割ると殻が混じる。
 さて試行錯誤の一週間が過ぎ、製品がやっと完成した。夢屋の屋号は自分が考え、カステラ饅頭はYの命名だった。完成はしたが犠牲は大きかった。機械の回転を落とし、自動で入れる生地とアンの投入を人力で行うようにした。縦長のじょうごのような布を二つ取り付け、それぞれに生地とアンを入れ、金型が回ってきたら布を手で押して絞り出し投入する。この機械を動かしている間中、人が一人つきっきりになるのと、回転速度が約半分になったことは、後で致命的な痛手となる。
 パッケージは市販の容器を買い入れ、6ヶ入りの上代を500円に設定した。利益率は高い。包装紙はYが何やら都都逸みたいな文句を考えだし、稚拙な絵を入れた。夢屋のカステラ饅頭、実用新案申請中と入れる芸の細かさ、印刷屋に注文した。結果的にはこの包装紙、大半は廃棄したよ。後から考えると印刷したシールで済ませた方が、安上がりで見た目も良かった。実用新案は饅頭の横に♨を入れるというもので、当然二年後に申請は却下されたが、申請中は嘘じゃあない。まあ最初からここまでやる必要も無かったね。
 果たしてセールスはうまくいくだろうか。結果から言えば何の問題もなかった。街の土産物屋は保存期間の問題があるので後回しにして、ホテル・旅館を廻ると大抵直ぐに置いてくれた。驚くほど簡単だった。あとちょい足を延ばして宇佐美辺りの釣り宿を廻ると、大口ではないが喜んで受けてくれた。よく釣り客に何かお土産のような物は無い?と聞かれていたそうだ。だけど5個10個といった小口の注文が入ると中々対応が難しかった。またあちこちに置き始めると問題が起きた。カビが発生したんだ。賞味期限は翌々日にしていたが、そうそう直ぐには売りきれない。受注生産だけだから売れ残ったら処分して、とも言い切れない。一週間経つとカビが生える。これにはエージレスを買い入れてビニール袋で密封する方法で対処したが、Yが探してきたビニールを圧着する道具が曲者で、熱すぎてビニールが溶けたり、熱が足りなくて密封が不完全だったり、いつも不安定で調整に泣かされた。ただいくつもやり続けると安定してくる。だから一日中使っているような時には大丈夫だ。また袋を閉じる時に、どうしても空気が入って膨らんでしまう点も問題が残った。
 それにこんなエージレス一個でどこまで効果があるのか不安だ。作り溜めが出来れば本当に楽なんだが。観光バスに直接売り込みに行こうかな、と考えているとバスの多くがMOA美術館に行くことが分かった。MOA美術館、宗教法人が経営する大きな美術館だ。館員も売店の売り子さんも信者の人達だ。ここにセールスに行ったが、これが大当たりだった。ここは単なる美術館(相当に質の高い収蔵品を持っている。)ではなく宗教法人の本部で、若い信者の人達が大勢寮生活をしている。またこの法人は全国で無農薬の農場を運営している。ここの若い担当者と意気投合し(後で信者にならないかと勧誘されたが)、早速納入の手続きに入った。一つ条件があり、教団の農場で収穫した小豆と小麦粉を購入して使うことになった。別段値段は高くはないが、アンの色が少々茶色っぽくなった。味に問題はない。一般に卸す饅頭もこれにすることにした。
 美術館の土産物売り場を見ると、相当に広い。高い天井、陽光が壁一面のガラスを通して燦々と降り注ぐ。まるで一流ホテルの売店だ。また随分若い人たちが働いていて商品(菓子類が多い。)は山と陳列されている。が、客足はまばらだ。こりゃ余り期待は出来ないな、とその時は思った。担当者の話だと、毎月2回3日続きの宗教の方の催事があるので、その時に合わせて納入して欲しい、ということだった。
 最初の納入日、朝一番に納入して驚いた。広い駐車場に全国の、四国や北海道のナンバープレートを付けた大型バスが何十台も百台も、それ以上も続々と入って来るじゃあないか。朝納入した分が午前中に売り切れ、途切れなく作り続けるが需要に追い付かない。納入に行く度に夢屋のカステラ饅頭のコーナーは品切れで、試食に使った空容器が散乱している。実家から応援を頼み、その晩は半徹夜で作り続けたが、2日目も午後には完売。3日目はペースが落ちて売り切れの時間帯が一日の半分以上だった。
 次の催事、2日前から作り始め、事務所の中に完成品の段ボール箱を山と積み上げたが、それも初日に売り切れた。こうなると機械のスピードダウンが実に痛い。当初の設定の速さで動いていたらなー。手搾りでなくて、自動供給だったなら時々生地とアンを投入するだけで良いのに。確かに売り上げは上がったがそれも月に6日間、製品の保存期間を確実にするには設備投資が必要だ。これ以上金はかけられない。現在の収支では多少の黒字で金は中々貯まらない。Yの家の瓦煎餅を仕入れ、MOAの焼印を押してもらったら、これは日持ちするから売れ行きは少なくても第二製品になる、と考えたがYの実家がOKしない。
 Yは一応軌道に乗るとすっかり姿を現さなくなった。実はバイクで事故を起こし、家族からバイクを取り上げられたようだ。Yにはこの日まで必要経費だけで、顧問料を払った訳ではない。黒字が出たらと思っていたが、これでは初期投資をいつになったら回収出来るのやら。金型の件が無ければ、一度位嫌味を言っちゃったかも。
 さてここで熱海の町について書こうかな。一言でいうと寂れている。この町は駅から海に向かって斜面に旅館、ホテルと商店が立ち並ぶ。だがくしの歯が欠けるように潰れた宿泊施設が、ポツポツと営業中のものに挟まれてその残骸を晒している。一度山の上の方で道に迷ってしまったら、廃墟に出くわした。確か恐竜を象ったと思われる大きなFRP(強化プラスチック)の像がたくさん、立ったり倒れたりしていた。塀は崩れ、テーマパークもどきのなれの果てで誰ひとりいなかった。そこには不思議なことに二度と行きつけなかった。
 町には映画館とディスコが一軒づつあったが、寂れていて映画館には数人しか客がいなくて、モギリのおばさんがいない。勝手に見ていたら肩を叩かれて徴収された。パチンコ屋はひと夜限りの客を相手に玉を出す訳もない。乞食には住みよい町のようだ。どうやってかは知らないが、電線から電気を取っていて仮設小屋を建て(資材は廃屋が一杯ある。)、その中で拾ったTVを見、旅館から出る余り物で優雅に暮らしている。俺よりいい暮らしじゃないか。とは言ってもこの町にも住人はいる。八百半デパートというスーパーに毛の生えたような建物が、町の中腹にある。そこの一階の回転寿司はネタが新鮮でまあまあ安い。あと水道水が実にうまい。富士山の伏流水なんだろう。そのためか町の豆腐屋の作る豆腐がうまい。
 また風呂がよい。町には銭湯が数軒あって、代わる代わるに行った。一回4-5百円だ。塩分があって湯船が深く立って入る銭湯があった。子供は溺れるね。が一番気にいったのは、港近くの洞窟風呂だ。昔金を掘った跡だとかの横穴に湯を入れている。穴は10m以上続いていて先は行き止まりだ。人がすれ違える程度の広さの穴で、電球が洞窟内を照らしている。その穴風呂自体を古い建物が取りこんでいる。だいたいいつ行っても貸切かそれに近かった。建物は改築、増築をくり返してきたのだろう。複雑な構造の、営業しているんだか上は空き家なんだか分からない迷宮と化している。損保の友人がこの建物を見て、「こりゃ火災保険の計算が大変だ。」と言っていた。十年以上たって行ってみたらもう無くなっていたから、探さないように。
 仕事の無い日や夕方は、港や海岸のテトラポットで釣りをした。簡単な投げ釣りで黒鯛の赤ちゃんクラスやキスや20cmくらいのカレイが釣れた。夜はTVも無かったが、遅くによく間違い電話が掛ってきた。スナック『夢屋』という店があるらしい。探したがどこなのか見つからなかった。
 さてこの饅頭屋、準備期間を入れて8ヶ月くらい続けたかな。パートの女性も入れたが、なにせMOA美術館月二回の催事が中心なので、月に8日間くらいしか仕事がない。家族、親戚、友人に手伝ってもらっていたが、なにせ通うには熱海は横浜から遠い。スポンサーの親父が疲れちゃったんだろう。辞めようという事になった。辞めてから一年後位に宗教法人の内紛があって、MOA美術館は結構長い年月休館をしていたから、良いタイミングだったのかもしれない。
 最後に悩みの種だった機械を神戸に運び、買値の1/3位で引き取ってもらい、軽トラを売って終わった。自分は就職して貿易会社でサラリーマンを始めた。あのね、この話別段いやな思い出ではないのだけれど、書いていても楽しくはなかったな。Yじいさんとはその後公園で出会った。こっちは結婚してカミさんと子供と一緒だったので、あまり話しはしなかった。あの後Yは饅頭の機械を作るんだとスポンサー探しをしたらしいが、容易に想像出来る通りうまくはいかなかったようだ。何かしていないと駄目な性分なんだな。ずっと後になって、風の便りで亡くなったと聞いた。合掌。