太平天国
ジョン・ウェインが活躍する、古き良き時代の西部劇もよいが、ほとんどの作品は見尽くした。新しい嗜好のウェスタンが面白い。『明日に向かって撃て』から始まって、『ダンス・ウィズ・ウルブス』『コールドマウンテン』『パトリオット』(これは西部じゃないか)。
最近見たTV映画『ブロークン・トレイル』は抜群に面白かった。最初に中国人の娘達が登場する。題名だけでは何の映画か分からず、カンフー映画かと思った。アメリカに売られてきた5人の中国娘を、女衒が馬車で買主のいる西部に運ぶ。冴えない中年カウボーイが、伯父の老人の勧めにより軍馬500頭の輸送を請け負う。その両者が荒野で出会って、一緒に旅をすることになる。言葉が通じないので、娘達とカウボーイ達の間で誤解と疑心が生じるが、苦難の旅を続ける間に心の交流が生まれる。そこにまた新たな登場人物が加わり物語は展開する。
ネタばれになるから、これ以上は書かない。でも一つだけ。インディアン(ネイティブアメリカン)が現れ、通行料として馬2頭を要求するが------ 交渉が成立して別れる時、インディアンが呟く。「何で、醜い白人があんな美人を連れているんだ?」西部劇には中国人が実によく登場する。ジョン・ウェインと中国人の親父、鉄道建設と言えば中国人労働者。実際19世紀末~20世紀初頭にかけて、アメリカに渡った中国人は10万人以上になる。彼らは苦力(クーリー)と呼ばれ、黒人奴隷の代替として大陸横断鉄道の建設、カリフォルニアの金鉱開発に使役された。
アメリカの産業革命を底辺で支えた彼らの一部は、そのままアメリカに残り南洋華僑として定住した。苦力たちは当初インド人が多かったが、アヘン戦争後は多くの中国人がアメリカやヨーロッパ諸国の多くの植民地に渡った。その数は、太平天国の乱で一層増えた。移民や出稼ぎは、客家や東南部の沿海地方の住人が多い。アメリカに渡った多くの苦力の中には、太平天国の残党も数多くいたようだ。
太平天国の乱が始まるのは1851年、日本では嘉永4年だから黒船来航の2年前だ。この乱は10年続き、死者数は3,000万人とけた外れに多い。太平天国はキリスト教を自称していて、それまでの農民反乱とは一風変わっている。
秦末の「陳勝・呉広の乱」、漢代の「赤眉の乱」と後漢末の「黄巾の乱(太平道)」。唐代の「安史の乱」は農民反乱とは言えないが、唐末には「黄巣の乱」が起きた。そして元末に起きるのが「紅巾の乱(白蓮教徒の乱)」。明を興こした朱元璋自身が、紅巾軍の指導者の一人であったが、政権を取ってからは白蓮教を弾圧する。民衆パワーの怖ろしさを身を持って知っていたのだ。明末には「李自成の乱」、そして清代、康熙・雍正・乾隆の黄金期の治世の直後に「白蓮教徒の乱」が起き、アヘン戦争後に「太平天国の乱」、清末には「義和団」。
直近は1989年の天安門事件か。チベットやウイグル族の反乱は、漢族の支配に対する民族独立運動だから民衆蜂起、農民反乱とは一線を画す。なお「義和団」は反政府ではない。時の権力者、西太后が義和団と手を結び、列強帝国主義に宣戦布告をしたのだ。義和団に包囲された北京の外国人と中国人キリスト教徒の救出に向かう諸国の中で、最も多くの兵力を出したのは日本とロシアであった。清朝最後の抵抗運動、義和団はこうして日本の歴史と結びつく。
徳川の江戸幕府政権は260年続いたが、中国の大帝国でも300年保ったものはない。平和が確立すると、荒野の開拓や治水事業により収穫量が飛躍的に増えて人口が増す。鉄器の使用等の技術革新が生まれる。ところが農民は子供に均等相続をするから、代を重ねるごとに農地が細分化されて、やがては貧農の大群と化す。皇帝は外戚と宦官に交互に食いものにされ、官僚・役人が腐敗して賄賂が横行し重税が課すから民衆が困窮する。飢えた農民は土地を捨てて流民となる。または食い詰めた農民が蜂起する。中国の流民の数と移動距離は凄まじい。帝国を虎視眈々と狙う北方の騎馬民族が侵入する。繰り返しだな。どこかで断ち切れないものか。
中国の反乱は、大てい秘密結社が中心となり道教系が主流だ。そのコアには武術の団体がいることが多い。義和団が正にそうである。白蓮教は南宋の時代に遡る宗教結社で、弥勒下生を願う仏教色の濃い集団だ。終末思想を中心に置き、明教(マニ教)や民間宗教の影響を受けている。明という国名が明教から来ている。白蓮教は、明でも清でも邪教として弾圧されてきたが1796年に蜂起した。
白蓮教徒の乱は鎮圧まで8年を要し、国庫を空にする巨大な経費を費やした。清朝正規軍の八旗・緑営は、長い平和によって堕落して役に立たず、郷勇と呼ばれる義勇軍と、団練と呼ばれる自衛武装集団によって反乱は鎮圧された。また乱後清朝は増税を行い、朝廷では宰相が権力を乱用して蓄財し、官吏は民の金銭を収奪した。帝国主義の狼群が迫っているのに、帝国は急激に衰退し始めた。反乱の規模と被害は限定的だったが、清朝の威信は失墜し、郷勇から誕生した湘軍・准軍が勢力を拡大した。その頭領が曽国藩・李鴻章らである。
ここらで一服;戦争での死者数Top10を発表しよう。下から行くね。
10. ヤコブ・ベクの乱 : 800万人 清末(1862-1877)東トルキスタンのムスリム蜂起。
9. ロシア内戦 : 900万人 1917-1922年
8. ティムールの征服戦争 : 1,500万人 1369-1405年
7. 第一次世界大戦 : 1,700万人
6. 日中戦争 : 2,000万人 それは凄い数だ。第一次大戦よりも多い。ほとんどは中国人の民衆だ。
5. 明王朝の滅亡 : 2,500万人 女真族(清)の侵攻よりも、李自成の乱による被害の方が大きい。
4. 太平天国の乱 : 3,000万人
3. 安史の乱 : 3,300万人 この反乱での皇帝の逃避行の中で、傾国の美女、楊貴妃は恨みにより同行者に殺される。
2. モンゴル帝国の侵略 : 5,000万人、時代を考えると凄い死者数だこと。未だに死に絶え、復活しない都市がある。
1. 第二次世界大戦 : 6,000万人 この内の半数はロシアの民衆だ。
世界人口は時代が遡れば遡るほど少ない。現在の1/5、1/10なのだからその被害の度合いは凄まじい。
ついでにバンデミック、疫病の大流行による死者はと言うと、
・紀元541年:東ローマ帝国、ペストの流行。30万人以上。
・1346-1350年:黒死病(ペスト)ヨーロッパの全人口の1/4~1/3にあたる2,500万人。
・15世紀 アメリカ大陸:主に天然痘、50年で人口が8,000万人から1,000万人に減少。免疫が無いケースでの被害は凄まじい。
・1918~1919年、スペイン風邪(インフルエンザ)、世界人口の3割が感染し少なく見て4,000万人、5,000万~1億人が死んだ。
第一次大戦の死者1,700万人の内1/3はスペイン風邪で死んだ。日本でも39万~48万人が死去した。
では本題に戻るか。太平天国の乱の始まり始まり。
太平天国の乱を起こした洪秀全は、広東省出身の客家人で科挙の試験に挑み三度落第、ショックの余り熱病になって寝込んだ。その病床で不思議な夢を見る。夢の中で、ヤハウェと思われる老人から破邪の剣を与えられ、イエスらしい男から妖を斬る手助けを受けたという。6年後の試験にも落第した洪秀全は、旅先でプロテスタントの勧誘パンフレットを入手し、儒教を捨てキリスト教に改宗する。そのパンフレット『勧世良言』ではゴッド(God)に「上帝」という訳語を充てていた。漢字にはすべからく意味がある。これでは根本的な所で誤解を生じる。ちなみに奇書『聊斎志異』を書いた蒲松齢も、万年科挙落第生だった。
洪は自らの解釈によるキリスト教の教義として、拝上帝教を説き始める。拝上帝教は入信すれば男女を問わず平等、男同士は兄弟、女同士は姉妹、ヤハウェは天父、キリストは天兄、洪秀全はキリストの弟つまりはヤハウェの次子で、人間界に至って神の意思を実行する者とした。洪秀全は教会で学習し洗礼を求めたが、教会は認識が不十分だとして洗礼を拒絶した。
洪秀全は起義を宣言して清朝に反旗を翻し、天主を称して太平天国を建国した。その洪秀全は、洪家拳の後継者であったそうだ。太平軍は広西から湖南へ進出し南京を占拠、天京と称して太平天国の首都とした。
太平天国の主張は「滅満興漢」、平等社会の実現を目指し、アヘンの吸引を禁止し、辮髪を切り纏足を止めることを奨励した。清朝側は、辮髪を切り断髪にしたことから彼らを長髪族、反乱を長髪族の乱と呼んだ。アロー号戦争で列強と交戦中の清朝正規軍は、後方の反乱に割く兵力が限定され、一方の太平軍は大衆を吸収して膨れ上がり、清軍を圧倒した。
洪秀全は幹部に王の称号を与えて軍事を任せ、その発言力はしだいに低下して行く。太平天国軍膨張の背景には、清朝による増税があった。清朝は戦争に於ける戦費調達と敗戦後の損害賠償を支払うために、法令の何倍もの税を徴収した。またアヘン戦争後横行した多くの匪族と失業者を太平天国が吸収した。当初の太平軍は士気が高く、軍律が厳しくてモラルが高かった。
太平軍有利の中、選択肢は太平天国側にあったが、彼らは最も不味い選択をしてしまった。南京(天京)防衛に最大兵力を割きつつ、北京を狙う少数精鋭の北伐軍を派遣し、さらに同時に西方へも軍を派遣した。中途半端なあれもこれも作戦だ。北伐軍は北京に直行せず迂回路を採り、天津を攻めるが陥とせず、転進中にモンゴル人の将軍率いる清軍の猛攻を受けて全滅。征西軍も曽国藩の湘軍に大敗、その後盛り返して清軍を壊滅して戦線を膠着させるに留まった。
太平天国は、理念が先駆的で面白い。天朝田畝制度は、田畝があれば誰でもそこで耕し、収穫物は皆で分け合い豊かな衣食を手に入れるという、マルクス主義のような制度だが、実際には施行されなかった。纏足と売春を禁じ、女性の科挙参加を実施したが、女性合格者が重用されることは無かった。また決起直後には、男女は夫婦といえども別々の集団に分けられたが、天主以下首脳部は例外とされた。
洪秀全以下幹部の五王は、南京城内に壮麗な宮殿を築き多数の妻女を囲った。洪は宮殿の奥深くに鎮座し、民衆の前から遠ざかった。西欧列強(英米仏)は、キリスト教を自称する太平天国に使節団を送ったが話しは噛みあわず、列強は中立を採った。やがて実務を担う楊秀清が洪秀全をないがしろにし始めた。表面上楊秀清に恭順していた洪は、同じく圧迫されていた幹部の王を唆し、楊一族と配下の兵・家族4万人を虐殺する。その後も内紛が続いて太平天国は弱体化した。
清朝は機を逃さず、曽国藩ら湘軍は長江上流から攻め天京を包囲する。すると洪秀全は、若い武将を抜擢して反転攻勢に出る。安徽省の戦いで太平軍は大勝し息を吹き返す。そこへ洪一族の若者が天京に到着した。彼は香港のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたので、西欧文化をよく理解していた。洪秀全の信頼のもと、彼は鉄道・汽船といった交通網の整備、鉱山の開発、新聞の発行や福祉の充実、科挙の改革を提言した。また西欧との通商関係、宣教師の活動の自由も主張した。明治維新の8年前のことだ。
そうした改革提言は、洪秀全の他には理解する者はなく、実を結ばなかった。新指導部の若い将軍たちに王位が与えられ、やがて士気を鼓舞するために王位が乱発された。そのために2千人もの王が誕生した。若い将軍(王)は改革を唱える若者と対立し、戦場では上海を独断で攻撃した将軍が出たが敗退した。租界の多い上海を攻撃したことで、欧米を敵に廻した。別の将軍は、仲間の救援を得られずに戦場で孤立して戦死した。
曽国藩に習って軍を結成した李鴻章の准軍は、乱が収束しても解散せずやがて北洋軍閥になる。太平天国の規律はすっかり弛緩した。食の確保に追われて略奪と強引な徴収に走った。投降した清朝兵士を大量に編入したことによって、兵の質がさらに低下した。上海の官僚と商人が資金を出して、列強による傭兵部隊が編成された。太平軍は、西洋式の銃・火砲を備えた傭兵部隊に勝てなかった。
天京は孤立し、食糧は尽きた。雑草を「甜露」と呼んで食べるまでになったが、洪秀全は撤退を受け入れなかった。防衛兵は暴徒と化し、洪秀全は栄養失調によって死んだ。最期の言葉は「私は天国に昇り、天父天兄から兵を借りて戻り、天京を守る」であった。天京が陥落すると、老人や子供を含めて20万人が虐殺された。洪秀全の墓は暴かれ、遺体は晒された。生き残りの諸王は各地で散発的な抵抗を行ったが、1870年代には全て鎮圧された。
太平天国のことは、日本では当初は明朝の後裔が起こした再興運動のように伝わり好意的に捉えられた。「滅満興漢」のスローガンと、辮髪を落としたことが強調されたのだ。しかし情報が増すと、洪秀全が明朝とは関係が無く、島原の乱を想起させるキリスト教を信仰していることから嫌悪されるようになる。幕府は1859年にイギリス領事に要請され、英仏両軍に1千頭ずつの軍馬を売却している。雑穀や油も輸出した。これは戦争特需だ。
薩摩藩の五代友厚と長州藩の高杉晋作は、清朝の情報収集を兼ねて交易のために上海に渡航した。同行した藩士の日記では、太平天国の乱を否定的に見ている。しかし清国の現状を知り、海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議は、急速に高まった。
そして中国では、孫文が太平天国に傾斜したこともあり、辛亥革命前後から評価が持ち直した。欧米列強が、開国したばかりの混乱期の日本に対して、直接軍事介入を行うことなく、植民地化し損ねたのは、太平天国の乱と同様な民衆反乱が起こる事を危惧したからだと唱える人々がいる。さて、これはどうだろうか。
ジョン・ウェインが活躍する、古き良き時代の西部劇もよいが、ほとんどの作品は見尽くした。新しい嗜好のウェスタンが面白い。『明日に向かって撃て』から始まって、『ダンス・ウィズ・ウルブス』『コールドマウンテン』『パトリオット』(これは西部じゃないか)。
最近見たTV映画『ブロークン・トレイル』は抜群に面白かった。最初に中国人の娘達が登場する。題名だけでは何の映画か分からず、カンフー映画かと思った。アメリカに売られてきた5人の中国娘を、女衒が馬車で買主のいる西部に運ぶ。冴えない中年カウボーイが、伯父の老人の勧めにより軍馬500頭の輸送を請け負う。その両者が荒野で出会って、一緒に旅をすることになる。言葉が通じないので、娘達とカウボーイ達の間で誤解と疑心が生じるが、苦難の旅を続ける間に心の交流が生まれる。そこにまた新たな登場人物が加わり物語は展開する。
ネタばれになるから、これ以上は書かない。でも一つだけ。インディアン(ネイティブアメリカン)が現れ、通行料として馬2頭を要求するが------ 交渉が成立して別れる時、インディアンが呟く。「何で、醜い白人があんな美人を連れているんだ?」西部劇には中国人が実によく登場する。ジョン・ウェインと中国人の親父、鉄道建設と言えば中国人労働者。実際19世紀末~20世紀初頭にかけて、アメリカに渡った中国人は10万人以上になる。彼らは苦力(クーリー)と呼ばれ、黒人奴隷の代替として大陸横断鉄道の建設、カリフォルニアの金鉱開発に使役された。
アメリカの産業革命を底辺で支えた彼らの一部は、そのままアメリカに残り南洋華僑として定住した。苦力たちは当初インド人が多かったが、アヘン戦争後は多くの中国人がアメリカやヨーロッパ諸国の多くの植民地に渡った。その数は、太平天国の乱で一層増えた。移民や出稼ぎは、客家や東南部の沿海地方の住人が多い。アメリカに渡った多くの苦力の中には、太平天国の残党も数多くいたようだ。
太平天国の乱が始まるのは1851年、日本では嘉永4年だから黒船来航の2年前だ。この乱は10年続き、死者数は3,000万人とけた外れに多い。太平天国はキリスト教を自称していて、それまでの農民反乱とは一風変わっている。
秦末の「陳勝・呉広の乱」、漢代の「赤眉の乱」と後漢末の「黄巾の乱(太平道)」。唐代の「安史の乱」は農民反乱とは言えないが、唐末には「黄巣の乱」が起きた。そして元末に起きるのが「紅巾の乱(白蓮教徒の乱)」。明を興こした朱元璋自身が、紅巾軍の指導者の一人であったが、政権を取ってからは白蓮教を弾圧する。民衆パワーの怖ろしさを身を持って知っていたのだ。明末には「李自成の乱」、そして清代、康熙・雍正・乾隆の黄金期の治世の直後に「白蓮教徒の乱」が起き、アヘン戦争後に「太平天国の乱」、清末には「義和団」。
直近は1989年の天安門事件か。チベットやウイグル族の反乱は、漢族の支配に対する民族独立運動だから民衆蜂起、農民反乱とは一線を画す。なお「義和団」は反政府ではない。時の権力者、西太后が義和団と手を結び、列強帝国主義に宣戦布告をしたのだ。義和団に包囲された北京の外国人と中国人キリスト教徒の救出に向かう諸国の中で、最も多くの兵力を出したのは日本とロシアであった。清朝最後の抵抗運動、義和団はこうして日本の歴史と結びつく。
徳川の江戸幕府政権は260年続いたが、中国の大帝国でも300年保ったものはない。平和が確立すると、荒野の開拓や治水事業により収穫量が飛躍的に増えて人口が増す。鉄器の使用等の技術革新が生まれる。ところが農民は子供に均等相続をするから、代を重ねるごとに農地が細分化されて、やがては貧農の大群と化す。皇帝は外戚と宦官に交互に食いものにされ、官僚・役人が腐敗して賄賂が横行し重税が課すから民衆が困窮する。飢えた農民は土地を捨てて流民となる。または食い詰めた農民が蜂起する。中国の流民の数と移動距離は凄まじい。帝国を虎視眈々と狙う北方の騎馬民族が侵入する。繰り返しだな。どこかで断ち切れないものか。
中国の反乱は、大てい秘密結社が中心となり道教系が主流だ。そのコアには武術の団体がいることが多い。義和団が正にそうである。白蓮教は南宋の時代に遡る宗教結社で、弥勒下生を願う仏教色の濃い集団だ。終末思想を中心に置き、明教(マニ教)や民間宗教の影響を受けている。明という国名が明教から来ている。白蓮教は、明でも清でも邪教として弾圧されてきたが1796年に蜂起した。
白蓮教徒の乱は鎮圧まで8年を要し、国庫を空にする巨大な経費を費やした。清朝正規軍の八旗・緑営は、長い平和によって堕落して役に立たず、郷勇と呼ばれる義勇軍と、団練と呼ばれる自衛武装集団によって反乱は鎮圧された。また乱後清朝は増税を行い、朝廷では宰相が権力を乱用して蓄財し、官吏は民の金銭を収奪した。帝国主義の狼群が迫っているのに、帝国は急激に衰退し始めた。反乱の規模と被害は限定的だったが、清朝の威信は失墜し、郷勇から誕生した湘軍・准軍が勢力を拡大した。その頭領が曽国藩・李鴻章らである。
ここらで一服;戦争での死者数Top10を発表しよう。下から行くね。
10. ヤコブ・ベクの乱 : 800万人 清末(1862-1877)東トルキスタンのムスリム蜂起。
9. ロシア内戦 : 900万人 1917-1922年
8. ティムールの征服戦争 : 1,500万人 1369-1405年
7. 第一次世界大戦 : 1,700万人
6. 日中戦争 : 2,000万人 それは凄い数だ。第一次大戦よりも多い。ほとんどは中国人の民衆だ。
5. 明王朝の滅亡 : 2,500万人 女真族(清)の侵攻よりも、李自成の乱による被害の方が大きい。
4. 太平天国の乱 : 3,000万人
3. 安史の乱 : 3,300万人 この反乱での皇帝の逃避行の中で、傾国の美女、楊貴妃は恨みにより同行者に殺される。
2. モンゴル帝国の侵略 : 5,000万人、時代を考えると凄い死者数だこと。未だに死に絶え、復活しない都市がある。
1. 第二次世界大戦 : 6,000万人 この内の半数はロシアの民衆だ。
世界人口は時代が遡れば遡るほど少ない。現在の1/5、1/10なのだからその被害の度合いは凄まじい。
ついでにバンデミック、疫病の大流行による死者はと言うと、
・紀元541年:東ローマ帝国、ペストの流行。30万人以上。
・1346-1350年:黒死病(ペスト)ヨーロッパの全人口の1/4~1/3にあたる2,500万人。
・15世紀 アメリカ大陸:主に天然痘、50年で人口が8,000万人から1,000万人に減少。免疫が無いケースでの被害は凄まじい。
・1918~1919年、スペイン風邪(インフルエンザ)、世界人口の3割が感染し少なく見て4,000万人、5,000万~1億人が死んだ。
第一次大戦の死者1,700万人の内1/3はスペイン風邪で死んだ。日本でも39万~48万人が死去した。
では本題に戻るか。太平天国の乱の始まり始まり。
太平天国の乱を起こした洪秀全は、広東省出身の客家人で科挙の試験に挑み三度落第、ショックの余り熱病になって寝込んだ。その病床で不思議な夢を見る。夢の中で、ヤハウェと思われる老人から破邪の剣を与えられ、イエスらしい男から妖を斬る手助けを受けたという。6年後の試験にも落第した洪秀全は、旅先でプロテスタントの勧誘パンフレットを入手し、儒教を捨てキリスト教に改宗する。そのパンフレット『勧世良言』ではゴッド(God)に「上帝」という訳語を充てていた。漢字にはすべからく意味がある。これでは根本的な所で誤解を生じる。ちなみに奇書『聊斎志異』を書いた蒲松齢も、万年科挙落第生だった。
洪は自らの解釈によるキリスト教の教義として、拝上帝教を説き始める。拝上帝教は入信すれば男女を問わず平等、男同士は兄弟、女同士は姉妹、ヤハウェは天父、キリストは天兄、洪秀全はキリストの弟つまりはヤハウェの次子で、人間界に至って神の意思を実行する者とした。洪秀全は教会で学習し洗礼を求めたが、教会は認識が不十分だとして洗礼を拒絶した。
洪秀全は起義を宣言して清朝に反旗を翻し、天主を称して太平天国を建国した。その洪秀全は、洪家拳の後継者であったそうだ。太平軍は広西から湖南へ進出し南京を占拠、天京と称して太平天国の首都とした。
太平天国の主張は「滅満興漢」、平等社会の実現を目指し、アヘンの吸引を禁止し、辮髪を切り纏足を止めることを奨励した。清朝側は、辮髪を切り断髪にしたことから彼らを長髪族、反乱を長髪族の乱と呼んだ。アロー号戦争で列強と交戦中の清朝正規軍は、後方の反乱に割く兵力が限定され、一方の太平軍は大衆を吸収して膨れ上がり、清軍を圧倒した。
洪秀全は幹部に王の称号を与えて軍事を任せ、その発言力はしだいに低下して行く。太平天国軍膨張の背景には、清朝による増税があった。清朝は戦争に於ける戦費調達と敗戦後の損害賠償を支払うために、法令の何倍もの税を徴収した。またアヘン戦争後横行した多くの匪族と失業者を太平天国が吸収した。当初の太平軍は士気が高く、軍律が厳しくてモラルが高かった。
太平軍有利の中、選択肢は太平天国側にあったが、彼らは最も不味い選択をしてしまった。南京(天京)防衛に最大兵力を割きつつ、北京を狙う少数精鋭の北伐軍を派遣し、さらに同時に西方へも軍を派遣した。中途半端なあれもこれも作戦だ。北伐軍は北京に直行せず迂回路を採り、天津を攻めるが陥とせず、転進中にモンゴル人の将軍率いる清軍の猛攻を受けて全滅。征西軍も曽国藩の湘軍に大敗、その後盛り返して清軍を壊滅して戦線を膠着させるに留まった。
太平天国は、理念が先駆的で面白い。天朝田畝制度は、田畝があれば誰でもそこで耕し、収穫物は皆で分け合い豊かな衣食を手に入れるという、マルクス主義のような制度だが、実際には施行されなかった。纏足と売春を禁じ、女性の科挙参加を実施したが、女性合格者が重用されることは無かった。また決起直後には、男女は夫婦といえども別々の集団に分けられたが、天主以下首脳部は例外とされた。
洪秀全以下幹部の五王は、南京城内に壮麗な宮殿を築き多数の妻女を囲った。洪は宮殿の奥深くに鎮座し、民衆の前から遠ざかった。西欧列強(英米仏)は、キリスト教を自称する太平天国に使節団を送ったが話しは噛みあわず、列強は中立を採った。やがて実務を担う楊秀清が洪秀全をないがしろにし始めた。表面上楊秀清に恭順していた洪は、同じく圧迫されていた幹部の王を唆し、楊一族と配下の兵・家族4万人を虐殺する。その後も内紛が続いて太平天国は弱体化した。
清朝は機を逃さず、曽国藩ら湘軍は長江上流から攻め天京を包囲する。すると洪秀全は、若い武将を抜擢して反転攻勢に出る。安徽省の戦いで太平軍は大勝し息を吹き返す。そこへ洪一族の若者が天京に到着した。彼は香港のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたので、西欧文化をよく理解していた。洪秀全の信頼のもと、彼は鉄道・汽船といった交通網の整備、鉱山の開発、新聞の発行や福祉の充実、科挙の改革を提言した。また西欧との通商関係、宣教師の活動の自由も主張した。明治維新の8年前のことだ。
そうした改革提言は、洪秀全の他には理解する者はなく、実を結ばなかった。新指導部の若い将軍たちに王位が与えられ、やがて士気を鼓舞するために王位が乱発された。そのために2千人もの王が誕生した。若い将軍(王)は改革を唱える若者と対立し、戦場では上海を独断で攻撃した将軍が出たが敗退した。租界の多い上海を攻撃したことで、欧米を敵に廻した。別の将軍は、仲間の救援を得られずに戦場で孤立して戦死した。
曽国藩に習って軍を結成した李鴻章の准軍は、乱が収束しても解散せずやがて北洋軍閥になる。太平天国の規律はすっかり弛緩した。食の確保に追われて略奪と強引な徴収に走った。投降した清朝兵士を大量に編入したことによって、兵の質がさらに低下した。上海の官僚と商人が資金を出して、列強による傭兵部隊が編成された。太平軍は、西洋式の銃・火砲を備えた傭兵部隊に勝てなかった。
天京は孤立し、食糧は尽きた。雑草を「甜露」と呼んで食べるまでになったが、洪秀全は撤退を受け入れなかった。防衛兵は暴徒と化し、洪秀全は栄養失調によって死んだ。最期の言葉は「私は天国に昇り、天父天兄から兵を借りて戻り、天京を守る」であった。天京が陥落すると、老人や子供を含めて20万人が虐殺された。洪秀全の墓は暴かれ、遺体は晒された。生き残りの諸王は各地で散発的な抵抗を行ったが、1870年代には全て鎮圧された。
太平天国のことは、日本では当初は明朝の後裔が起こした再興運動のように伝わり好意的に捉えられた。「滅満興漢」のスローガンと、辮髪を落としたことが強調されたのだ。しかし情報が増すと、洪秀全が明朝とは関係が無く、島原の乱を想起させるキリスト教を信仰していることから嫌悪されるようになる。幕府は1859年にイギリス領事に要請され、英仏両軍に1千頭ずつの軍馬を売却している。雑穀や油も輸出した。これは戦争特需だ。
薩摩藩の五代友厚と長州藩の高杉晋作は、清朝の情報収集を兼ねて交易のために上海に渡航した。同行した藩士の日記では、太平天国の乱を否定的に見ている。しかし清国の現状を知り、海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議は、急速に高まった。
そして中国では、孫文が太平天国に傾斜したこともあり、辛亥革命前後から評価が持ち直した。欧米列強が、開国したばかりの混乱期の日本に対して、直接軍事介入を行うことなく、植民地化し損ねたのは、太平天国の乱と同様な民衆反乱が起こる事を危惧したからだと唱える人々がいる。さて、これはどうだろうか。