旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

マレー沖海戦 

2016年08月03日 12時48分25秒 | エッセイ
マレー沖海戦   

 1941年12月10日にマレー半島東方沖において、日本海軍の航空部隊とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘である。日本軍の九六式陸攻59機と一式陸攻26機が戦艦1、巡洋戦艦1、駆逐艦4を攻撃し陸攻3機、偵察機2機喪失、陸攻1機不時着大破の損害と引き換えに、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。英軍の戦死者は840名、日本軍の戦死者は25名。ハワイ真珠湾奇襲攻撃の2日後に行われたこの海戦は、日本軍の一方的かつ完璧な勝利で終わった。
 マレー沖海戦は象徴的な戦いであった。この勝利の持つインパクトはパールハーバーよりもずっと大きい。まず沈んだ戦艦がプリンス・オブ・ウェールズだったのが、英国にとってはいかん。これがライオンとかリバプールとかいう艦名であったら、なにか不幸な戦闘というイメージで、あのような衝撃まではいかなかったかも。
 航空機のみで作戦行動中の新鋭戦艦を沈める。意外にもそれはマレー沖海戦以外には、戦艦『武蔵』と『大和』の例があるだけだ。この2艦も戦闘機の護衛がいなかった。パールハーバーで沈めた戦艦は停泊中だっただろ。この戦闘で、当時の世界の海軍戦略である大鑑巨砲主義が終焉を告げた。航空兵力を伴わなければ戦艦は鉄くず、せいぜい浮き砲台に成り下がった。しかしその教訓を大胆に活かしたのは、勝った日本ではなくアメリカであった。日本海軍は、世界最大級の巨艦『大和』の特攻をもって終焉を迎える。ドイツの戦艦ビスマルクの戦いとその沈没以外、第二次世界大戦で戦艦体戦艦の撃ち合いはない。戦後は戦艦自体が無くなった。
 前にも記したが、チャーチルは第二次大戦中、最も衝撃を受けた出来事としてこのマレー沖海戦(というかプリンス・オブ・ウェールズの喪失)を挙げている。ブルドックのような外見、無作法な行動に似合わず聡明なチャーチルは、この戦艦の喪失によってシンガポールの陥落、東洋、次いで全世界の植民地が遠からず失われることに気付いていた。日の沈むことの無い大英帝国は永遠に失われた。例えこの戦いに勝ったとしてもだ。オーストラリア、NZは米国に助けてもらうしかあるまい。
 プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の速報がラジオで流されると、シンガポールではパニックが起きている。プリンス・オブ・ウェールズは1941年1月19日に就航した世界最強と謳われた戦艦で、10月にはデンマーク海峡でビスマルクと撃ち合っている。12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着して、日本軍に対する大きな抑止力として熱烈な歓迎を受けたばかりだ。それが最初の出撃で、何の戦果もあげずにあっけなく沈んだ。パニックになるのも無理はない。期待の大きかった分、落胆は底なしだった。イラクでは日本支持のデモが起きた。アジア各地の反英、反仏独立主義者は目が覚めた。大英帝国は絶対的に強大ではなかった。この海戦は、100年に亘るイギリス植民地主義と海軍全盛時代の「破局の序章」となった。
 イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは言う。「イギリス最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事であった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおけるイギリスの力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」日本に空軍は無いけどね。ヴェトナムの英雄ホー・チ・ミンの言葉は残っていないが、彼もマレー沖海戦によって勇気付けられたのだろう。それほど鮮やかで衝撃的だった。

 アメリカはミッドウェー海戦で旧式のTBDデバステイターを使っている。デバステイター雷撃隊は勇敢に戦い、40機出撃して4機しか戻らなかった。零戦と対空砲火にやられたのだ。しかし彼らが低空に注意を引きつけたために、上空からの急降下爆撃が奇襲となり勝利した。アヴェンジャーの一見無駄と見える犠牲が次の攻撃に繋がった。イギリスの雷撃機ソードフィッシュ(メカジキの意)は、驚くなかれ布張りの三座複葉である。第一次世界大戦と間違えて出てきたのかと思う。最大速度は、な、何と222km/h。一式陸攻の1/2以下だ。しかしソードフィッシュ隊はビスマルク追撃戦に出撃し、偶々まぐれ当たりのように一本の魚雷が命中した。この一本が奇しくも艦尾の舵を破壊した。これでビスマルクの命運は尽きた。片方向にしか進めなくなり、グルグルと回転するビスマルクは、続々と集結してきたイギリス艦隊によってなぶり殺しのように撃たれて沈んだ。
 低速でもソードフィッシュは、墜ちにくい航空機だった。何しろ機銃弾が、羽布にプスプスと穴を開けて通り過ぎて行くのだ。ビスマルクを攻撃した一機は175ヶ所被弾したが、無事に帰還した。それにしてもこんな機体で敵に立ち向かうとは、並大抵の勇気ではない。あまりの低速で、敵戦闘機はフラップを最大にし、脚を下して失速ぎりぎりの状態で攻撃しなければならない。攻撃中に失速して墜落する機が多く出た。ビスマルクを攻撃した際も、最新式の対空砲の迎撃を受けたが、進入速度が対空砲の入力下限を下廻ったため、ビスマルクの放った対空砲弾のほとんどがソードフィッシュのはるか前方で炸裂した。その中を飛び続けた勇気が凄いな。
 しかし1942年2月のツェルベルス作戦で、ドーバー海峡を突破するドイツ艦隊を邀撃したソードフィッシュ隊6機は全滅した。それでも英軍はその融通性からストリングバック(何でも入る買い物籠)と呼んでソードフィッシュを愛し、大戦中使い続けた。時化の多い大西洋では、ソードフィッシュだけが離艦出来る事が多かった。主に対潜哨戒で使ったのだ。長時間に渡って低速で飛行する対潜哨戒任務では、搭乗員に負担をかけない操縦性の良さと、本来の低速が有利に働いた。
 このような雷撃機しか持っていなかった英国が、日本軍の雷撃などあるはずがない、と考えるのも無理からぬところはある。だいたい軍人と言うのは保守的で特に貴族階級の高級将校はかたくなである。しかし無意味な偏見により不名誉な死を迎えるとは。この時点ではフィリップス大将も未だ知るよしもない。
 海戦は数時間で終わり日本の楽勝のように見えるが、その勝利は実は案外きわどいものだった。実際の戦闘を見てみよう。その前に。
1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(例えば日本軍)をシンガポール要塞で防衛し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。イギリスとてプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの派遣だけでは不十分だと分かっていた。戦艦6隻、空母3隻を派遣する計画もあったのだが、ドイツ戦艦ティルピッツの出撃に備え、またアフリカ戦線の補給路争奪でマルタ防衛戦の最中で、そんな余裕は無かった。
 結局2艦と護衛の駆逐艦4隻、空母インドミタブル(この船名はどうよ)の派遣に決した。しかし不幸なことに(日本にとっては、実に幸運なことに)、空母インドミタブルは11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし合流出来なくなる。かわりに小型空母ハーミーズの合流が決まるが、ハーミーズは修理中で12月10日に間に合わなかった。マレー沖海戦に空母が参戦していたら、結果はどうなったか分からない。零戦の参加で空母まで撃沈したかもしれないし、プリンス・オブ・ウェールズは中破くらいで済んだかもしれない。
 航空機に関しては、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されなかった。イギリスはソ連を支援するために大量の航空機を供給していたが、そのしわ寄せがここに出た。配備機もバッファロー戦闘機という時代遅れの二流機だった。しかしイギリス軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(イギリス軍の60%)」と、何の根拠もなく人種偏見に満ちた想定をしていた。戦闘機の数はともかく質での不安はなかった。その驕りの代償は高くついた。10万人もの捕虜を出してシンガポールは陥落する。
 
 ここで1941年当時の雷撃機(魚雷を搭載した攻撃機)の諸元を見てみよう。

        最大速度  航続距離 乗員 武装(機関銃) 爆弾搭載量(魚雷以外)
ソードフィッシュ 222km/h 1,658km 3名 7.7mmx2 250ポンドx2, or 500ポンドx2
九六式陸攻(23型) 416km/h 10,280km 7名 7.7mmx3,20mmx1 60kgsx12, 250kgsx2, 500 or 800kgsx1 
一式陸攻(34型) 479.7km/h 4,334km 7名 7.7mmx1, 20mmx4 250kgsx4, 500 or 800kgsx1
TBDデバステーター 331km/h 700km 3名 7.62mmx2 453kgsx1

 アメリカはミッドウェー海戦で旧式のTBDデバステーターを使っている。TBDデバステーター雷撃隊は勇敢に戦い、41機出撃して4機しか戻らなかった。零戦と対空砲火にやられたのだ。しかし彼らが低空に注意を引きつけたために、上空からの急降下爆撃が奇襲となり勝利した。TBDデバステーターの一見無駄と見える犠牲が次の攻撃に繋がった。イギリスの雷撃機ソードフィッシュ(メカジキの意)は、驚くなかれ布張りの三座複葉である。第一次世界大戦と間違えて出てきたのかと思う。最大速度は、な、何と222km/h。一式陸攻の1/2以下だ。しかしソードフィッシュ隊はビスマルク追撃戦に出撃し、偶々まぐれ当たりのように一本の魚雷が命中した。この一本が奇しくも艦尾の舵を破壊した。これでビスマルクの命運は尽きた。片方向にしか進めなくなり、グルグルと回転するビスマルクは、続々と集結してきたイギリス艦隊によってなぶり殺しのように撃たれて沈んだ。
 低速でもソードフィッシュは、墜ちにくい航空機だった。何しろ機銃弾が、羽布にプスプスと穴を開けて通り過ぎて行くのだ。ビスマルクを攻撃した一機は175ヶ所被弾したが、無事に帰還した。それにしてもこんな機体で敵に立ち向かうとは、並大抵の勇気ではない。あまりの低速で、敵戦闘機はフラップを最大にし、脚を下して失速ぎりぎりの状態で攻撃しなければならない。攻撃中に失速して墜落する機が多く出た。ビスマルクを攻撃した際も、最新式の対空砲の迎撃を受けたが、進入速度が対空砲の入力下限を下廻ったため、ビスマルクの放った対空砲弾のほとんどがソードフィッシュのはるか前方で炸裂した。その中を飛び続けた勇気が凄いな。弾幕の中を飛ぶ時間が半端じゃあない。
 しかし1942年2月のツェルベルス作戦で、ドーバー海峡を突破するドイツ艦隊を邀撃したソードフィッシュ隊6機は全滅した。それでも英軍はその融通性からストリングバック(何でも入る買い物籠)と呼んでソードフィッシュを愛し、大戦中使い続けた。時化の多い大西洋では、ソードフィッシュだけが離艦出来る事が多かった。主に対潜哨戒で使ったのだ。長時間に渡って低速で飛行する対潜哨戒任務では、搭乗員に負担をかけない操縦性の良さと、本来の低速が有利に働いた。
 このような雷撃機しか持っていなかった英国が、日本軍の雷撃などあるはずがない、と考えるのも無理からぬところはある。だいたい軍人と言うのは保守的で特に貴族階級の高級将校はかたくなである。しかし無意味な偏見により不名誉な死を迎えるとは。この時点ではフィリップス提督も未だ知るよしもない。
 不意を突いたとはいえ、日本軍の緒戦の作戦は尽く成功する。しかし12月6日(開戦2日前)日本軍輸送船団はオーストラリア空軍の偵察機に発見されている。イギリス軍はこの戦艦1隻を含む大部隊がタイ国へ行くのか、マレー半島に上陸する(即ち開戦)のか判断に迷った。12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも拘わらず接近してきたPBYカタリナ飛行艇を撃墜。12月8日午前1時30分日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦した。
真珠湾攻撃の2時間前だった。これが世に言う太平洋戦争の始まりだ。イギリス軍の反撃も激しく、イギリス軍機が日本の輸送船3隻を大破させている。
 上陸作戦においては、陸兵と兵器を満載したまま攻撃を受け、船ごと沈められるのは悪夢だ。上陸して内陸に物資を運び込んだ後で攻撃しても遅い。上陸部隊への攻撃はタイミングが重要で、早くても遅くてもいけない。プリンス・オブ・ウェールズとレパルス(Z部隊)は、日本軍上陸部隊を蹴散らすべく12月8日午後8時25分にシンガポールを出撃した。シンガポールには他にも軽巡洋艦や駆逐艦がいたが、いずれも修理中や低速などの理由で出撃していない。出港してまもなく、依頼していた戦闘機による護衛が出来ないことが分かった。
 日本の上陸部隊を守るのは、第二艦隊。戦艦金剛と榛名がいる。しかし両艦とも艦齢30年になる老艦を近代化改装したもので、速力は早いが兵装、装甲の厚さもプリンス・オブ・ウェールズに劣る。主砲は14インチ(35.6cm)でプリンス・オブ・ウェールズと同じだが、向こうが10門持っているのに対し4門、金剛と榛名の2艦でも8門である。頼みは小沢中将が指揮する南遣艦隊(巡洋艦と水雷部隊)だが、輸送船団の護衛を終えて燃料が乏しくなっている。
 とはいえ一時第二艦隊とZ部隊は、プリンス・オブ・ウェールズの主砲の射程圏に入っていた。フィリップス提督がもう少し積極的に前進していたら、戦艦同士の撃ち合いに突入していた。その場合日本軍が不利で、水雷部隊の助けが無ければ勝つことは難しい。この幻の海戦の結果、日本軍の秘密兵器93式酸素魚雷によってプリンス・オブ・ウェールズは沈んだとしても、日本軍にも相当な被害が出ていたはずだ。あのように大きな衝撃にはならなかっただろう。
 Z部隊は迷走する。敵を前にして反転した。夜間戦闘を避けたのかもしれない。潜水艦伊65がZ艦隊を発見、水上偵察機が来て日没まで接触を続けた。夜が近づくが、基地航空隊3波が出撃した。ここで珍事が起きる。天候がひどくなり陸攻隊に引き返すように指令が出た。ところが帰路艦隊を発見し、吊光弾を投下して報告する。「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」これは味方の水雷部隊だった。吊光弾は重巡艦「鳥海」の真上に落とされた。仰天して打った電報「照明弾下にあるは味方なり。」がかろうじて間に合ったが、危なかった。薄暗がりの中で、陸攻隊は味方艦隊に殺到するところだった。
 フィリップス提督は駆逐艦テネドスが燃料不足だったため、単艦でシンガポールへ引き返させた。Z部隊はシンゴラ沖の上陸部隊を指向したが、前方5マイルに青い閃光を見た。「鳥海」上に落とされた吊光弾である。シンガポールの偵察情報もその方向(コタバル沖)に大艦隊がいうと言っているため、進路をコタバルに変更した。提督は早朝、航空部隊の来る前に上陸部隊に突入したかったのだろう。伊58が夜間Z部隊を発見し、魚雷5本をレパルスに向けて放つが変針が重なり外した。その後接触を失う。潜水艦の速力では戦闘艦に追い付けない。
 早朝よりZ艦隊を見失った日本軍は12月10日6時25分、元山空の九六式陸攻を9機、索敵任務に投入する。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずだ。捜敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。サイゴンから元山空(九六式26機、雷装x17, 爆装x9)、ツドュムから鹿屋空(一式26機、全機雷装)、続いて美幌空(九六式33機、雷装x8, 爆装x25)。最後の機が離陸したのは9時30分である。計85機の攻撃隊は、1機がエンジントラブルで引き返しただけで、捜索機の敵発見の連絡を受け、敵艦隊に時間差で殺到する。
 しかしなかなかZ部隊を発見出来なかった。速力の早い一式陸攻撃隊はシンガポール付近まで進出していた。まず帰還中の駆逐艦テネドスが見つかり、元山空の9機が攻撃するが命中しなかった。ついに11時45分、独断で策敵コースを変更した偵察任務機がZ艦隊を発見する。
 早朝よりZ艦隊を見失った日本軍は12月10日6時25分、元山空の九六式陸攻を9機を索敵任務に投入する。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずだ。捜敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。サイゴンから元山空(九六式26機、雷装x17, 爆装x9)、ツドュムから鹿屋空(一式26機、全機雷装)、続いて美幌空(九六式33機、雷装x8, 爆装x25)。最後の機が離陸したのは9時30分である。計85機の攻撃隊は、1機がエンジントラブルで引き返しただけで、捜索機の敵発見の連絡を受け、敵艦隊に時間差で殺到する予定だ。しかしなかなかZ部隊を発見出来なかった。速力の早い一式陸攻隊はシンガポール付近まで進出していた。まず帰還中の駆逐艦テネドスが見つかり、元山空の9機が攻撃するが命中しなかった。そしてついに11時45分、独断で策敵コースを変更した偵察任務機がZ艦隊を発見した。
 Z部隊は近くまで行きながら、何故かコタバル突入を取り止めてシンガポールに引き返していた。推測だが、フィリップス提督は上陸部隊などどうでもよく、日本軍の航空機と水雷艦隊による攻撃を避けつつ、戦艦金剛とやり合いたかったのではないか。金剛級と撃ち合えば、必ず勝てると思っていたのだろう。同サイズの砲だが自艦は10門、レパルスは6門、金剛・榛名は各4門で、16対8と圧倒的に有利だ。だが金剛と榛名は最高速が30ノットで、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの28ノットより2ノット上回っていた。古い頭の大砲屋は直ぐにそういった計算をするが、時代は変わっていた。
帰路Z部隊は、クアンタン方面に日本軍が上陸したという報告を受ける。カタパルトで偵察機を飛ばし、駆逐艦で海岸を捜索するが結局これは誤報であった。機雷原を避けて大周りでシガポールに帰路を取る。この誤報によって時間を取っていなかったら、部隊は無事に帰港しマレー沖海戦は無かった。
 12時45分、美幌空の九六式陸攻8機がZ部隊上空に到着し、水平爆撃を実施。一機が被弾、別の一機が故障で投下出来なかったため、250kg爆弾計14発が投下された。その内の一発がレパルスに命中した。フィリップス提督は何故か基地航空隊に掩護を求めず、バッファロー戦闘機は待機を続けた。今日からは空軍の掩護の態勢が出来たので、連絡をすれば90分で戦闘機が艦隊上空に飛来する。
 第一波が退避する中、元山空の九六式陸攻16機(雷装)が到着。フィリップスは日本が雷撃を行えるとは考えず反応が遅れた。低空から突っ込んでくる攻撃機を見て、部下が魚雷攻撃だと進言するとフィリップスは否定している。また悪いことに英艦の対空火器ポンポン砲は頻繁に弾詰まりを起こした。一機を撃墜するが、プリンス・オブ・ウェールズは2本の魚雷を食らう。レパルスはテナント艦長の巧みな操艦で8本の魚雷全てを回避した。
 2本の魚雷で戦艦は沈まない。戦艦大和と武蔵は、爆弾に加え魚雷を30本以上くらっている。それでも大和は2時間、武蔵は9時間戦い続けた。大和は片側に集中して受けた(意図的にそう攻撃された)のが痛かった。大和のようなモンスター級の戦艦と単純に比較は出来ないが、プリンス・オブ・ウェールズ級の戦艦であれば、最低でも片舷に4発は必要だ。
 この時のプリンス・オブ・ウェールズが受けた魚雷の内、一本はたいした被害ではなかったが、左舷後方に命中した魚雷が重大な損傷を与えた。命中の衝撃で湾曲した推進軸が回転して、周囲をボロボロに引き裂いたのだ。隔壁が次々に破壊され大量の浸水、左舷に10度傾斜し速力は20ノット(一説では16ノット)に低下した。速度を失うのは、航空機の攻撃に対して致命的に不利だ。浸水により電力が途絶し、艦内電話が不通、通風が不十分になり機関室では熱射病で乗組員がバタバタと倒れた。プリンス・オブ・ウェールズは魚雷1本で重大な損傷を受けたが、被害の報告をレパルスにはしなかった。レパルスは旗艦の傾斜と動きから損害を推測するしかない。
 次に美幌空の九六式陸攻、雷装8機が来てレパルスを襲うが、レパルスはこれも巧みに回避する。レパルスのテナント艦長は、ここで独断にて無線封止を破り空軍の援助を要請する。しかしバッファロー戦闘機11機が戦場に到着するのは、海戦が終わった30分後だった。最初の攻撃で連絡をしていれば、後半の攻撃には間に合っていた。一式陸攻は航続距離を増すために翼に燃料を目一杯詰めている。後に米軍からはワンショットライターと呼ばれた。戦闘機の機銃数発が当れば火を吹く、実は欠陥機だったのだ。
 後はなぶり殺しである。鹿屋空の一式26機(雷装)のスマートな左右同時攻撃で両艦とも炎上し、健闘したレパルスはついに止めを差され、しばらくして沈没する。時に午後2時3分。だがレパルスの対空砲火で陸攻2機が撃墜され、計11機が被弾した。その後さらに美幌空の九六式17機(爆装)が、炎上する両戦艦の上空に到着し、瀕死のレパルスに爆撃を行う。しかし初陣で舞いあがった爆撃手がかなり手前で投弾してしまい、後続機も続き全弾が何もない海面に落ちた。しかしこの部隊は、プリンス・オブ・ウェールズには500kg爆弾を少なくとも一発命中させた。戦闘最後に浴びたこの一発の破壊力は大きかった。最後の灌室を破壊し、航行能力を完全に失わせた。
 プリンス・オブ・ウェールズはその後1時間ほどは浮いていたので、駆逐艦に救助された乗組員は多い。戦死は士官20名で下士官兵307名(全乗組員:士官110名で下士官兵1,502名)、レパルスと併せて将兵840人が死んだ。やっと戦場に到着したバッファロー戦闘機隊は、あり得ない光景を目の当たりにする。プリンス・オブ・ウェールズが沈んでゆくのだ。時に午後2時45分。
 最初にZ艦隊を発見した偵察の陸攻機は、戦闘機の到着を見て避難し帰還した。各攻撃隊を戦場に誘導し、敵艦の最期を見ての帰還で、実に13時間のフライトであった。爆弾や魚雷を搭載していない陸攻は滞空時間が長い。ここで繰り返すが、空母がいるか戦闘機の護衛があれば、こうまで一方的な戦闘にはならなかっただろう。1942年2月20日のニューギニア沖海戦で空母レキシントンを攻撃した一式陸攻15機は、2機を残して全滅している。
 この海戦後、日本軍は特攻機を含めいくつかの戦艦を破壊したが撃沈したものはない。プリンス・オブ・ウェールズは水面下68m、レパルスは40mの海底に沈んでいる。レパルスの船影は海上からも確認出来るそうだ。日本軍は両艦を海底から引き揚げて再利用することを検討したが、結局は諦めている。海中調査の結果、プリンス・オブ・ウェールズへの命中魚雷は4本(日本軍主張7本)、レパルスは5本(日本軍主張9本)だった。命中しても不発だった魚雷もあった。英国は毎年12月10日にダイバーを潜らせて、海底のプリンス・オブ・ウェールズの英国旗を取り代えている、という話しを聞いたが本当だろうか。
 陸攻隊は残った3隻の駆逐艦への攻撃は行わなかった。これは武士の情け、というよりは燃料も残弾も尽きていたようだ。1941年12月10日、日本軍航空隊は英国軍艦と共に、彼らの〝過ぎ去りし良き日々〟を沈めたようだ。日の没することのない大英帝国は、尊大なフィリップス提督と共に南シナ海に消えていった。新しい時代は殺伐として散文的なものだった。