旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

スペック過剰 

2016年09月15日 17時46分29秒 | エッセイ
スペック過剰   

 戦時中の一般人は、戦艦大和・武蔵の存在を知らなかった。軍国少年は戦艦長門・山城の絵は画けるが、大和の写真は見たことがない。名前も知らない。超国家秘密にしていたのだ。だが両艦ともさほどの活躍はしていない。秘密兵器、決戦兵器とはほど遠い。大和だ、武蔵だと国民が口にするようになったのは、戦後世の中が落ち着いてからだ。
 しかしあれはいらなかった。あの2隻、空母に改装した信濃も含めれば3隻の代わりに、航空隊を増やすか駆逐艦を増産したら、戦局にはるかに有利に働いていただろう。戦艦群の大砲撃戦など、太平洋戦争では起きなかった。捷一号作戦で、栗田艦隊があと1~2時間前進していたら、米x7、日x4の戦艦の撃ち合いが勃発していたのだが、栗田艦隊は直前で反転してしまった。世界一の巨砲(46サンチ砲)は、結局ほとんど何の役にも立たなかった。
 軽巡大井もオーバースペックだった。何しろ魚雷発射管が10基40門もあるのだ。これは大艦隊ががっぷり組んで砲撃戦を展開するなか、高速を活かしてスルスルと前進して行き、放射状に魚雷を放つ。又は夜戦で、敵味方の配置がはっきりしている初期段階で魚雷を放つ。このような使い道以外は考えられない。そんな日露戦争のような海戦は起きなかった。大井は結局戦場で魚雷を放つチャンスは無く、高速輸送船(これはいくらでも必要で、喉から手が出るほど欲しい。何しろ潜水艦が追い付かないのだ。)に改装され、兵員輸送等で活躍した。最後は潜水艦の魚雷によって沈められた。同じく重雷装艦の北上も輸送船となり、こちらは空襲で損傷したが、生き延びて戦後復員船となった。
 日本の駆逐艦は優秀で太平洋で大活躍したが、戦闘だけでなく護衛や輸送にまで使われて、次々に沈んでいった。海軍は初期の優れた性能の駆逐艦が足りなくなり、スペックを大幅に落とした安直な駆逐艦を日本としては大量に製造した。排水量は半分から1/3、時速も33から28ノットへ、高角砲と機銃といった防空能力だけを強化し、大砲は除去した。名称も「雪風」「不知火」といった2-3文字から「松」「楓」といった1文字に縮小した。それでもオーバースペックだったかもしれない。安価、短工期といった大量生産の得意なアメリカが造った護衛駆逐艦などは、21ノットしか出ないが500隻も造られた。彼らが製造した護衛空母も、張りぼてのような安直な造りだが、船団の護衛や航空機の輸送に活躍した。
 日本の一文字駆逐艦は、タイムリーに戦場に出て活躍した。戦地では高性能な駆逐艦3隻よりも、低スペックでも10隻の方が遥かに望ましい。何しろ護衛が間に合わずに、輸送船団が次々と潜水艦に食われていたのだ。

 ドイツはV号ロケット弾やジェット戦闘機といった新兵器を次々に開発した。ユダヤ系の頭脳集団を追い払って、ドイツ人だけで開発をした。ベルリンをいち早く占領したソ連赤軍は、ドイツ人科学者集団を真っ先に探し出し、ゴソっと祖国に連れ帰った。その為宇宙開発において、アメリカを20年は先行出来た。アメリカも残ったドイツ人科学者を探し出して連れ帰っているから同類だ。何かジンギス汗のモンゴルのようだ。彼らは城砦都市を占領すると、職人と美女だけは殺さずに連れ去った。
 ドイツは大戦初期に、電撃戦で最初はポーランド、次いでフランスに於いて英仏軍をいとも簡単に打ち破った。ドイツの3号軽戦車及び4号中戦車は、速力こそ勝ったが打撃力、装甲共に英仏の戦車より劣っていた。しかしドイツ軍は急降下爆撃機の先導で進路をこじ開け、戦車隊が無線で連絡を取り合い、
水雷艦隊のように進撃した。たちまち前線を突破して敵の後方に出るため、連合軍は手を打つ前に分断、孤立して各個撃破されていった。
 英仏軍の戦車は歩兵と連携し、撃つ時は停車する決まりだった。ところがドイツの戦車は砲弾を撃ちつつ、チームになって押し寄せてきた。しかしこの電撃戦論を最初に提唱したのは、イギリス人の将校であった。本国では見向きもされなかったこの理論を注目して取り上げ、勝利をもぎ取ったのはドイツのグデーリアン将軍であった。
 そのドイツ軍はバルバロッサ作戦(ソ連侵攻)で、BT戦車が相手の時は良かったが、暫くしてお目見えしたソ連の戦車T-34に自軍の主力4号戦車が、全く太刀打ち出来ないことが判明した。そのショックは相当なものだった。劣等民族スラヴ人が造った戦車が、我がゲルマン人の戦車よりもはるかに優れているとは。彼らのプライドはズタズタにされ、広大なウクライナの大地は雨が降るとドロドロの湿地と化し、ドイツ軍は果てしない消耗戦に引きずり込まれた。
 T34に対抗する為にドイツが開発した戦車が、ティーガーとパンターであった。ティーガーは当時最強の傑作戦車で、1対1なら無敵だった。T34の砲弾を装甲で弾き飛ばし、ティーガーの砲弾はT34を吹き飛ばす。それでも接近すればT34でもティーガーに損傷を与えられる。また頑丈で製造も修理も実に容易なT34に較べ、ティーガーは精密機械だった。製造コストは高く生産性は上がらず、整備は困難。特に初期型では故障が頻発した。ドイツ軍が前線で失ったティーガーは、戦闘よりも故障によるものの方が圧倒的に多い。勝って前進を続けるなら修理も出来るが、敗走するドイツ軍は故障車を破壊するしかなかった。
 史上最大のクルスク大戦車戦で、ドイツ軍のエース、ミハエル・ヴィットマンはティーガーに乗り敵戦車30輌と対戦車砲28門を撃破したが、T34は倒されても倒されても、地から湧くように現れた。結局数の差、物量の勝負でドイツは敗れ去り、その後は敗戦まで防戦一方となった。
 アメリカ軍のシャーマン中戦車は、傑出した戦車とは言えなかった。シャーマンが道でティーガーと正面から出会えば、10回中10回負ける。出くわせば一巻の終わりである。シャーマンの75mm砲ではティーガーの正面装甲には歯が立たない。しかしティーガーやパンターは数が少ない。いざという時には、空軍の支援を呼べばよい。バルジの戦いで苦戦したのは、戦いの中盤まで曇天が続いて空襲が出来なかったからだ。また米英軍は、車体はシャーマンのまま砲身を換え、ティーガーを撃ち抜ける戦車を少数開発した。普通のシャーマンだと思って近づくとやられる。ただし換装シャーマンは少数で、機能性は落ちた。
 こうしてみると少数エリートを集めたドイツよりも、能力はそこそこでもフットワークの良い連中を大量に使ったソ連とアメリカが勝利を収めている。
なおソ連は重戦車 IS-2(ヨシフ・スターリン)を開発した。122mm砲という凄い破壊力だが、狭い車内で25kgの弾頭を装てんするという無理があって、一弾撃てば再装てんに時間がかかり、時速37km/hという低速では戦車戦において脅威にはならなかった。完全に失敗作だ。大きければ良いというものではないことは、これまでの戦訓で分かっているはずなのに。それでも指導者は敵よりも大きく、より分厚い装甲をと考える。
 末期のヒトラーは身体がボロボロで、頭も錯乱していたのか。史上最大の戦車、陸上戦艦を欲した。その結果が超重戦車「マウス」だ。クルップ社とポルシェ社に、100トン級の重戦車の開発と設計を二重に命じた。結局設計はポルシェ博士、部品の生産と組み立てはクルップ社、砲を含む最終組み立てはアルケット社により行われた。マウスはヒトラーの度重なる口出し、生産計画の中止・延期・再開、資源の不足、エンジンの不十分な性能にも拘わらず、試作1,2号が完成した。
 全長10m、全幅3.67m、全高3.63m、重量188ton、速度20km/h(整地)、13km/h(不整地)、主砲12.8cm、副砲7.5cmと機銃。でかい。現在でも188トンもある戦車はない。しかし12.8cmは駆逐艦の主砲だ。陸上戦艦とは言い過ぎである。
 この戦車、気が遠くなるほど燃費が悪い。ベルリン攻防戦に試作2号機が出撃したが機関が故障、燃料切れで立ち往生し、赤軍に渡ることを避けるために爆破処分された。しかし試作1号機は試験場で無傷で捕獲され、現在モスクワ近郊のクビンカ戦車博物館に展示されている。
 なお名称は、「マンムート(マンモス)」又は「レーヴェ(ライオン)」の案があったが、あえて逆のイメージにより秘密を保持する意図でマウスになった。役立たずの化け物にはいっそ相応しい。皮肉を感じて哀愁すら漂う。戦争とはどこまで愚かしいのか。マウスは重過ぎて橋を渡れない。車体は完全防水でシュノーケルが収納されている。渡渉するには2輌が必要で、片方が陸上で発電して電気を送り、もう片方がその電気で渡渉するそうだ。
 ヒトラーと共にマウスのモックアップを見たグデーリアンは、重量過多で接近戦闘能力の低い超重戦車が役立たずなことを直ぐに見抜いた。同時にドイツ大三帝国の終焉も見抜いたことだろう。

100キロハイク   

2016年09月13日 09時10分03秒 | エッセイ
100キロハイク   

 冒険家の植村直己氏は北極圏単独犬ぞり旅行に備えて、北海道から九州の端まで3,000kmの徒歩旅行を51日間で行った。一日60km弱だ。うん、こういう距離感って大切だよね。「だから植村は素人なんだ。」「北極圏と文明国日本とどう繋がる?」批判は簡単だが、自分で命を賭ける訳でなければ黙っていて欲しい。植村氏にとって体で覚えた3千キロの距離感が大切なんだ。
 秀吉の〝中国大返し〟は200kmを7日間だから一日30kmほどの行軍だ。武器を携行して、次の日には山崎の合戦だからこれは早い。比叡山の「千日回峰行」は6年目に一日60km x 100日、7年目に84km x 100日、山中30km x 100日。一日84kmを連続100日は化け物だな。
 自分にとって目安となる距離は百キロだ。埼玉県本庄市から、東京は高田馬場まで一昼夜かけて歩いた。大学のサークルが主催するイベントで、略して100ハイ。ネットで見たら今でもやっているね。記憶では23時間かかって昼前に大学にたどり着いた。数百人が参加して何ヶ所か休憩所が用意してあった。夜中はその内の一つ(体育館のような所)で、3時間ほどゴロ寝をしたように思う。
 途中で脱落する奴は、最後尾で自動車部が拾って近くの駅に運ぶ。完走(歩)率は6-7割か。女の子は10人中2-3人だが、彼女達の完歩率は8-9割だと思う。女は強い。ほとんどアスファルトの国道を歩くのだが、時速4kmなんてまどろっこしいものではない。時速6-7km/h、最初の数キロは走る、走る。休憩後も最初は走る。夜中に大人数で行列をなし、先頭は旗まで持って異様な光景だ。土日にかけて行われたので、夜中に並走する暴走族の兄ちゃんも、「ん、なんだ?」
 飯はどうしていたのかな、覚えていない。結局、長距離は足の裏の勝負だった。靴との相性が物を言う。地下足袋の参加者がいたけど、あれは吉だったのか、凶だったのか。脱落するケースは、疲労よりも足の裏のダメージ(マメ、血マメ)によることが多い。自分も途中でマメを針でつぶして水を出し、バンドエイドを貼って歩いた。まあ空手で足の裏は鍛えていたのだが、流石に100kmは長い、23時間はキツイ。翌日、翌々日は疲労困憊、筋肉痛でヨレヨレだった。けれども100キロを一日で歩いたという感触は残っている。それが財産になる。


捷一号作戦 – レイテ沖海戦 – 続き  

2016年09月06日 18時34分23秒 | エッセイ
捷一号作戦 – レイテ沖海戦 – 続き  

 スリガオ海峡の出口では、オルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊が西村艦隊を待ち構えていた。戦艦6、重巡4、軽巡4、駆逐艦26、魚雷艇39の大部隊だ。偵察により待ち伏せを知っていた西村は、突入の予定を4時間早めて夜戦に持ち込むことにした。日本軍得意の夜戦で93式酸素魚雷をお見舞いし、第一次ソロモン海戦(米:重巡4沈没、1大破、日:重巡2少破)やルンガ沖夜戦(米:重巡1沈没、3大破、日:駆逐艦1沈没)の再来だ。
 西村は繰上げ単独突入を栗田に通告し、栗田は「予定通りレイテ泊地に突入後、25日0900スルアン島北東10浬付近において主力と合同」と返信し、単独突入を容認した。西村艦隊前衛隊は、魚雷艇の激しい反復攻撃を受ける。扶桑が被雷して沈没。次に駆逐艦、満潮と山雲が被雷、沈没。続いて朝雲が被雷し艦首が切断。戦艦山城も被雷する。これでは得意の夜間水雷戦を逆に好きなようにやらせてしまっている。狭い海峡の出口で待ち伏せされ、レーダーにより位置を知られていては勝負にならない。このまま進めば海峡の出口で一艦ごとに狙い撃ちされる。
 米軍は駆逐艦一隻が被弾する。3時過ぎ米戦艦、巡洋艦は「T字陣形」で迎撃し、遠距離から西村艦隊をレーダー射撃する。山城が被弾。最上のレーダーは島影と敵艦影の区別が出来ず、遠方の敵の閃光を目標に反撃するしかなかった。これでは動く相手には当らない。西村艦隊は大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を受け命中が相次ぐ。砲撃戦の間に近接した駆逐艦の魚雷を4発受けた山城は、火薬庫に引火して大爆発を起こし沈没した。西村司令以下ほとんど全員が戦死した。
 次の目標となった最上は魚雷4発を発射するなど勇戦したが大破し、最後尾の時雨と共に反転離脱した。米軍のレーダー射撃の命中率は決して褒められたものではなかった。米軍の中で効果的にレーダー射撃を行えたのは、新式レーダーを備えた3隻の戦艦だけだったが、それでもレーダー射撃は有効だった。西村艦隊は沈没する瀬戸際まで目測で主砲を放ったが、一発も当っていない。西村は夜戦を選択するべきではなかった。
 西村艦隊の後に続き突入するはずだった志摩艦隊は、軽巡阿武隈が敵魚雷艇の攻撃を受けて被雷。旗艦那智が炎上して進む最上と衝突して艦首を大破、突入を断念する。艦隊は単艦南下する時雨を発見、艦隊に合流するように指示を出すが、時雨は舵故障と回答し単艦南下を続けた。時雨はその後空襲を受けるがブルネイに到着し、全滅した西村艦隊で唯一の生還となった。志摩艦隊は撤退中、空襲で阿武隈と駆逐艦不知火を失った。
 エンガノ海でハルゼーの機動部隊を釣りだしている小沢艦隊は、10月25日早朝直衛の零戦18機を除き、残存していた艦載機10機を陸上へ避難させた。空襲は8:15、第一次180機で始まり、第二次三次四次と日没まで終日行われた。直掩の零戦は奮戦して敵機17機を撃墜するが、9機落とされ残りの9機は燃料が尽きて海上に不時着した。全ての空母が空襲で燃えていて着艦出来なかったのだ。搭乗員は駆逐艦初月に救助されたが、初月が単艦で米艦隊13隻と戦い、2時間の激闘の末沈没したために全員戦死した。
 ハルゼーは10時過ぎに、ハワイの太平洋艦隊長官ニミッツから電報を受ける。「第34任務部隊はどこか?全世界は知らんと欲す。」これを見て怒り心頭に発したハルゼーは、こめかみの血管を破裂させそうになった。ハルゼーは艦隊の一部、2個群を残して小沢への攻撃を続行させ、第34と第38任務部隊を率いてレイテ沖へ引き返した。
 小沢艦隊の空母等は次々と沈められ、残った艦は生存者を救助して乗せバラバラになって北上する。艦隊は燃料が欠乏していた。傷つき速力の落ちた艦は、突出してきた敵艦隊に追い付かれて食われていった。潜水艦にやられた艦もある。戦闘の間、小沢は刻々と戦闘・被害状況を電送したが、それらの電報は栗田にも軍司令部にも連合艦隊司令部にも届かなかった。送信機の出力が弱かったのだろうか。小沢は瑞鶴から軽巡大淀に移乗している。小沢艦隊は、24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自分に引きつけることは出来なかったが、25日の空襲は一手に引き受けた。しかしその代償は大きく、空母4隻が失われた。この被害、空母4隻沈没他を軍司令部が知ったのは、小沢中将が奄美大島に帰投してからだった。
 ハルゼーを怒らせ、小沢に止めを刺さずに引き返させた電文は本来、「第34任務部隊の位置を知らせよ。」であった。通信文を暗号化する際、本文の前後に意味を持たない字句(挿入句)を加えるルールがあった。この場合、前文は「七面鳥は水辺に急ぐ(turkey trops to water.)」だが、後文は「全世界は知らんと欲す(The world wonders.)」で本文と意味がどんぴしゃり繋がってしまった。通信員が後ろの挿入句を取り除かないままハルゼーに渡してしまったのだ。紛らわしい文を付けた将校は後に閑職に飛ばされた。
 結局ハルゼーの機動部隊(第38)も戦艦部隊(第34)も北へ300マイル進み、急いで南へ300マイル取って返し、撤退の遅れた栗田艦隊の駆逐艦1隻を撃沈したのみに終わった。その意味では小沢艦隊の囮作戦は成功していたが、出来得れば24日の空襲を引きうけて欲しかった。そうすれば栗田艦隊の突入は早まり、武蔵は健在であった。燃料も節約が出来た。
 25日早朝、大和のレーダーが敵機を捉えた。昨夜は全く攻撃を受けなかった(米軍は艦隊を見失っていた)が、夜半に西村艦隊のレイテ突入とその後の全滅、志摩艦隊の離脱の報告を受けた。この時点で栗田艦隊は戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11と強力だが、前日の激しい空襲のために損傷を受け、速力・戦力が低下している艦も多かった。燃料も刻々と減ってゆくが補給の見通しは全くなかった。
 7時前、艦隊は水平線上にマストを発見する。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていた護衛空母群(コードネーム〝タフィ3〟)であった。華々しい戦闘とは無縁の後方部隊だ。護衛空母と正規空母の区別を知らない栗田艦隊は、これを(正規)空母6隻、米軍主力機動部隊と誤認する。艦隊は奮い立った。栗田は敵発見を打電し、直ちに突撃する。敵空母を戦艦の主砲で撃てるなど、空前絶後、千載一遇の好機だ。ここまで来た甲斐があった。
 一方のタフィ3は背筋が凍りついた。速力30ノット強の正規空母なら戦艦部隊から逃げることも可能だが、護衛空母では16ノットしか出せない。装甲はブリキのように薄い。艦載機を飛ばすしか有効な攻撃手段は残っていないが、対艦船用の爆弾は持っていない。地上攻撃用の小型爆弾で攻撃するしかない。絶対絶命とはこのことか。タフィ3の護衛空母群は約100機の攻撃機を飛ばす。攻撃機は米軍占領下のタクロバン飛行場に着陸して、燃料を積みほとんど効果の無い陸上爆弾を積んで栗田を攻撃した。中には何度も攻撃を繰り返し、爆弾が無くして模擬攻撃をしかけた機もあった。機銃掃射も行った。それにしてもすでに飛行場まで占領されていたのか。レイテ突入は2日遅かった。
 大和の46サンチ砲が狙いを定める。この日の為に訓練を重ねてきたのだ。目標、敵空母、撃て!初弾命中。しかし何故か炎が上がらない。大和の巨弾は護衛空母のペラペラの甲板を突き抜け、船体を通り抜け船底に大穴を開けて海底に沈んだ。抵抗が無い為、徹甲弾の信管が反応せず爆発しなかったのだ。タフィ3は東へ逃走する。このピンチに際して米軍は実に勇敢に立ち向かってきた。
 タフィ3は前方に運よくあったスコールに逃げ込み、その間に米駆逐艦は煙幕を張り空母を隠す。栗田艦隊は、スコールと煙幕の隙間から現れる空母を砲撃するが中々当らない。艦隊は速力の出せない損傷艦が多く、また度重なる米駆逐艦の魚雷攻撃を回避する内に、陣形がバラバラになっていった。しつこく攻撃をかけてくる敵機がうるさい。栗田は西村艦隊に残存艦がいないか電信を打つが、返事は来ない。その時西村艦隊は時雨を除き、全艦が海底に横たわっていた。
その間も煙幕の中から米駆逐艦が現れては魚雷と砲火で反撃する。駆逐艦の執拗な魚雷攻撃はついに熊野を捉え命中、艦首が切断した熊野は速力14ノットに低下して隊列から落伍した。熊野に代わって先頭に出た鈴谷も空襲により損傷、落伍する。米駆逐艦は戦艦・巡洋艦の砲撃を受けて次々に損傷するが、その抵抗を止めない。見事な闘志を見せる。全ての米駆逐艦艦長がこのように勇敢であったとは限らないが、米軍はこの海域に140隻以上の駆逐艦を持っている。栗田艦隊の巡洋艦が、3隻の空母に魚雷攻撃を掛けるべく射点に入るが、またも米駆逐艦が身を呈して間に入り煙幕を張る。
前方では空母が傾斜炎上している。大和は観測機をカタパルトから射出する。8:10、榛名は左艦首方向に別の空母部隊を発見する。護衛空母群、タフィ2だ。再び米駆逐艦が艦隊と護衛空母群の間に立ちはだかり、我が身を犠牲にして立ち向かってくる。ほとんどの駆逐艦が魚雷を撃ち尽くしていたので、砲撃で向かってくるが勝ち目はない。日本軍の集中砲火を浴び、2艦が沈没する。護衛空母ガンビア・ベイも沈んだ。戦闘の最初から勇戦してきた米駆逐艦ジョンストンもついに沈んだ。栗田はバラバラになった艦隊に集結をかける。広い海域に散らばって空母群を攻撃したため、突出した鳥海は金剛の誤射を受けてしまい、舵故障状態に陥った。しかし重巡部隊と金剛・榛名はしつこい駆逐艦を沈め、空母群を捕捉しかけてた。あと少しでタフィ3を全滅するところだったのは惜しい。
空襲は激しくなり、艦隊用の爆弾や雷撃も行われるようになった。栗田は空母(実は護衛空母)を追撃してもいたずらに燃料を消費するだけだと考えた。速力28ノットの大和では追い付けないし、高速走行は燃料をたちまち消費する。艦隊を整えた栗田は、レイテ湾への進撃を開始する。栗田長官がレイテ湾進撃を再開したことは、第一戦隊司令宇垣には意外であったようだ。
この2時間の攻撃で栗田艦隊が沈めた敵艦は、護衛空母1、駆逐艦2、護衛駆逐艦1で、護衛空母4隻に損傷を与えていたが、内2隻は軽い損傷に留まった。しかし栗田は空母3、重巡1、駆逐艦4撃沈、撃破が空母2、巡1、駆1と誤認している。スコールと煙幕で見誤ったのか。他に西村艦隊の戦果(?)を撃沈空母3、巡3、駆4、撃破空母2、巡or駆2-3と判断した。いったいどこから来た情報なのか。また小沢艦隊も空母1撃沈、1撃破の戦果が上がったとしている。大本営や連合艦隊はこの戦果の報告を受けて湧きたった。戦後になるまで、誰も実際の貧弱な戦果に気が付かなかった。
レイテ湾に向かって進む栗田艦隊は、大和の見張り員から「北東方面に数本のマスト」という報告が入る。また11時前に栗田艦隊の北100km地点(ヤキ1カ)に敵機動部隊がいるという電文が届いた。今度は東方に5本のマストを発見する。宇垣は西村部隊の生き残りではないかと考え、近づくことを提案するが栗田はそれを拒否して直進する。
12:07、敵機50機襲来、空襲は40分続き利根損傷。13:22、本日9度目の対空戦闘。ここで栗田長官は参謀の進言を受け、(ヤキ1カ)の敵部隊を攻撃すべく反転する。所謂『栗田ターン』だ。「レイテ突入を止め、敵機動部隊を求め決戦。」反転を通達する。連合艦隊は栗田の反転の報告に対し、断固突入を指示することなく簡単に容認している。作戦の目的はいったい何だったんだ。小沢や西村の犠牲はどうなる。
(ヤキ1カ)に機動部隊はいなかった。この情報は、栗田艦隊を敵部隊と間違えた味方偵察機によるもののようだが、不明な点が多い。しかし艦隊は決断の時に来ていたのは間違いない。空襲は激しさを増している。このままレイテ湾に進めば、全艦燃料は尽きる。栗田がどこまで把握していたかは不明だが、レイテ湾上陸地点と80隻の輸送船団に進めば、オルデンドルフの戦艦部隊とぶつかる。西村艦隊をスリガオ海に沈めた、戦艦だけで6隻の大部隊だ。
彼らは昨夜砲弾を使い過ぎて、何隻かの戦艦では砲弾、特に徹甲弾が不足していた。27隻もの駆逐艦も、海戦で大半の魚雷を撃ち尽くした艦が少なからずいる。これでは海戦が長引けば不利になる。もっとも海上で、弾薬補給艦から砲弾の補給を受けた艦もいた。
  傷だらけの栗田艦隊よりは、よほどフレッシュな状態だ。隻数で圧倒的に不利な栗田艦隊の頼みの綱は、大和の46サンチ砲だが、ここまで3日間、24-5日の夜間を除き、不眠不休で戦い続けた乗組員に正確な砲撃が期待出来ただろうか。彼らは対艦戦闘と同時に対空戦闘を不断に行っている。戦艦同士の古典的な撃ち合いになれば、相撃ちになってお互いに数隻が沈み、事実上栗田艦隊は目的地を目前にして壊滅していたかもしれない。その時になって残存艦が戻ろうとしても、ハルゼーの第34戦艦部隊が戦場に姿を見せ、第38機動部隊の艦載機が空を覆うだろう。燃料も切れる。
 とはいえ米軍にとっては、この時最大のピンチを迎えていたことは事実だ。モンスター戦艦と大部隊が内懐まで入り込んでいたのだ。してやられた。後は第七艦隊(砲弾不足のオルデンドルフの旧式戦艦部隊)に運命を託すしかない。それだけにこの反転が信じられない幸運に思えた。すでに空荷とはいえ80隻の輸送船を打ちとられたら、その打撃は簡単には埋まらない。米軍にしたら、栗田が勝っているのに何故退却するのか分からない。あと2時間半だった。
 栗田が反転を決断した時、艦隊の参謀や幹部士官で反対をした者はいない。戦後栗田は多くを語らなかったので、反転の決断時の真相は不明だ。この時栗田は燃料が無くなることを覚悟の上で、泊地に乗り上げる決意で全艦突撃するか、戦艦から補助艦に燃料を移し、戦艦だけで(大和・長門・金剛・榛名)突入する手があった。重巡隊は砲弾をほとんど撃ち尽くしていた。しかし引き続いて空襲を受ける中では、燃料の移譲は危険きわまりない状態だったろう。
それでも乾坤一擲、気分を一新して『全艦突撃セヨ!目標敵輸送船団!』と言って欲しかった。ここで生き残った艦は、大和の沖縄特攻を除き活躍の場は残っていなかった。輸送船団を撃ち沈めた後は、海岸の米軍橋頭保、米軍が占領した飛行場を艦砲射撃で火の海にする。奮い立った陸軍の逆襲と米上陸部隊のショックにつけ込みマッカーサーを捕虜にし、米軍を海に追いおとす。その可能性は低いがありえた。ここで勝負を賭けなければ、永遠にチャンスは巡ってこない。フィリピンを失い、次は台湾か沖縄か。
しかし栗田の反転により、1944年以降唯一の勝機は去った。退避する栗田艦隊の上空を日本軍基地航空隊の攻撃機60機が通過する。今作戦で始めて見る友軍編隊だ。艦隊将兵の生気が蘇った。栗田は予定していた北方の敵艦隊とは遭遇せず、反復する空襲によって更なる被害艦を出しつつ、サンベルナルジノ海峡を通過してブルネイを目指す。急追してきたハルゼー艦隊とは、3時間の差で際どくすれ違った。
21日から3度出撃しては戻っていた初の神風特別攻撃隊は25日、ついにレイテ湾の南に護衛空母群(タフィ1)を発見し、これに突入した。関行男大尉率いる零戦5機から成る「敷島隊」は護衛空母セント・ローに命中しこれを撃沈、他の特攻隊と併せて護衛空母3隻を撃破、正規空母一隻を少破した。29日には空母フランクリンと軽空母ベロー・ウッドを大破した。しかしこれらの攻撃は遅過ぎて栗田艦隊の掩護にはならなかった。米軍には衝撃を与えたが。
栗田艦隊の残存艦がブルネイに到着した際、どの艦の燃料庫もほとんどが空になっていた。ここまで戦況を詳細に見てくると、今までの定説、栗田中将が臆病で優柔不断のため、勝利の一歩手前で不可解な退却をした、というのが妥当ではない事が分かってきた。あの反転を批判出来る人物がいるとしたら、レイテ戦で沈んでいった武蔵や空母部隊の乗組員達と、過大戦果に惑わされてレイテ決戦を強いられ、無駄に戦力をすり潰した陸兵か。
台湾沖航空戦に続いてこのレイテ海戦においても、幻の過大戦果に乗って陸軍は貴重な戦力を次々とレイテ島に送り込んだ。人員だけはかろうじて泳いで助かっても、貴重な重火器・弾薬の大半を海に沈めてしまった。レイテ戦後、日本はひたすらに負け続け、大都市はB29の爆撃によって灰にされた。広島と長崎に原爆を落とされ、ソ連の参戦によって止めを刺された。なおブルネイからの帰路、歴戦の巡洋戦艦、金剛が潜水艦の雷撃によって沈んだのが痛ましい。
実際の戦果が分からなかった当時は、栗田への評価は悪いものでは無かったが、神大佐は「戦意の不足」と切り捨てた。昭和天皇も「海軍は無謀にも艦隊を出し、非科学的に戦をした。」とやけに冷たい。戦争に嫌気が差していたのか。この捷一号作戦を評価した数少ない人物は、意外にもマッカーサーだった。彼は作戦の着想の巧みさを認め、米艦隊の奮戦に対する感謝の言葉を述べた。