goo blog サービス終了のお知らせ 

旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

万博の想い出

2017年03月11日 19時27分18秒 | エッセイ
万博の想い出

 1970年の万国博覧会は、1964年の東京オリンピックと並んで、日本にとっては大変なビッグイベントだったんだろう。だが自分はオリンピックの時には8歳、万博は14歳だったから実感はない。子供は以前を知らないから比較はしないし出来ない。昔と比べれば-----は、子供にはないのだ。
 東京オリンピックで、実際に競技を見に行った記憶はない。もしかすると近くの三ツ沢競技場で、他国同士のサッカーの試合を見たのかもしれない。親父がそんな事を言っていた記憶があるが、覚えていない。開会式、重量挙げの三宅兄弟、東洋の魔女と回転レシーブ、男子体操、チャフラフスカ、ヘーシング、そして最後はアベベ。
 日本中が白黒TVで熱狂していたが、記憶はその当時のものなのか、後から再入力されたのかが分からない。むしろ大量に発行された三角形のオリンピック記念切手とオリンピックコイン。百円、千円期記念銀貨を並んで交換したとかの話題の方が身近だった。後日大学生の時に、千円記念コインを新橋のチケット・コインセンターで買い取ってもらったら、4,500円になった。
 万博は中学生だから覚えている。コンニチワー、コンニチハー、世界の~国から~、千、九百♂七十年の~コンニチワ~。万博はオリンピックと違って開催期間が長い。大会の目玉はアポロ計画により持ち帰った月の石。世界最大のダイヤモンドとかならともかく、石ころかよ。まあ月の石の他にもアメリカ館は充実していたのだろうが。とても中には入れない。
 行列は4時間待ち5時間待ちで、それだけで日が暮れる。とにかく並んでとにかく疲れる万博だったな。子供の頃から人混みは嫌いだったんだ。それにしても親は大変。子供達に一大イベントを体験させたくて、無理をしたんじゃないかな。本人達が行きたかったとは思えない。
 その万博会場での記憶は、二つしか残っていない。まず世界の料理を出すレストランが軒を連ねていたから、どこかの国のレストランに入ったはずだが、これは覚えていない。レストランも混んでいたから、メジャーではない国の店に入ったんじゃないかな。しょせんイベント会場やテーマパークの食事は、値段の割に味気ないことが多い。
 さて万博の記憶の一つは、ジグザグに並んでいた行列の間をショートカットして強引に割り込んだオッサンがいたことだ。それで30分は早くなるだろうが、イライラして立っている数百人の目の前だ。「何やってんのよ」「そんな奴、つまみ出しちまいな」列の中から鋭く上がった中年女性の非難の声なら、今でもよく覚えている。しかしその小ずるいオッサンは、周囲の非難の視線を全身に浴びても列に留まった。
 我々家族は、たぶん一泊二日の日程で、超人気館は避けていくつかの館に入り、屋外のイベントなんかを見たのだろう。しかし記憶に残っているのはたった一つ。たしか三菱何とか館だった。館内に行列で入り、歩いてゆく通路の360度が映像で囲まれていた。大瀑布の真っただ中、次にオレンジ色の溶岩が噴出する映像の中を歩いた。大音響と前後左右上下を覆うスクリーンの迫力は、凄まじくて足が竦んだ。
 その体験が、その後の人生に何かをもたらした訳ではないが、何か一つでも記憶に残っているのなら、親の苦労もあながち無駄ではなかったのかも。こん時の話を聞こうにも、もう親とは話せない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四不像

2017年03月10日 19時26分18秒 | エッセイ
四不像

 鹿の角を持つが、鹿ではない。馬の顔を持つが、馬ではない。牛の蹄を持つが、牛ではない。ロバの体と尾を持つが、ロバではない。四不像(シフゾウ)は、明代の小説『封神演義』では、道士・姜子牙が乗る神獣だ。元々は中国北部~中央部の沼地に、一頭のオスを中心にしてメス・子供からなる群れを作って生息していたが、野生種は千年も前に絶えている。
 それなのに種が途絶えずに続いてきたのは、北京の南苑という皇帝の狩場で営々と飼育されてきたためだ。シフゾウは皇帝の保護で、一般民衆の目に触れることなく世代交代を千年も重ねてきた。偶蹄目シカ科シフゾウ属に分類される。シフゾウ属にはシフゾウしかいない。体長約220cm、尾長約66cm、成獣の体重は150~200kgとかなり大きい。
 草や葉を食べ、一回に1~2頭の子を生み、14ヶ月ほどで成獣となる。寿命は23年ほどで、メスはオスの半分ほどの大きさだ。1865年にフランス人神父A.ダヴィッドがヨーロッパに始めて紹介したため、学術名にDavidの名が入っている。しかし1895年に洪水が南苑を襲い、また1900年の義和団の乱により、飼育下にあった一頭のメスを除いて南苑のシフゾウは全滅した。食糧として住民や義和団の連中が食ってしまった。結構美味い、とかのコメントは残っていない。こうして中国からシフゾウはその姿を消した。
 ヨーロッパの動物園で飼育されていた個体も、第一次世界大戦中に全て死に絶えた。シフゾウの繁殖は、群れでないとうまくいかないようだ。ところが驚いた。多摩動物公園に6頭(オスx1,メスx5)のシフゾウがいるという。写真もたくさんネットに出ている。へー、多摩動物公園なら電車に乗って2時間とはかからないじゃん。ってか絶滅したんじゃないの。写真を見ると、角度によるがなるほど馬の顔だ。馬に鹿の角が生えていたら変だろ。ところでオスもメスも角を持つ鹿はトナカイだけだと思っていたら、シフゾウのメスには小さな角が生えている。
 日本では他に、広島市安佐動物公園と熊本動植物園にシフゾウがいるそうだ。在日シフゾウは全部で14頭(2009年、オスx5,メスx9)らしい。実はイギリスの大地主・ベッドフォード公爵が、ヨーロッパの動物園で余ったシフゾウ18頭を買い取り、自分の荘園で飼育していたのだ。えらいぞベッドフォード!1920年当時、50頭ほどが生き延びていた。1946年には繁殖を重ね、個体数は200頭ほどまで増えていた。
 この子孫たちが順調に増え、1985年には元の生息地である南苑にも放たれた。今世界中の動物園で見られるシフゾウは、全てベッドフォード公爵の50頭から始まる子孫なのだ。意外と飼育しやすいのかな。ではシフゾウが日本に来たのは最近の事なのか?実は1888年に上野動物園にペアで寄贈されている。しかし10年程経って死に、その子供も成獣にはなったが明治の内に死亡した。一匹では繁殖出来ない。ちなみに上野動物園の開園は1882年だ。
 寄贈と書いたが、実際は強奪だった。清朝政府がロンドンの動物園に5頭のシフゾウを贈った事を知った全権大使、榎本武揚が日本にも譲り渡すように清朝政府を恫喝するが、清朝はこれを拒否する。すると当時の首相、伊藤博文が天津条約の交渉の席で、李鴻章大臣に直談判した。そんな嫌な経緯で日本に来ていたのだ。中国自らが、ジャイアントパンダのように外交に使うのは「どうぞご勝手に」だが、これはイカンな。中国人の面子を真っ向から踏みにじるやり口だ。そもそも珍獣を政治の世界で使って欲しくはないな。
 そう言えばドイツ第三帝国の元帥ゲーリングは、ヨーロッパ野牛オーロックスの復活を試みて失敗している。オーロックスは17世紀に絶滅した体重1トンもある巨牛だ。現在のコブ牛等の家畜牛の先祖なので、大きくて特徴が野牛と似た牛を交配させて、先祖返りを図ったのだ。
 ナチスドイツはオカルト趣味満載だ。占星術、古城でのイニシエーション、聖杯・ロンギヌスの槍探索、民族のルーツを探ってチベットへ探検隊を送る等の奇妙な行動が目立つ。オーロックスの復元はその中の一つだったが、失敗した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快心のユーモア3発

2017年03月09日 19時25分06秒 | エッセイ
快心のユーモア3発

 小学校高学年の国語の時間、どういういきさつか次の各言を教わった。「暑さ寒さも彼岸まで」で、その日の休み時間にクラスの女の子とおしゃべりをしていた。若者一歩手前のガキ共の話題は、誰が誰を好き、誰が誰に振られた。女の子は成長が早くて、同年輩の男子より精神的に2歳は年上だ。
 「そんでね、あの子ひがんじゃったの」その時話しをしていた子は、中々頭の良い娘だった。俺は言った。「熱さ寒さはヒガンあと」キャー、それが彼女に大受けだった。あんまりにも喜んでくれたから、今でも覚えている。

 男子校の高校生じゃあ頭の中は、女の体のことで一杯だ。若い古典の教師が結婚することになり、新婚かよ、どう冷やかすべーとクラスで相談した。何を贈る?どうギャフンと言わせる電報の文にする?そんなのクラス全員で考えるのはアホらしい。ウーン、ウーン煮詰まってきた所で、俺が発言した。こんなのはどうよ。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
 この一文を入れつつ何だか冗漫な電報を送ったようだが、当の古典教師には受けた。あの各言には、そのような深い意味があったとは、恐れ入り。

 欧州出張でスイスに来た。ディスク・ブレーキの再生をしている会社で、日本車のパーツをよく買ってくれる。再生品は、外してきた油だらけの中古品と再生品を交換して金を受け取る。リサイクルが回転する迄は新品を供給するので、しばらくは赤字になっても仕方がない。年式が古くなって市場に車が出回れば充分回収できる。
 だいたい自分は途上国専門だぜ。下手な英語も、アジアや中南米では臆せず使うが、欧州人が相手だとちと気が重い。まあスイス人だからネイティブではないのだが。でもその社長は気さくな人だった。作業服を着て、町工場の親父さんだった。工場を見せてもらった。広いが清潔とは言えない。スーツにオイルが付かないよう気をつけて歩いていると、油落としのでっかい水槽があった。ギトギトした溶剤が縁近くまでたっぷんたっぷんに入っている。
 すると社長が言った。“Do you swin?泳いでみる?”へっ、何て返そうか。ちょっと間を置き、“No thanks. Because I forget my swimming punts. 止めときます。海水パンツを忘れてきましたので。”一瞬間を置き、ガハハ。その答えがえらく気に行ったのか、その後直接会うことは無かったが、ずっと好意を示してくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティムール

2017年03月06日 17時11分31秒 | エッセイ
ティムール

 ティムールとティムール帝国を知っていますか?ティムールは14世紀に中央アジアに現れた人物で、一代にしてモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した英雄だ。15世紀のヨーロッパはルネサンスから近代への移行期だったが、人々はティムールに魅了され、また彼の残虐さを恐れた。
 ティムールは、ヨーロッパがその圧力にタジタジになっていたオスマン・トルコ帝国を1402年のアンカラの戦いで破り、皇帝とその息子を捕虜にした。ヨーロッパには東の果てにキリスト教国があって、プレスター・ジョンという名の王が国を治めている、という伝説があり十字軍の時代に流行った。その王国はモンゴル帝国に占領されている、とかエチオピア王がプレスター・ジョンだとか、法王を含めて本気で探索し、モンゴル帝国にまでプレスター・ジョンの消息を尋ねる使者を送っている。たしかに本流から追放されたキリスト教ネストリウス派は東に行き、唐の長安の都に教会を建てているが、政治的な勢力にはなっていない。
 では宿敵オスマン帝国を背後からの一刺しで破ったティムールは、キリスト教の味方か?とんでもない。彼はイスラム教スンナ(スンニ)派で、当たり前だがヨーロッパ諸国の思惑など知ったことではない。
 ティムールは1336年に生まれ、1405年に満68歳で病没した。彼はモンゴル系でテュルク(トルコ)系、サマルカンド南部の村の貧乏貴族の子として生まれた。若年期に乗馬と弓術を学び、ペルシャ語とテュルク語に加えモンゴル語を話すことが出来た。ティムールの人望と能力に惹かれて、様々な出自の人間が彼の周りに集まり始めた。ティムールは彼らを連れて強盗団を結成してキャラバンを襲った。当時はモンゴル帝国の後継国も統制が緩んでいて、各地に貴族や有力者が割拠していたのだ。戦利品を気前よく分け与えるティムールに部下は心を寄せ、しだいに増えて300人に達した。
 やがてティムールは西チャガタイ・ハン国の有力者に見出され、側近に登用された。そこから34歳(1370年)、彼自身の帝国を作る迄の間、熾烈な内部抗争に明け暮れる。自らの槍で敵の領主を討ち取り、戦いに敗れて捕虜になり、激戦で右手と右足に矢傷を負う。義兄との協力、やがて決別して滅ぼす。義兄の2人の息子を火刑に処し、妻のうち4人を自分の物として残りは配下の部族長に分配した。義兄の妻4人の内に1人がチャガタイ・ハン・カザンの娘だったので、チンギス家の娘を娶ったことになったティムールは、「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗りサマルカンドを首都に定めた。
 ティムールのここまでの経歴は、モンゴル帝国の始祖チンギス汗とよく似ている。しかしティムールは生涯先頭に立って戦い続けた。ティムールはサマルカンドとブハラを中心とするマー・ワラー・アンナフルを統一した後、遠征に次ぐ遠征によって帝国を拡張し続けた。その遠征を年代順に追って見ると、以下の通りだ。山族・盗賊討伐は除く。

①モグーリスタン、ホラズムへの遠征
 次々に現れる敵を破り、反乱に苦しみ、友に裏切られ、取り立ててハンにした男に背かれる。息子の妻に王女を迎える。ライバルに一騎打ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立つが、ライバルは怯み家臣に蔑視されて没落する。4人の中で特に目をかけていた息子が早世する。

②ペルシャへの遠征
 ティムールは定住文化が定着したペルシャの都市に対して遠征を行い、カンダハルを征服しアフガニスタン全域がティムールの支配下に入る。

③ 三年戦役 – 西アジアへの遠征
 ティムールはジャライル朝が支配するアゼルバイジャンを支配下に加え、グルジア王国を攻撃するが頑強な抵抗に遭い攻略には至らなかった。次いでシリア東部に進出すると、中東各地の地方政権の君主と領主はエジプトのマムルーク朝に助けを求めた。マムルーク軍がシリアに派遣されたが、直接戦闘を交えることは無かった。次にティムールはアルメニアを征服し、キリスト教徒の要塞守備兵を断崖から突き落とした。ムザッファル朝の首都シーラーズを掠奪。エスファハーンの住民がティムールの兵士と徴税人を殺害。その見せしめとして7万人の首を集め、積み重ねて塔を建てた。

④トクタミシュとの戦い
北方の王族トクタミシュはティムールの元に亡命し、ティムールが兵と財貨と三都市を与えたが、後に背きティムールを最も苦しめる敵となった。トクタミシュが本拠地に侵入したため、ティムールは西アジアの遠征から中央アジアに帰還する。ティムールの王子はトクタミシュの猛攻を防ぎきれずに退却し、サマルカンドとブハラは包囲される。ティムールが救援に駆けつけるとトクタミシュは北方の草原に消えた。
スーフィー朝の君主スレイマンとティムールの姻族にあたる貴族が、トクタミシュの扇動により反乱を起こし、ティムールは最大の危機に陥る。苦しみながら反乱軍を各個撃破したティムールは、飢えと疲労の中トクタミシュに迫り、クンドゥズチャの戦いに勝ち痛手を与えた。

⑤ 五年戦役
 トクタミシュを破って間もなく、ティムールは西アジア遠征を再開する。ムザッファル朝への攻撃の中、シーラーズ近郊での交戦は混乱しティムールは敵将に肉薄されて頭を2度斬り付けられるが、危機に気付いた部下が駆け付け敵将を倒した。ジャライル朝のスルタンはエジプトに逃亡し、バクダードはティムールの支配下に入った。ティムール軍の一団がマムルーク朝(エジプト)の捕虜になり、関係は一層悪化する。マムルーク朝のスルタンはオスマン帝国、黒羊朝等に反ティムールの同盟を呼び掛けた。バクダードは、マムルーク朝と黒羊朝の支援を受けたジャライル朝のスルタンによって奪還された。ティムールはその時、グルジアとアゼルバイジャンでの反乱、トクタミシュ討伐の為に西へ向かえなかった。テレク河畔の戦いで、トクタミシュの兵士に囲まれたティムールは矢を撃ち尽くし、槍を折りながらも戦い続けトクタミシュを撃破した。さらにドン川を遡ってモスクワ大公国に侵入し、トクタミシュの本拠地サライを破壊した。
ティムールはサマルカンド郊外に宮殿と庭園を造営して、ヒズル・ホージャの娘を妃に迎えモグーリスタンと同盟を結んだ。モグーリスタンの統治に孫を派遣し中国遠征の準備を進めるが、インド遠征によって中国への軍事活動は中断された。

⑥ インド遠征
 アフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが、苦戦していたためティムールは親征を決意する。92,000人の兵士を動員し、3部隊に分けて進軍した。ティムールは盗賊団が立て籠る山城の攻略には苦戦するが、インドの領主たちとの戦いには勝ちデリーに入城する。会戦に先だって捕虜の反抗を危惧し、10万人のヒンドュー教徒の捕虜を殺す。また敵側の戦象に対する入念な方策を巡らし、騎兵の活躍によって戦象を壊滅した。
 デリー入城後、ティムール軍の兵士は城内で破壊、掠奪、殺戮を行った。ティムールは12万頭に及ぶ戦象と、儀礼用の象の行進を見て楽しみ、それらの象をサマルカンド、ヘラート、タブリーズなどに連れ帰った。ティムールはこの遠征によって10万人の兵士の給料に相当するほどの財宝を獲得したという。

⑦ 七年戦役
 アゼルバイジャンに派遣していた王子が、自身が後継者に指名されていないことを不服とし、老齢を理由にティムールに退位を勧め反乱を起こした。この反乱に対してティムール自ら鎮圧の指揮を執った。さらに敵対する動きを見せたグルジアを攻撃、インドから帰って休む間もなくエジプトに進行する。オスマン帝国のスルタン・バヤズィット1世は、ティムールとの戦闘に意欲を示したが、マムルーク朝とは領土問題があり対立していたため、マムルーク軍は単独でティムール軍を迎撃した。
 ティムール軍はアレッポを攻略してダマスカスに迫る。マムルークのスルタンは、ティムールの元に刺客を放つが暗殺は失敗した。両軍は野戦を行うが、双方損害を受け和平が提案される。マムルーク軍がエジプトで起きた反乱を鎮圧するために撤退すると、ティムールは計略によってダマスカスを占領、お決まりの掠奪、破壊を行った後退去した。大規模に破壊されたダマスカスは飢餓と疫病に襲われ、ティムールの名は市民に忌み嫌われた。その後バクダッドを再占領したティムールは、大規模な虐殺を行って死者の首を積んだ120の塔を作った。

⑧ オスマン帝国との対決
 詳細は省くが、ティムールとオスマン帝国の間には、黒羊朝等を含めて以前からの因縁があった。ティムールはオスマン帝国との戦いに先だって、イスラム教徒の支持を取り付けるため、バヤズィットを誹謗する流言を流しエルズルムを攻略した。アンカラの戦いでティムールは勝利し、バヤズィットとその息子を捕虜にした。この時アンカラに滞在していたカスティーリャ王国の使者は、ティムールの勝利を祝福した。マムルーク朝からも勝利を祝福する使者が送られた。
 ティムールがバヤズィットを檻の中に閉じ込めて侮辱したという伝説があるが、実際には丁重に扱っている。バヤズィットは拘留中に没した。ティムールはアナトリアを直接統治する意思はなく、旧領主に領土を返還して復興させた。聖ヨハネ騎士団が領有していたスミルナ(現イズミル)を占領し、之を持って七年戦役は終結した。
 騎士団への攻撃にも係わらず、カスティーリャ王エンリケ3世、イングランド王ヘンリー4世、フランス王シャルル6世、東ローマ帝国皇帝マヌエル2世らはティムールに親書を送った。マヌエル2世はさぞほっとしたことだろう。アンカラの戦いによってコンスタンチノープルの陥落は、半世紀先延ばしになったのだ。

⑨ 最期
 ティムールが後継者と考えていた孫が夭逝する。彼は子孫には恵まれない。ティムールは明朝の中国への遠征計画を再開する。この遠征は、異教徒に対する「聖戦」とされた。ティムールがサマルカンドを出発して、東方遠征に向かう進軍中に、和解を求めるトクタミシュからの使者が現れる。ティムールは寛大な態度でトクタミシュに援助を約束した。
 400km離れたオトラルに着くと、ティムールは病の床につきそのまま病没した。ティムールの死後、王族たちは遺言に背いて王位を主張する。ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置され、現在もそこに眠っている。

 1941年にソビエト連邦の調査隊によって、グーリ・アミール廟に眠るティムールの遺体が調査された。スターリンが何故この年に調査を許可したのかは分からないが、とにかく棺は開けられた。ティムールは身長170cm、赤色の髭を生やし手、肘、膝の3ヶ所に矢傷を負っていた。ティムールの代名詞は「びっこのティムール」だ。怪我は盗賊をやっていた若い頃に負ったそうだ。確かに負傷の後遺症で右足に障害が残ったことが、調査によって確認された。しかし脚は不自由でも馬は自在に乗りこなしたそうだ。調査隊はティムールの顔を、モンゴロイドをベースにしてコーカソイドの特徴をいくらか加えた容姿として復顔している。
 なおティムールの棺には、「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」と刻まれていた。さらに棺の内側にも、「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という一文が書かれていた。調査開始の翌々日、ナチスドイツが不可侵条約を破棄して突如ソ連に侵入した。数千万人という未曽有の死者を出したバルバロッサ作戦の発動だ。調査が終わるとティムールの遺体は、イスラム教式の葬礼で再埋葬された。スターリングラードでソ連軍が反撃を始める直前であった。
 ティムールの五代前の先祖はカラチャル・ノヤンというモンゴル人で、13世紀の初頭にチャガタイ・ハーンと共にモンゴリアから中央アジアにやってきた。チャガタイの補佐役をしていた有力者だったが、ティムールの世代ではすっかり没落していた。ティムールは正式なモンゴル貴族の末裔であるが、その頃にはすっかり混血していて、外見はトルコ人に近かったはずだ。
 彼は冗談や嘘は好まず、文字は書けないが読み上げさせた文を全て暗記する優秀な記憶力があった。音楽とチェスと絵画を好み大酒飲みだから、模範的なイスラム教徒とは言えない。伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信仰する人に、改宗を強制しなかった。またイスラム教の神秘主義スーフィズムに強い関心を抱いていた。
 また歴史書を好み医学・天文学・数学の価値を評価し、建築に関心を示した。学者や芸術家、職人に対して尊敬の念を持った。マムルーク朝の使者に随行していた歴史家イブン・ハルドューンに会うと、35日間自分の天幕に滞在させ歓待した。ティムールは都に定めたサマルカンドに強い愛着を持っていて、多くの施設を建築した。灌漑水路を整備しバザールとキャラバンサライの建設、道路の修繕を行ったため、サマルカンドは東西交易の一大中継地へと発展した。
 征服地からは学者、芸術家、職工を連行し、住まいを与え資金を貸し付けた。さらにイラン、シリア、中国から呼び寄せた職人も加わってサマルカンドの手工業は発展する。逆に人材が流出したダマスカスは衰退していった。

 帝国の後継者の問題は難しい。家康はうまく対処したので、260年も政権が続いた。ティムールは征服した地方に息子たちを知事として遣わし、支配を委ねたので、各地に分封されて力を蓄えてきた王子たちの間で、後継者を巡る争いが起こった。ティムールの遺言は守られずに帝国は分断し、反乱や侵入が頻発する時代となる。ティムール朝はやがてサマルカンド政権とヘラート政権の分立の時代に入る。
 その結果帝国の軍事力は衰えたが、サマルカンドを始め各都市では盛んな通商活動に支えられて、学問・芸術が花開いた。ティムールの孫ウルグ・ベグは、自身が数学・医学・天文学に通じた学者だった。彼がサマルカンド郊外に建設した天文台では、当時世界最高水準の天文表が作られた。また優れた宗教・教育施設が建設された。
 ヘラートの宮廷では細密画(ミニアチュール)の技術が移植され、テュルク語にペルシャ語を加えて洗練した「チャガタイ語」によって文芸、詩作が盛んになり修史事業も行われた。これらの高い文化の影響は、周辺国のみならず当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化にも、大きな影響を与えた。ティムール帝国で形成され花開いた文化をトルコ・イスラム文化という。
 文化は爛熟し、帝国はやがてより勇猛な田舎者(野蛮人)に食われる。16世紀の初めには、中央アジアにおけるティムール朝の政権は消滅する。しかしティムールから六代目の子孫バーブルは、アフガニスタンのカーブルを本拠地としてデリーのローディー朝を破り、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てる。1526年のことだ。何故かバーブルはシーア派に改宗していたので、ムガル帝国はイスラム教シーア派の帝国として、イギリスに植民地とされる迄の北インドに君臨する。

 さてティムール最後の中国遠征が行われていたら、歴史はどうなっていたかな。元を滅ぼしモンゴル族を北辺に追いやった明の太祖・洪武帝(朱元璋)は、ティムールとほぼ同年代の人だ。ティムールにとっては、中国遠征はモンゴルの復讐戦だ。ティムールが後一年生きていて、遠征が行われていたなら、内乱を収めた直後の永楽帝との戦いになった。永楽帝はイスラム教徒の宦官で武将、鄭和を海の大遠征に何度も派遣している。その鄭和が1415年、1422年、1431年と3度に渡ってティムール朝のホルムズを訪れている。永楽帝の意向だったのか、メッカ巡礼の途中だったのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする