旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

西表島、鳩間島 - 続

2024年08月14日 09時50分14秒 | 旅日記
西表島、鳩間島 - 続

 西表島の上原港と石垣島を結ぶフェリーは、午前と午後の2便ある。ところが、鳩間島に立ち寄るのは、1便のみ。午前船で帰ろうと思っていたら、午後船しかないことを前日知った。
 ガビーン。タバコが切れた。大原に予約していたのに、宿に行けない。最終バスに間に合わない。何とか上原に近くで宿を取った。朝食付きで6,500円。大原の宿はキャンセルを受けてくれたが、ネット予約はキャンセル処理が分かりにくく苦労した。
 ところが、この宿が良かったのよ。断崖の上にあって見晴らしがよい。朝日も夕日も海の上。灯が崖の下なので、夜空が360度の大パノラマだった。外のベンチに寝転がって、30分は夜空を見ていた。天の川は、雲のようでそれほど美しくはない。これで、流星雨の日だったら、とんでもない天空大パノラマだった。


年を取って、もう人は乗せない。





 大原に戻って、しまおとや。ここに来るとホっとする。西表島北部の浦内川には、滝がいくつかある。鳩間島の食堂から、双眼鏡で見えるのもある。ああ、今日は水量が少ないね。
 冷たい滝の水を浴びたら、気持ちいいだろうな。でも少ないバス、川を遡る観光船、リュックを抱えては大変だ。今回は諦めよう。島の人は、台風の話題で持ちきりだ。天気図を見ると、まだ発生もしていないのに。でもこれは結局大型台風3号となって、八重山諸島を直撃した。

* マングローブツアー

 マングローブを行く、仲間川1時間の船旅に参加した。たしか2,500円。個人客は自分一人で、観光バスが丸ごと一台分の客を連れてきた。ここは、貸しカヌーもやっているが、やらなくて良かった。上流まで遠いし、先は行きどまりだった。
 お姉さんの解説つきで、なかなか面白かった。デカいシジミは、身は10分の1ほどしかなく、1週間は泥抜きが必要。今では食べる人はいない。上流には、猪狩り用のワナを仕掛ける場所がいくつかある。


















* 地元のおっちゃんと行くナイトツアー

 最初にしまおとやに泊った晩に、スペイン人の家族が参加していた。言葉はどうするんだろう。宿の女の子が、ツアーに参加して写真を見せてくれた。ハブに2回遭遇し、ヤシガニも見たそうだ。なんだか面白そうだ。
 申し込むと、夜20時に迎えに来てくれた。車の中は2家族で満員だ。長靴を貸してくれる。4,000円、2時間だった。車で草の茂った小道に入る。このおっちゃん、目が良い。さっそく木登りトカゲを見つけた。








この花の名は、碁盤の脚。実がその形。サガリバナと同じく夜咲き、朝落ちる




ヤシガキだ。これほど大きいのは珍しく、約1.5kg、推定100歳。大正生まれ。
絶滅危惧種で今は食べないが、身はハサミの部分だけ。インドネシアでは、長老しか食べないそうだ。
浜は、台湾語やハングルのビンが散乱していたが、台風が来ると一掃される。

 あとフクロウを見た。ウリンボ(猪の子供)が横切ったと言っていたが、見損なった。ホタルの幼虫が光っていた。ヤシガキの迫力には恐れ入りました。ヤシガニは、見られる確率は50%だそうだ。この日は3匹見た。小型のヤシガニは、ボスを見ると逃げてゆく。
 そして、ここが島で一番大きなお墓だよ。玉盛家、知らねーよ。でもどこかで聞き覚えがある。そうか、玉盛スーパーだ。その後、このツアーのクライマックスが訪れた。
 おっちゃんが車を停めて、シー!あれ、ヤマネコの鳴き声か。違ったか。車をゆっくり走らせると、突然獣が車の前を横切った。あっヤマネコの子だ!おっちゃんが一番興奮していた。カメラ、カメラと叫ぶが、一瞬で草の中に飛び込んだ。見たのは1.5秒。でも確かに見た。速かった。あれはネコだ。
 おっちゃんは毎晩ガイドをやっているが、今年に入って2度目だそうだ。今まで写真を撮った人はいないそうだ。イリオモテヤマネコが確認される前、おっちゃんの父親は、山に猫がいる、と言っていたそうだ。
 島の人もほとんど見ていない。夜は出歩かないし。ずいぶんとレアなものを見せてもらい、大満足なナイトツアーでした。


ヤマネコの子が飛び込んだ藪。直ぐに写したが、この通り。

 後は、お終い。石垣島に戻り鳩間島の喫茶店のお姉さんと仲良くなって、紹介してもらったゲストハウスに入った。川平湾、竹富島、石垣島の北部に行く予定だったが、帰宅の便が台風の予定日だ。荷物を持って空港に行くと、何とかその日の夕方便に乗りこめた。ずいぶん高い追加料金を取られたけど。
 まあいい。また来よう。宮古島も良いな。

一泊千円。石垣島。


バス停

 震洋艇のことを話したが、陸軍では丸レという似たような特攻艇を作っていた。丸レは主にフィリピンに配置され、沖縄では慶良間諸島に基地を作った。
この種のモーターボートの特攻艇は、記録に残る限り米軍の小型輸送船や揚陸艇など、フィリピンで18隻、沖縄で4隻に損傷を与えている。
 しかし250kgの爆弾、機雷ではいかにも非力だ。1,55ton 93式酸素魚雷に乗り込む回天に比べれば、効果のほどはいかにも少ない。回天なら、駆逐艦など一撃で沈む。ただ、上陸用舟艇が沖合に並んだタイミングで出撃すれば、味方撃ちになるので、砲撃できず効果的だ。実際には、慶良間諸島の部隊も出撃前に破壊された。



西表島、鳩間島

2024年08月14日 09時18分05秒 | 旅日記
西表島、鳩間島

 八重山諸島の島旅。特にきっかけがあったわけではない。しいて言えば、沖縄が舞台のアニメ、『白い砂のアントワープ』を見たことか。ダンジョンだの異世界転生だのといった昨今のアニメ、に比べて、とてもオールドファッションな、女の子の友情物語に、それほどハマったわけではない。
 ただ、南の島の日差しにあこがれを持った。特に主人公が、水族館の仕事をほっぽりだして出奔する回。人の数より牛の方が多く、海亀の産卵する浜。小さな海亀水族館のある島に心惹かれた。この島は、黒島だ。ここは行きたい。

 安く行くにはフェリーかな。でも東京から沖縄に人を運ぶ船はない。大阪からのフェリーも、今はない。大阪→鹿児島、鹿児島→沖縄では、片道3万円はかかってしまう。一気に飛行機、LCL。調べてみると、ピーチ航空で、成田⇒石垣便が1万1千円代である。一日迷っていたら、1万2千円代になったので、直ぐに予約を入れた。帰りは1万3千円代で2週間後だ。7/11 成田⇒石垣、7/25 石垣⇒成田で申し込んだ。梅雨は、沖縄では明けているし、夏休みは始まる前だ。
 成田発は、不便で交通費がかかるが仕方がない。滞在日数が長い分、ゲストハウスに泊って宿代は安く抑えよう。石垣島に一泊し、翌日のフェリーで西表島の南側、大原港に行った。45分、2,060円だった。なんだ、こんなに近いんだ。与那国島はちと遠い。週に2便の高速船で4時間、3,610円かかる。今回は見送ろう。魅力はあるけど。それにこの島は空港があるから、観光客の8割は飛行機で来て、空港でレンタカーを借りるだろう。

 石垣の街は、繁華街と飲み屋街がにぎやかだが、何でも高い。本土にあるような、すきや、マクド、日高屋といった店がない。郊外にドンキはある。ツタヤは撤退すると新聞に出ていた。普通の値段のコーヒー店も見つけられなかった。観光客用のゴテゴテパフェ、750円とかサラダ付きサンドセット、千円(美味かったが)になってしまう。
 10時にゲストハウスをチェックアウトし、フェリー乗り場に行き、14時の西表行きを予約した。その先、西表島からどの島に行こうか。港近くの観光協会に行くと、「ここでは、石垣島の観光しか扱っていません。」「では、八重山諸島のことは、どこで聞けますか?」「竹富町役場で、お聞きください。近くですよ。」
 竹富町役場に行くと、観光課があった。小さな部屋には、綺麗なお姉さんが一人。「観光客が少なくて、のんびりゆっくりするには、どこがお勧めですか?」「はい、それなら鳩間島が良いと思います。私も行っていますが、人が少なくて良い所です。1時間あれば、歩いて島を一周出来ます。」即答だね。鳩間島なら西表から直接行けるな。これだよ。こういう情報が欲しかった。
 小浜島は割と起伏があって、自転車では移動に困難なので、レンタカーがお勧めだそうだ。黒島は特にお勧めではなかった。自分は、書くのに人のブログを読まない。特に日本の旅行では。波照間島は行きたかったが、一度石垣島に戻らないと行けない。買ったガイドブックには載っているのに、今年の4月にフェリ―便が無くなっていた。四国遍路の路線バスと一緒だ。昔はあったんだよ。
 波照間島は、海岸から直ぐそこに見える。シーカヤックなら行けるかな。そして宿が取れなかった。6月の屋久島の旅で、インターネットで予約が取れなくても、空いている宿はたくさんある。インターネットに載せている宿は 、3軒か4軒に一つだと知った。でも離島では、宿の絶対数が限りなく限られる。予約なしでいきなり行くのは、どうもね。西表→石垣→波照間。それで日帰りじゃあせわしない。つまらない。
 石垣のフェリー乗り場には、旅行会社がずらっと並んでいるが、個人客の宿の手配はしてくれない。でも、鳩間島の宿の電話が載っているページを写真撮影させてもらった。5-6軒ある。電話をしたが、どこも出ない。やっと一軒の民宿に繋がった。でもとんでもないことが分かった。鳩間島で、お祭りがある。豊年祭だという。その宿は、お祭りの準備で、約一週間は宿を閉めるそうだ。他もそうなんだろうな。

 鳩間島の宿探しは後回しにして、西表島の南側、大原港に向かった。綺麗な海だ。桟橋から見ると、小魚の群れが泳いでいる。するとそこに大きな魚が2匹突っ込んできた。おお、いるじゃん。.小魚だけじゃない。リュックに詰めた振出竿とリール、釣り具が活躍するか?
 大原港の桟橋では、ゲストハウス、しまおとやの音子さんがボードを持って待っていてくれた。オーナーの音子さん。本当の名前をたぶん知っているが、確証がないので仮にそう呼ばせてもらいます。ブログに載せる許可は取っているから、仮名にする必要はないのだが。しまおとやは、昼間は音子さん、夕方からはご主人がいる。鳥の声、サトウキビ畑を通る風の音。それで、しまおとや。
 この宿にまず4泊した。清潔で素敵なゲストハウスだ。調理器具一式、食器類はそろっている。炊飯器もあるが、レトルトのご飯にした。2kgの米を買って、余ったら荷物になる。洗濯機は無料。洗剤は持参している。海外の旅では、洗濯は手洗い。干すためのひもと洗濯バサミは必携だ。自転車を借りると、近くの商店まで直ぐだ。
 まあ、スーパーと呼ぶには小さいが、コンビニよりは大きく、土産物も売っている。たいていの物は買えるが、問題は値段だ。本土の平均1.6倍はする。離島の弱みはこれか。弁当も売っている。食パンは、一家族に一つでお願いします、と書いてあるが、買っちゃった。
 よく探して、島産のものを発見。印刷のないチーズの固まり150円。と思ったらバターだった。これはラッキー!牛がそこらにいるもんね。一度だけ島パイナップル120円が買えた。こんなに小さいの。大丈夫かと思うが、これが優れもの。今まで食べたパイナップルの倍は甘い。小さくて芯が無いので全て食える。冷蔵庫で冷やしたら、さらに美味しい。毎日売ってくれよ。
 宿に泊まっていた娘さんたちが、空心菜といっていた、水菜のような葉ものは120円くらい。バターいためにしたが、まあまあ。あれは空心菜ではないな。あと港のスーパーで一度、マンゴー2ケ、390円?当たり前だが美味かった。冷やすと最高。これも一度だけしか見なかった。毎日売ってくれよ。










 宿の周りには、ゆっくりとした時間が流れている。深夜に庭に出ると、満天の星が見える。いきなりキョロちゃんのような鳥が道路に飛び出し、トントンと3歩で横切った。たぶん、シロハラクイナと思われる。2度見た。あっ、キョロちゃん! 何で?

* サガリバナ

 サガリバナって知ってる?自分は知らなかった。というか、花の名前と思わなかった。音子さんに勧められ、タブレットで写真を見せてもらった。川面と埋め尽くして、ピンクの幻想的な花が流れてゆく。だから、下がり華?
 違います。サガリバナは花の名前で、夜咲き陽が登ると落ちるんだ。必ずしもマングローブの汽水域に咲くわけではない。ジャングルの中や、人家のそばにも咲くそうだが、ハブのいるジャングルに夜入るのは嫌だ。ツアーを予約した。確か6千円だったと思う。朝の4時に、しまおとやに迎えに来てくれる。
 同じ宿から、お嬢さんが参加した。2人乗りのカヌーなので、彼女とペアになる。宿から車で20分ほど走り、前良川という小ぶりの川に到着。外に出ると満天の星だ。もう一組が来て、説明を聞きツアーが始まった。もう一組は、30代くらいの女性と、その母親だ。こりゃ楽勝。自分たちが早いでしょ。ところが、我々のカヌーの息が合わない。母娘のペアは、どんどん先行してゆき、カーブの先に見えなくなった。自分は、オールから滴る水でびしょびしょだ。
 後で聞いたが、娘さんはカヌーの経験者だった。ガイドは、一人乗りのカヌーで行ったり来たり。彼のヘッドライト以外には、何も見えない。そのうちに、何とか上流に漕ぎ上ると、突然ふくいくと甘い、何とも良い匂いが川面に漂った。これが、サガリバナの香りだった。
 川面がわずかに白み始め、ショーの始まりだ!自分が参加したのは7/14で、7/20には、ツアーが終了している。6月の中旬から、一か月ちょっとの期間しか見られない。下流のサガリバナは、すでに散っていた。
 とはいえ、これは素敵な体験だった。まあ、写真を見て下さい。











 

 陽が登ると、花は川面にボトっと落ちる。川面と埋め尽くすほどの花はないが、辺りはとても良い香りがする。小さな蜂が花にたかっている。また花を拾い上げると、アリがたかっている。この花は、朝になると落ちる。受粉はアリや蛾が行うんだろう。

 上流は行きどまりになっている。川は流れているが、流れは細くカヌーは入れない。すっかり夜が明けて、この幻想的なショーは終わった。帰りには、お嬢さんとの息が合い、スイスイと進んだ。この娘さんとは、鳩間島で再会した。
 自分は、海月(くらげ)というツアーの会社に申し込んだ。別に選ぶ基準があったわけではない。たまたまだったが、このガイドが自然が好きで、川を楽しんでいた。好感が持てる。でも2人乗りのカヌーを2艇、両手に持って、道路から階段を下りて川に運ぶのはしんどかったぜ。

* 勿忘石(わすれないし)

 南の島に来ているんだから、やっぱ海でしょ。音子さんに尋ねると、ここを勧められた。これが結構遠かった。自転車で1時間以上かかった。この自転車、ちょっとでも登りになるともうアカン。延々と押してゆくことになる。
 一度近道を試み、海に出ようとして、延々と続くサトウキビ畑の道に入り込んでしまった。海は遠く、引き返した。別にどこでも良かったんだ。どこでも貸し切りの海岸線、間違いなし。
 陽に焼けるし、日中に海に行く地元の人がいる訳はない。ベトナムのお母さんが手袋、腕覆い、顔覆いを付け、反政府集会に行くようないで立ちで、子どもを学校に迎えに自転車で行くのと同じだ。
 勿忘石は、大原港よりずっと先だ。さてこの大原港だが、道路案内には仲間港と書いてある。仲間川が流れ出る先だからね。仲間港と大原港。どっちでもいいじゃん。でも旅人は、別の港だと思う。まあ、こういういい加減な所は嫌いじゃあない。
 目的地の手前に、こじゃれた店があった。八重山そばが500円。美味かった。かき氷が150円。帰りに寄ったら、閉まっていた。勿忘石は、大きな駐車場があり(1台も停まっていなかったが)、海岸まで木の階段がある。海に出ると、誰もいない。貸し切りビーチが広がっていた。







八重山そば、500円

 海は、透き通っていて遠浅。岩のそばに近づくと、青い小魚、チョウチョウウオの子供がいる。水は暖かくて、温泉に浸かっているようだ。
 勿忘石は、戦争中に波照間島から強制的に移住させられた住民が、悪性マラリアにかかってバタバタと亡くなったことを、痛恨の思いで記念したものだ。八重山諸島には、8千人の日本軍守備兵がいたが、米軍は上陸していない。西表の住人は、畑仕事も止めさせられ、飛行場造りと防御施設の建設に駆り出された。ごめん、飛行場建設は石垣島のことです。米軍は、八重山諸島を艦砲射撃と空爆するだけで、後は無視したから終戦まで、戦場の後方に取り残された。
 補給はゼロで、兵隊8,000人も抱えてはたまらない。現在の西表島の人口は、2,435人。波照間島は、468人だ。まあ、日本軍の多くは石垣島にいたと思われるが。黒島と石垣島の川平湾に丸4、震洋艇の基地があったが、出撃前に壊滅した。震洋艇はべニア張りのモーターボート。爆薬を積んで、敵の上陸用舟艇に突っ込む特攻兵器だが、実戦ではほとんど活躍していない。
 フィリピン戦で多少の戦果はあったので、沖縄戦では警戒され徹底的に爆撃されたため、沖縄を含め全ての震洋が出撃前に破壊された。いくら爆薬を積んでいても、鉄の軍艦にベニアのモーターボートでは勝負にならない。敵が上陸用舟艇を降ろして、ワラワラと海岸線に向かってくる一瞬を狙う作戦だった。奇襲は、警戒されては勝負にならない。

* 油布島

 西表島では、南部の大原と北部の上原から白浜に行く路線バスが、日に4本ある。大原~上原で1,000円ちょっとだ。ちなみにゲストハウス、しまおとやは大富駅です。大原港から2つ目の駅で、商店の前。歩いて5分でしまおとや。
 油布水牛車乗り場は、野生生物保護センターの次で、始発に乗り8:22に着いた。水牛車の始発は9:30だった。まだ誰も来ていなかった。油布島は目の前だ。油布島は小さい島で、全体が植物園になっている。歩いて渡ると、入園料の700円ですむ。水牛車で往復すると2千円だ。
 水牛車が水没するほど深いわけでなく、じゃぼじゃぼと歩いて行くのも楽しいが、水牛車にも乗りたい。島への移動手段が、水牛車とは奇抜だ。






 自分が乗った水牛車は、おばさん牛で頑張り屋さん。グイグイと車を引いて、5分で渡った。他の水牛の倍から3倍の速さでした。9:30 始発の水牛車は1台。乗客は12人ほどでした。
 油布島は、ほんとに小さな島で、11時ごろまでは貸し切り状態で快適でした。ところが、昼に近づくにつれ観光客が、外国人を含めてワラワラと増えてきた。帰りの水牛車は、7-8台が一斉でした。





















 観光地のレストラン、他に選択肢もないし。ところが700円の八重山そばが、意外にも美味しかった。
 帰りの水牛車は、ゆっくり15分くらいかかった。船頭?御者?は、三線で島唄を。でも最初は安里屋ユンタ。これが定番。口切はいつもこの唄です。しまおとやでも、音子さんが三線弾いて唄ってました。日本の兵隊は、「マタハーリヌ、死んだら神様よー」


* 鳩間島 

 結局、宿の予約は一日しか取れなかった。その日に合わせて西表島で4泊した。まあ、とりあえず一日。後は現地で交渉だ。
 上原港に行くと、サガリバナの時のカヌーパートナーの女の子がいた。彼女も同じゲストハウスだ。まあ、他に空いている宿はない。石垣行きのフェリーが鳩間島に立ち寄る。あっという間に着いた。ゲストハウスのおじい、自分と一歳違い、が桟橋にいて軽トラで出迎えてくれた。「もう一泊したいのですが。」「うーん。どうしようかな。」結局OKになり、鳩間島に2泊した。
 鳩間島は、思った以上に素敵な島だった。何もない。海はめっちゃ綺麗。人は、66人? 島の人は、50人くらいじゃないか、という。本土から来て、店をやっている女性が2人いたから、まだ住人に数えられていないのかも。







古い時代の物見塔
鳩です。鳩だよね。










 海の色が綺麗だ。どの浜もほとんど貸し切り。遠浅で水は暖かく、少し窪んだ所に熱帯魚。サンゴがチラホラとある浜には、そこに熱帯魚。ナマコもいる。一度使われなくなった桟橋?防波堤?の残骸に、海から近づいたら、結構大きな魚もいるな。やばっ海蛇!目と目が合った気がした。海蛇が大人しいのは知っているが。前日に飯屋で医者とインターン2人、計3人の若者が話していた。「この島には、ハブはいないんだよね。でも海蛇はいるよね。血清なんかないよな。」
 この島で怪我をしたら、大変なんだ。島に3軒あるうちの一軒の食堂のオヤジさんが、腕を怪我した時は石垣島の病院へ、定期船を待って乗っていったそうだ。
 島には売店が無い。自分も途中でタバコが切れた。小さな郵便局があるが、ATMはない。自動販売機は3~4個ある。西表島から見て右側に立派な建物がある。ああ、高級ホテルがあるね。違いました。中学&高校です。
 鳩間島は、以前に『瑠璃の島』というドラマの撮影地になっている。聞いたこと、あるような、無いような。『ちゅらさん』なら知ってる。あれは小浜島か。本土から島に養子として生徒が来る話しが、瑠璃の島。養子か分からないが、今でも生徒が来ているようだ。ゲストハウスの横に、小ぎれいな寮がある。釣り場を探して防波堤に行ったら、女の子がヘッドホンで音楽に陶酔していた。その子はいつまでも防波堤にいた。


煮魚。美味い。
朝食
ソバつき親子丼。やっと食った。


 











この広場のベンチが好き。風がよい。








 祭りの準備が始まった。島民全員が、5つほどあるお宮に一晩籠るそうだ。祭りの間、観光客は島からいなくなる。食堂も休むし、売店もない。一組だけ、昔から来ている団体が泊まるそうだ。彼らは同じ人たちで、入れ替わっても人数は増えないらしい。
 この島には、野生のヤギが約150頭いる。島の中の道にはヤギのふんがゴロゴロ。でも島一周の間に姿は見なかった。カヌーパートナーの女の子は、一周の間に2回見たそうだ。
 あと、島を出て数日後、脚がふくらはぎまで腫れた。ブツブツが出来たが、それほど痒くはない。草をこぐような道は少なかったが、ゴムぞーりは避けた方が良いのかも。まあ、自然に治ったから、大した害はない。
 宿の親父に誘われて、庭で飲んでいると、いつの間にか立派な角をはやした真っ白くて大きなヤギが、道路に立ってこちらを見ている。ボスの風格がある。写真撮ろ、と思ったら親父と連れの老人に追い払われた。でも、山の方でなく郵便局の方へ去ってゆく。そっちじゃないのに。二人はヤギが大っ嫌いだそうだ。畑の網にヤギが引っ掛かると、たいていは食べてしまう。小さなヤギは飼うこともある。
 この島の人たちは、買い物はネットで行う。葉物が痛んでいたりすると、交換できるそうだ。西表島は近いが、上原には1.6倍の価格のスーパーがあるだけなので、石垣島に行くそうだ。タクシー代がかかるし、一泊するしで大変らしい。

バッド・トリップ - 悪夢の一週間

2024年02月23日 18時15分32秒 | 旅日記
バッド・トリップ - 悪夢の一週間、

 今回は、2部に分かれます。最初の一週間は地獄のタイ編。その後は、ミャンマー編。極楽編とまでは言えないけど、明るくなるぜ。

 その前に。『北さん(自分のことです。)の感じるミャンマーの魅力はズバリなんですか?』こう、若い女性から聞かれました。うーん。一言では難しい。
まずは、ミャンマーでなければならない、わけではない。
 アジアの仏教国なら、タイ、カンボジア、ラオス、スリランカがあるね。タイ、バンコクはいかん。発展しすぎだ。東京との違いが、タイ・ミャンマーの違いより小さい。物価は円安だし、日本と大して変わらん。ラオス、カンボジアは良い。ラオスは、むしろミャンマーより住みよいだろうし、自然も人もよい。
 スリランカはヒンズー教徒も多く住んでいて、やはりインド文化圏だろ。アジアの上座部仏教の国。それとはちょっとイメージが違う。あとネパール、モンゴルも。お米の国ではないでしょ。
 ラオスには、日本企業は進出していないので、日本語教師の需要が無い。カンボジアには、アンコール遺跡群のガイドの日本語教育はあるが、それだけで間口は狭い。ベトナムが行きたい国のNo.2 だが、行くならハノイだな。
 話しがずれてる。ズバリ何でしょう。生きてるって楽しいな。そう実感できることかな。ミャンマーの人の生活は厳しい。ヤンゴンの街は、車も少なくなった。ガソリン代が高騰した。タクシー代は3年前の3倍。飯代も上がった。夜は人が表に出ない。生活は苦しくなったがミャンマー人は、のんびりしてるのよ。
 とにかくわくわくする。道を渡るのも、大袈裟に言えば命がけだから、アドレナリン全開でいっちゃうわけね。今のヤンゴンでは、毎日の計画停電が2日交替で、5 - 9 AM 13 - 15 PM, または、9 - 13 と 17 - 19 時。その他に突発的な停電がある。小型懐中電灯を持ち歩いたほうが良い。
 ミャンマーの人は優しい。人に全く干渉しないから、外国人だからといって、話しかけられたり、ジロジロ見られることはない。自由でいられるのだ。どうぞ 、お飲下さいと水瓶を道路に設置する人たちだものね。

 * どうも電波状況が悪くて、入力に倍の時間がかかってしまう。後は帰国後にしよう。

 あのね。なかなか筆が進まなかった。あの一週間のバッド・トリップは、出来ることなら、忘れたい。でも、まあここまで書いちゃったんだから、さっさと済ませて、ミャンマー極楽編にたどり着こう。

 本当は、細かいなにがしは切って切って、事実をテンポよく進めた方が良い。分かってはいるのだが、今回は敢えて、ベタにぞろぞろと書き進めることにする。省略すると、事の背景がぼやける。さあ、ドロドロと行くよ。
おんどろろ、おんどろろ、覚悟しいや!
 
 自分は、四国遍路を終え、次の目標が見当たらなかった。仕事は辞めていたから、時間はある。金は無い。遍路のブログを書き終えると、ポッカリ穴が開いた。グダグダと寝転がってTVを見るか、本を読む一か月。
 そんな時に、ミャンマーから鈴木先生が一時帰国した。自分の教え子だった青年2人と一緒に中華街に行き、半日を過ごした。2人は、大して日本語は上手くなっていなかったが、本当に楽しそう。日本の会社で友達も出来て、来週箱根に遊びに行くそうだ。鈴木さん、ちゃんと約束を守って彼らを日本に連れてきていたんだ。もう半年も日本にいるそうだ。
 実はもう一人、生徒がいたのだが、彼はシーマン(船乗り)になったそうだ。これは意外だ。彼は良い家のボンボンで、好奇心が強くて、よく授業をサボる明るい若者だ。何故、船乗りに?反政府(反軍部)の活動に熱心なあまり、警察に睨まれたらしい。ミャンマーの警察は国軍の下部組織なんだ。国内にいられなくなったんだな。でも、彼は地図帖を一週間貸して下さいと、熱心に見ていたから、海外に関心があったのを思い出した。
 この半日で、自分の行く道が見えた。もう一度、ミャンマーに戻って先生をやるか。しかし、年末。余裕の無いところで、訪緬を急ぎ過ぎたようだ。ミャンマー直行便のLCLが無いことは、分かっていた。ならば、バンコクかハノイに一泊すればよい。成田⇔バンコク、バンコク⇔ヤンゴンでどうだろう。
 別々の便で、総額6万円ちょっとでチケットを買った。ただ、日程に余裕がない。年末年始をはさんだ。これが悪夢の始まりだった。クーデター以前は、一か月の観光はVISAが不要だった。今は、一日でもVISAがいる。だが、VISAを大使館に申請するには、日にちが足りない。でも大丈夫。いざとなれば、到着時に商用VISAを取得出来る。申請書類は入手済みだ。ところが、ガビーン!これが無くなっていた。
 マズイ。すかさずE-VISAを申請した。上手くいけば、翌日入手できるはず。1月9日(火)の昼に出発で、なんと8日が休日。正月休み明けの4日に申請した。5日に入手出来れば、滑り込みセーフ。
 ところが、5日の夕方に大使館からメールが入り、旅程表が本人である証明が必要とか、言ってくるじゃあないか。ネットの旅行会社に無理を言って、旅程表にパスポートNo.を入れてもらった。それを送り返したのは、5日の夜中になった。E-VISAは、ミャンマー政府関連の旅行保険に強制的に入らされたりして、1万円ほどかかった。
 出発日の9日の朝に、もしメールが未着だったら、仕方がない。出先のバンコクで入手するか。VISAの未着が気になり、荷物の準備がおざなりになった。今回は、一度帰国するが、その後再入国して先生生活をするかも。それを考え、荷物は多めになった。本など5-6冊入れた。
 20kgsまではOKなように、バンコク⇔ヤンゴン便は、荷物の超過料金を前もって払った。成田⇔バンコクは、中国東方航空と言う便で、なんと上海で乗り換えだ。この航空会社を選んだことに、後でいやというほど後悔させられる。この便のメリットは、一つだけ。荷物が2ケ、48kgsまでOKなことだ。上海乗り継ぎは、厄介だが安いのだから仕方がない。
 乗り継ぎの上海空港では、中国元がないので、給水機の水を飲み、本を読んで時間をつぶした。上海空港の職員の英語の通じなさには、びっくりした。「今、何時?」上海のローカルタイムを聞いたのだが、これが全く通じない。時計を指さし、今、何時ですか?空港の青年は、ポカンとするばかり。勘も鈍い。スマホの翻訳サイトを出すから、もういいよ。
 搭乗時間になった。そこで止められたのが、悪夢の始まり、始まり。搭乗口で自分を止めた係員は、おばさんだったが、彼女も英語は一言も通じない。スマホを見せられ、良く分からない日本語を勘を働かせて読むと、荷物に電池が入っていたらしい。鍵を出せという。ここが悲劇の第一ポイントになった。
 出がけに気付いたのだが、南京錠の鍵が一つしかなかったんだ。成田で買おうと思ったんだが、番号合わせのタイプしかない。またトランクの穴が小さいから、細い鍵でないと入らない。まあいいや、そのまま出国してしまった。上海空港の搭乗口で、鍵を出したらおばさんはティッシュでくるんだ。それ一つしかないから、必ず返してね。念を押しても通じない。またスマホを出す。制服を着ていて、ここまで英語が通じないとは。
 おばさんはちょっと考え、面倒になったのか、ティッシュをはがして鍵を返した。行け、行けと言うからそのまま進んだ。まあ、バンコクで開ければいいや。しかし、それは大きな間違いでした。トランクは、飛行機に乗らなかったのだ。

 そのままバンコクの空港に着いた。ドン・ムアンではなく、第二空港のスワンナプームだ。この空港は初めてだが、成田よりはずっと立派だ。夜の11時頃、トランクを受け取ろうと荷受け場のレールで待っていたが、ちっとも出てこない。嫌な予感。同乗者らしき人は、一人もいなくなった。
 空港の係員に聞いた。彼は、英語が通じる。彼はあちこち電話をして、2-30分待たされた。結果は最悪。トランク(バッゲージと呼ぶ)は、上海空港に置かれたままだ。理由は、違法なリチウム電池が見つかったから。
 電池、入れたかなー。その後何度も記憶をたどったが、確かな記憶はないものの、出がけに血糖値測定器用のCR-2032を投げ込んだかもしれないと、思い当たった。CR-2032なんて、目覚まし時計やおもちゃに使うポピュラーな電池だが、機内で発火する可能性が100憶分の1 でもあるというのか。
 空港のBaggage claim の職員に書類を書いてもらい、日付が替わって1月10日の真夜中、予約していたホテルへ行った。手荷物のリュックだけだ。日本は冬だが、バンコクは暖かい。というか暑い。
 ホテルにチェックインした。フロントでは、若い女性が一人で事務をしていた。この娘さん、名はパッターカディーさん。とても親切で気立てのよい子だった。飲み物とカップラーメンは売っていたが、マッチ、ライターの類はない。どうしてもタバコが吸いたいので、教えてもらったコンビニへ行った。ライターは、成田で2ケ取り上げられていた。
 コンビニに向かう途中、近道をしようとして入った広場で、犬たちに取り囲まれた。狼群攻撃をされるのか。彼らは見事なフォーメーションで俺を取り囲み、唸り声をあげる。タイの犬だろ。昔は、皮膚病であちこち赤むけして、腹を出して寝ていたじゃあないか。経済が豊かになると、犬まで元気になるんかい。時々、仲間に勇気を示したいのか、フォーメーションを抜けて直ぐ近くに来るのがいる。今にも手にかみつきそうだ。ネイティブアメリカンの若者が、抜け駆けして騎兵隊に迫るような感じ?
 ここで噛まれてはマズい。狂犬病の予防注射を、一週間も打たなければならなくなる。「バカヤロウ!お前らにかまっていられるか!」こっちも怒鳴って威嚇する。広場を過ぎると、犬たちは去った。ヤレヤレ。
 やっとコンビニにたどり着き、飲み物、朝食のパン、Tシャツ、そしてライターを買った。途中の上海以来、10時間ぶりにタバコを吸った。真夜中で人通りはなく、幹線道路から離れているので車も通らない。頭がクラクラした。フラフラと、麻薬中毒のように歩き、ゴミ箱の横で前向きに転倒した。ファー、やっちまった。幸い誰も見ていない。
 ホテルの受付のお姉さんは優しかった。受付のパソコンは、貸してもらえなかったが、自分が持参したパソコンを苦労して立ち上げてくれた。何だか、余計なソフトが次々と出てきて、なかなかYahoo Japanにたどり着けない。コンセントは、トランクの中なので、内蔵電池が切れるまでの命だ。やっとたどり着いた時には、午前3時を廻っていた。
 ところがアーア、期待したVISAはメールで届いていない。これで問題は2つになった。本日の夕方の便なのに、トランクは上海、ミャンマーのVISAは無い。夜が明けたら、バンコクのミャンマー大使館に行くか。遅れるかもしれないと、ミャンマーに連絡が出来ただけが救いだ。

 朝になると、昨夜転んだ時の打撲で、左ひざの左上部がボコっと半円に盛り上がって、赤黒く変色していた。手のひらには切り傷。ひざは触ると痛い。でも歩くのには支障がない。足は、しばらく組めなかった。10日もすると、ひざに溜まったリンパ液(?)が下がって、左足の甲が膨れた。甲は痛くはない。この傷は、二か月経った今でも変色している。
 ミャンマー大使館の所在は、調べてある。荷物は大きなリュックが一つだが、ここでは不要なジャンパーがじゃまだ。タクシーで最寄りの駅に行き、電車を乗り継いで、大使館を目指した。フロントのパッターカディーさんに聞くと、通勤時間なので渋滞にはまると、タクシーでは2時間かかるかもしれません、と言う。
 この後一週間、バンコクの電車と地下鉄を乗り継ぐことになる。便利だが、料金は案外高い。また路線によって、切符がコインだったりカードだったり。乗り継ぎの度に切符を買うのは、面倒だ。また、駅間が相当離れているのはザラだ。車内は、日本ほどは混んでいないが、冷凍庫のように冷房をきかせているので、長く乗っていると寒くなる。それで、トイレに行こうとすると、大抵の駅にはない。係員に言うと、連れて行ってくれて鍵でドアを開け、事務所のような所に案内される。日本で出がけにプリントアウトした、バンコク市内の路線図が大いに役に立ち、ボロボロになるまで使った。色分けされた路線。車内の英語アナウンスで、次の駅名が分かる。
 やっとたどり着いたミャンマー大使館は、建物の内外にミャンマー人があふれかえり、道路の先の先まで座り込む、難民キャンプと化していた。だが、皆さん大人しく何かを待っていて、これだけ人がいるのに静かなくらいだ。E-visaは8番受付だという。9時(10時?)からなので、自分も難民と化して待った。
 時間になったが、8番は開かない。時間を3-40分過ぎ、やっと係員が来た。中年男性だ。顔を見ていやな予感。自分は、日本でE-Visaを申請した。この番号です。本日の夕方の便なのですが、発行されているでしょうか?ここで確認していただいて、出来ればプリントアウトして下さい。そう頼んだ。
 男性は黙って聞き、E-Visaは、コンピューターで確認してくれ。ここは大使館(embassy)で、imigration ではない。へっ?ここでVisaを発行してるじゃん。8番窓口は、E-Visaの担当でしょ?しかし、取り付く島もないとは、このこと。彼は、ここはxxではない。△△だ。を何度も何度も繰り返すのみ。くそ軍事政権だからこうなのか。それとも以前からこうなのか。
 鉄面皮には、何を言っても通じない。歩み寄る気は、全くない。話を聞く気はゼロだ。ごったがえす入り口に戻り、事情を説明すると、ああ面倒くさいとおばさんは、8番、8番、E-Visaは8番。これほど感じの悪いミャンマー人には、初めて会った。こりゃあ、いかん。今ここでVisaを申請すれば、3日後には受け取れる。土日を挟んで月曜か。二重に金はかかるが、旅行保険は取ってあるし。その書類も持っている。でも写真が無い。トランクの中だ。
 仕方がないと一旦撤収。何の役にも立たなかった大使館を後にして、スワンナプーム空港へ行った。informationで、バッゲージクレームの書類を出して、掛け合ってもらったが、ラチが開かない。それでは、中国東方航空の事務所か係員はどこ?カウンターに行くと、2人くらいしかいない。何故か上海航空で聞いてくれという。上海航空は、ちょう出発便が近いのか、結構職員がいる。青年が親切に対応してくれた。上海空港の荷物担当と思われる部署に電話がつながった。
 しばらく待たされ、日本語の通訳という男性と話しが出来た。だがこの通訳、何を言っているのかさっぱり分からない。荷物は上海にある。違法なバッテリーが入っている。ここまでは、昨日の段階で分かっていることだ。通訳は、直ぐに上海航空の青年と代わってくれ。青年が自分に英語で説明する。オイ、何のための日本語通訳だ、お前さんは。おかしいだろ。どっちが通訳なんだよ。通訳は、とにかく待て。待っていろを繰り返す。だからいつまで?待て。バッゲージが無いと困る。金も薬もバッゲージの中。待て。この後、どうなる。いつまで待つのか?何を待つのか?待て。ラチが開かない。上海航空の青年は気の毒そうに、待つしかありませんね。くそ。2つの問題の両方が解決しないじゃあないか。
 
 搭乗の時間は迫り、行っても意味はないが、ドン・ムアン空港へ向かった。空港で乗る予定だったタイ・アジア航空のカウンターで、トランクが未着という事情を話した。すると、チケットのキャンセルは、特に何もしなくて良い。ただ乗らなければよろしい。あー、ついに乗りそこなった。
 空港隣接のホテルの職員に、市内で20~25ドルでお勧めのホテルは無いか聞き、教えてもらったホテルへ向かった。そのホテルが満室だったので、近くに泊った。パソコンが使えないし、電池も切れそうだったので、宿の隣のコンビニでシムカードを買った。ホテルの受付のお姉さんが、ちゃっちゃっとシムを入れ替えてくれた。ハイ、これがタイの電話番号ね。後ろに貼っておくわ。
 これは便利だ。Yahoo のメールもラインもMapも使える。スマホの充電コードは、フロントで借りた。E-Visa のメールは、まだ届いていないが、ミャンマーの鈴木さんとは、双方向で連絡が取れるようになった。問題は二つ。Visaとトランク。
 翌朝フロントのお姉さん、彼女は本当によく気がきく。こういう気働きが出来る女性は、10人に一人か50人に一人だ。スワンナプーム空港のバッゲージの担当部署は、なかなか電話が通じない。ずいぶんと時間がかかったが、結局何も変わらない。トランクは以前として上海。上海は待てと言っている。書類の番号がはっきりしただけ。タイ人の書いた1は、7に見える。
 コンビニのちょっと先に、ローカルのタイ料理屋があったが、ここの飯は実に美味かった。値段は、日本の半額ほど。その後、近所のレストランを数軒廻ったが、最初の店がベストだ。

 Visaをタイで取り直そう。どこかで写真を写せないかな。翌日は、最初に紹介されたホテルに移った。1泊目のホテルで、クレジットカードで払おうとしたら、6ケタの暗証番号を入力してくれと言われた。6桁?暗証番号?結局現金で払ったが、これはマズい。手持ちの現金には、限りがある。大半の金はトランクの中だ。だが、サイフの他に、数万円とドルを入れた札入れをリュックの底に見つけ、ホっとした。これが無ければ、大ピンチだった。暗証番号は結局4桁で、次のホテルからはクレジットが使えた。

 実は、荷物の未着はこれで二度目だ。何十年も前に、イエメンのサヌア空港で、航空会社のミスで数日待たされた。仕事の書類は、手持ちのアタッシュケースに入れてあったが、街に出てまず靴下を買ったっけ。でもこの時は、お客さんが面倒を見てくれ、いざとなれば、お金を借りることも出来た。数日後に空港まで取りに行って、トランクを回収した。ゴメン、の一言もない。まあ、空港の職員のミスではないのだが。それ以来、手荷物にいくらかの現金と、少々の着替えなどを入れる習慣が身についた。
 またチェックインと同時に、ホテルのネームカードかパンフレットを入手して持ち歩く。若い時の恐怖体験、「私はどこ?私のホテルは何処?」を避けるためだ。恐怖のカルカッタ、暗黒の下町体験は一度でよい。この経験は、以前にブログで書いた。

 さて、さすがに少し飛ばすか。旅行会社は、何もしてくれなかった。いんぎんに、違法の電池を入れたお前が悪いんじゃん。上海に戻るか、と考え始めたが、チケットの変更に応じるとは思えない。何を言っても、誠に恐縮ですが。Visaの取得のため、ミャンマー大使館を再訪した。写真は路上の軽トラと机を置いた所で、電信柱を背景に撮り、パスポートのcopyと一緒に15分ほどで出来上がった。安い。これが、魔法のように良い出来の写真なんだ。
 フと思いついて、東京のミャンマー大使館のサイトを見た。番号を打ち込むと、今までの under proceeding(処理中)が消えていた。ってことは、発行された?その通り。ヤンゴンの鈴木さんに頼むと、メールで送ってくれた。やった!Visaが取れた。これで一つ解決。
 宿に戻り、スマホからフロントのパソコンに移送して(別のお姉さんにやってもらった。)プリントアウトした。Visaはペラな紙一枚で、発行日は9日だった。メールは、適当に送り忘れたんだろう。
 後はトランク。実は、奥の手を試していた。バンコクには、この国に住み着いている中学からの友人がいる。彼に頼めば、タイ語で交渉をしてもらえる。苦労して昔の交信記録を掘り出し、連絡はついたのだが、あいにく彼は、体調不良で寝込んでいた。仕方がない。
 よし、こうなったら日本大使館に行ってみるか。今のままでは、ラチが開かない。トランクが上海から動かないのなら、ミャンマー行きは中止して、バンコクから上海に戻るしかない。とはいえ、土日を挟んで観光もしたよ。








 ワット・プラケーオや中華街に行った。タイは、外国人観光客で溢れていた。特に欧米系の人が多い。空港には日本人もいた。中華街は、昔のようにごった返していたが、物価が驚くほど高い。飯屋は日本の倍はする。まあ、店の選択に間違った。タイ人が食べる屋台風の店にすればよかった。
 ホテルから最寄りの駅まで2-3kmある。バイクの後ろにまたがって乗る。最初は怖いが、安いし気持ちがよい。バイクタクシーに乗って、ショッピングモールやローカルマーケットに行き、ゴムゾーリや着替えを買った。気がかりがあるので十分は楽しめない。
 糖尿病の薬は切れた。インシュリン注射は、厄介なので最初から手荷物には入れなかった。血糖値を計るのも入れていない。タイの薬屋で、ポピュラーな一種類だけ入手した。値段は安い。
 さて、日本大使館。結局、力にはなってくれなかった。タイ国内のトラブルならねー。でも部屋と電話を貸してくれた。この電話で、タイの空港、中国東方航空のクレーム担当、そこで聞いた上海空港のバッゲージ担当に電話をした。2-3時間かけて、思いつく所に片っ端からかけまくった。上海空港の担当者の女性は、思いがけなく英語が達者で、こう言った。うーん、その番号では記載がありませんね。
 そ、そうなの。もしかして。スワンナプーム空港へまた行った。これで何度目だろう。またまたinformation で待たされたが、今回は対応が違った。2Fのinformationに行け。そこに職員が来る。何で?と聞いても、分からないとの回答。2Fのinformationは、飛行機から降りてまだ外に出ていない人がいる所だ。警備員に事情を話し、中に入れてもらった。必ずここから出ろという指示だ。そこで、またまた待たされた。いーよ、いーよ。バス3時間待ちとか、お遍路で慣れてる。
 やっと、作業着を着たおじさんが現れた。ついてこい、とグルグル引き回され、ドアを開けると貨物の集積所じゃないか。これは、これは、もしかして。事務所の前にトランクが山積みされている。荷札を調べたおじさん、「これは君のかい?」あー、あった。俺のトランク!見ると鍵がかかっている。
 これ、いつ到着しました?いつ?おじさんは、知らない。何度も聞くと、どこかに行ってしまった。タイのバッゲージクレームの人には、何度も電話して、何かあったら電話してね。変化があったら、電話してね。または、メールで教えてね。繰り返し念を押したのに。
 さっそく中を確認すると、お金は無事で、見たとこ何の変化もない。ところが、小さな色紙が入っていた。中国語で何やら書いてある。そーか、開けたんだな。開けて電池を取り出したんだ。鍵を開ける職人を手配するのに、時間がかかったのか。やっぱり、上海空港で鍵を渡しておくべきだったか。待て、待てしか言わないで、事情を説明してくれたなら。

 これで悪夢は終わった。ネットでバンコク⇔ヤンゴンを最短で予約し(別会社)、翌日にはバンコクを発った。さて最初の旅行会社は、トランクのトラブルについて、何もしてくれなかった。バンコク⇔ヤンゴン便については、往路でキャンセルしたから、復路も自動的にキャンセルされた。荷物の超過分だけのキャンセルはできない。恐れ入りますが、まことに恐縮ですが、オメーには何もしてあげないよ。駄目。出来ない。何もしないし、する気もない。
 しかし、復路は後に発券された。これには頭にきた。これなら、片道のチケットで良かったではないか。復路のチケットを2枚持って、どうする。クレームをしつこくメールした。返事の度に、上の奴に代わる。そしてついに彼らは返金に応じた。そりゃー、そうだろ。復路もキャンセルされたと言われたから、往復で買ったんだ。

 ところで、中国東方航空はいくら、100%自分に非があっても謝らない航空会社として、その筋で有名だそうだ。さもありなん。



四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続続

2023年11月23日 10時58分18秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続続

また容量が一杯になった。30,000字以下にしろと言う。

・5番・地蔵寺には、2つの著名なものがある。寺の裏にある五百羅漢(拝観料200円)と、樹齢800年、たらちね銀杏(イチョウ)と呼ばれる大樹だ。木の下一面に、ブルーシートが敷かれている。近づくとあの独特の腐敗臭というか、糞尿臭が満ちている。
 何しろ、見る間にボトボトと落下音がして、雨のように実が落ちてくる。寺の人は、竹ぼうきで実をかき集め銀杏(ギンナン)の山をいくつも作る。800年経ってこの生命力。
 イチョウは、雌雄があって葉の形も独特だ。ジュラ紀から続いているという。ただ、古代にはいろいろな種類があったが、生き残ったのはほぼ一種類だそうだ。ヨーロッパでは絶滅した。日本のイチョウは、1,200年前ごろに中国から渡ってきたものらしい。ちょうど弘法大師のころじゃないか。特に好んで寺の境内に植えられたのだろう。
 でも、ごめん。自分の手帳では、この銀杏の雨の木は、7番から11番の間と書いてある。5番だったのかは、自信がないな。他の寺でも、銀杏の木、ブルーシート、あの匂い。きれいに実だけにして袋に詰め、100円で売っているお寺さんもあった。旅の途中なのに、思わず買っちゃった。

ps. 霊園に勤めている友人の話しでは、銀杏(ギンナン)の実の重さで、枝が折れるそうだ。通行人に危ないので、道路に張り出している枝を切り落とすとのこと。凄いな、イチョウ。


これ、イチョウ?

・江戸時代の遍路は、今とは違う景色を見ていた。ビルや車や、舗装道路のことではない。まずはコスモス。この花はメキシコ原産で、1969年に逸出確認とあるから、割と最近だ。こんな綺麗な外来種なら、大歓迎です。
 あと、セイタカアワダチソウ。この黄色い花の群生は、河川敷、土手、荒れ地、原野、休耕地、路傍とどこでも見られる。よく似たブタクサが、花粉症の元凶として嫌われる。1900年導入。観賞用として輸入されたんだ。原産地は北アメリカで、養蜂家に大事にされる。ただこの花の蜂蜜は、独特の味がして、二級品の扱いだそうだ。
 セイタカアワダチソウと生息域がダブり、生存競争をしているのがススキとヨシだ。江戸時代の遍路は、果てしないススキが原を歩いた。自分としては、ススキを応援するが、所変われば。北アメリカでは、養蜂業の敵である外来種のススキが、嫌われて駆除される。たしかにススキの形と色は寂しい。幽霊草と言えるかもしれないね。
 セイタカアワダチソウは、ドイツでも第二次世界大戦後、アメリカ軍が持ち込んで、ライン川一帯で大繁殖したそうだ。




・前にも書いたけど、初めのころに知り合った城さんとは、その後もLINEで文通をして楽しかった。宿情報を送ると、彼女がそこに泊まり、感想を教えてくれたりね。城さんは11/15に結願した。頑張ったね。全部歩きなんてスゴい。通しの遍路の成功率は、1/3くらいだという。区切りの遍路の方々に何人も会ったが、目的がはっきりしているので、迷いがなく無理をいとわない。
短期集中。通し遍路の一か月、一か月半は長い。どうしたって、中だるみがあるもんだ。
 城さんの話しでは、11/13ごろの雲辺寺では、猛吹雪で横殴りの雪が降ったそうだ。88番でも雪が降った。城さんの知人が、泣きながら写真を送ってくれたのを、転送してくれた。自分はもう半月、一か月後に旅を始めても良かったかな、思っていたが、この写真を見て震えた。10月末に旅を終えて良かった。
 もし、もしもだ。また遍路旅をするなら春。春爛漫。桜を追って歩き、GWの前に旅を終える。これは城さんの受け売りだが、自分もそう思う。春の旅はよい。四国の春の旅はね。

・曼荼羅寺。いい名前じゃないか。この寺の門前近くのバス停で、若い女性の遍路さんと知り合った。香川県はスゴイ。観音寺市のバスは、どこでも、どこまで行っても100円だ。隣の善通寺市のバスは、何とただだった。彼女は、スマホでバス情報などを、実にこまめに調べていた。彼女に連れられて、バスを乗り継ぎ街に出た。
 彼女はその日、ネットにも本にも出ていない、女性専用の安宿に泊まるそうだ。そういう女性用の遍路サイトがあるそうだ。岡山の人だが、四国の大学を出たので、遍路は以前から気になっていたらしい。あっ、言い忘れたけど、彼女は逆打ちなんだ。つまり、1→88番ではなく、88→1番と廻る人。名前は聞かなかった。ではもう会わないね。バイバイ。
 ところが、翌朝駅で再会した。間違えて反対側のホームにいた自分に、正しい方を教えてくれた。ありがとう。君のことは、多分5年は忘れない。

・靴は悩ましい。一か月、毎日平均15~20km歩く。そのほとんどが、舗装された、車が隣を走る路。でも時には山道。時々は、登山のような急斜面。山道では、足が靴の中で固定された登山靴がよいのは当然。でもそんな日は、数日しかない。90%の平地、アスファルトの道を、重くてかさ張る登山靴で歩くのはゆううつだ。リュックに登山靴など、考えるだけで疲れる。非現実的だ。
 自分も、登山用品店やスポーツ店を見て回り、軽くてかさ張らない登山靴を探した。でも登山靴かランニングシューズになってしまう。どっちも兼ねるのは見当たらない。えい、そんなら運動靴にしよ。980円の歩きやすいのにした。
 サイズは、普段より0.5大きいのにした。これは、1cm大きいのにした方が良かったかも。26.5なら、27でなく27.5の方がよいかも。まあ、自分で履いて歩いて確認してね。
 新品に近いのを履き、中敷きを一度交換して使ったが、何故か靴下に草がつく。中敷きを突き破って小さな穴が開いていた。


 底はツルツル。雨が降ったらスッテンコロリン状態だ。

・後悔はしていないが、もし次の遍路があるなら、全部歩きにする。バスで急なくねくねした登り道を行き、駐車場に到着する。戻りのバスは、30分後です。次のバスはありません。駆け足でお参りするのは味気ない。
 鉄道で駅から駅に。駅から寺に。また次の駅から寺に。一日7寺廻った日があった。駅からは、近かったり遠かったりする。これじゃあ、まるでスタンプラリーだ。つまらない。
 ほとんど無かったが、バスの車窓から歩き遍路を見つけたら、無意識に頭を低くする。やっぱ、後ろめたいのかな。前にも書いたが、一見無駄なような街歩き、延々と続くアスファルトの国道。これを歩くのは無駄なようで無駄ではない。巡礼の王道だ。やっとたどり着いた目的地を、より一層感慨深いものにする。
 旅を通して、弘法大師空海を身近に感じることはなかった。そんなに好きなお坊さんではない。山道で、南無大師金剛遍照と唱えることはなく、xxちゃんスクスク息災と唱えた。生まれたばかりの孫の名です。

・最近、ミャンマーの学校の責任者の先生と、昔の教え子に会った。最近のヤンゴン事情を聞けた。1万人いた日本人駐在員とその家族は帰国し、今は500人しか残っていない。でも何人かの日本人は、ミャンマーに残り、また日本から支援を続けている。こういう苦難の時に、人間の真価が問われる。
 自分は、来年早々に下見に行く。場合によっては、日本語教師を再開しようと思う。Part 2 はあるかな?旅は終わり、次の旅は?今は準備の時だ。

 今まで載せなかった写真をランダムにupするね。ダブっているかも。





















こうでなくちゃ















































































四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続

2023年11月22日 20時56分07秒 | 旅日記
四国遍路 ー 遍路ってこんなの?続続

〇 お寺参拝
 遍路のブログらしく、ここらでお寺を見てみよう。80ある真言宗のお寺は、密教のお寺らしく朱色を使ったりして、異国風、中国的な雰囲気がある。当時の隋・唐は、憧れの文明国だったものね。
 ミャンマーのパゴタも金色に輝き、シュエタゴン・パゴタなどは、電飾ギラギラで原色が氾濫している。でも仏像は全てブッダ、つまり釈迦国の王子であるゴータマ・シッダールタか、その弟子たちとブッダだ。見たければ、このブログのミャンマー編を見て下さい。ついでに言うと、ブッダは死後の世界について、一切言及していない。基本的に輪廻転生なのだ。いまでもタイ・ミャンマー・カンボジア・ラオスではそうだ。
 密教が何なのか、よく分からないがバラモン教の神々が取り入れられているようだ。千手観音だの孔雀明王だの、そのバリエーションは美術としては素敵だが、もともと世捨て人集団のようだった原初仏教を逸脱している。まあ、日本の仏教は官が国策として取り入れたのが経緯だからな。

 さて、山門にたどり着く。ここまでが大変な寺が多い。門には左右の仁王像。その裏には何故か大わらじ。清めの水場があって、鐘楼がある。奥には五重塔がある寺もある。階段を登って本堂、脇に建つ大師堂。この二か所でお祈りをする。ロウソクをあげ、線香を灯し般若心経。納札と賽銭。最後に納経。結構時間がかかるんだ。見てみようか。どの写真がどこの寺か、半分は自分でも分からなくなっている。













門の中に鐘がある。これはここだけ。
天井画。最後の審判?
地獄画





平地にある寺は助かる。






























岩屋寺は、文字どうり屋根が岩。




38番・金剛峯寺は美しい。




これは道端で出くわした。

〇 遍路準備
 別に自分は、皆さんに遍路をお勧めしていない。親指の爪が剥がれるほど、しんどいからね。でもいくらかかるのか、知りたいよね。これが、ちゃんと支出を控えておかなかったんだ。ごめん。でも引き出した金額から推定すると、28万円くらいじゃないかな。30万円弱です。

・行きは深夜バス。9,800円くらい。帰りは新幹線。宿代は、素泊まり3,000円~5,000円で、2食付き7,000~8,000円といったところ。それが約30日で、概略15万円。バス・鉄道費、食費、全部で4-5万円。

・納経費が、300円 x 89 = 26,700 + 200円で、26,900円。高野山が88 + 1。
+200円は、12番・焼山寺が500円だったので。来年の3月か4月から、納経が全て500円になるらしい。よかった、値上げの前で。

・遍路装束は、編み笠・杖・白衣(半袖にした)・納経帳・納札を買った。全部で8,330円かかった。数珠・ロウソク・線香は持参した。白衣のズボンと輪袈裟は省略した。輪袈裟は、トイレで外さなければならない。面倒な上に大袈裟なので、止めにした。必要なら後から買える。
 朝が早く、遍路用品店が閉まっていたので、一番・霊山寺の直営の店で買った。店のおばさんは、納経帳でなく掛け軸をしきりに勧めたが、帳面/本タイプにした。これは正解。掛け軸や白衣にしたら500円と高い上に、墨が乾くまでドライヤーを使ったりして待たなければならない。掛け軸は、仏画が描かれていて格好良いが、2-3万円はする。


この納経帳には、一寺ごとに絵が描かれている。
編み笠、白衣、共に旅したショルダーバック。
 編み笠にはサイズがあるので、被って選ぶ。オリジナルのひもは、ちゃちいので、自分のように用意していくと良い。梵字が正面。ビニールカバーは外しておく。雨の日以外は、風通しよくする。
 納札は100枚入りだったので、余った。線香入れを買った。ロウソクは、小さいものにした。あと、般若心経と数珠。
 各お寺で、セットでくれる。

・旅の準備・資料
事前に調べたノート。廃線、廃業、善根宿の全滅で、予定どうりにはいかない



 このパンフは、ちょっと役立った。近くの駅からのバス便などが、書かれている。でも寺から寺ではなく、それぞれの寺が独立して書いてある。最後の方は、面倒になったのか、駅からタクシーでxx分ばかりになった。
 これも役立ったが、善根宿や一泊千円の好意宿などは全滅。でも寺での作法とかが参考になった。
 食べ物の他に、こんなものを貰った。
 これは、途中で会った人に教わった。胸ポケットに入れておくと、取り出しやすい。ビニールに入れておかないと、直ぐに汗で濡れてしまう。
 彼はコピーした地図を入れていたが、区切りの遍路だからそれでよい。通しでは、コピーの分量が多すぎる。
 役に立った2冊の本。黄色い本は持参した。
 本の中身。歩きのルートを書いてある。ちょっと外れた所はカバーしていないので、知りたいのにアーア、駅が切れてる。となることがある。
 この本は重いし、絵は楽しいが歩くのには不完全。置いていった。ただ、お寺の情報と寺から寺のバス便情報は、ノートに書き写した。
 岡田君は、自分の親しい友人でした。でもこれは結局一日しか、リュックに掛けなかった。車の方はズーズーしいし、巡礼は何かを主張する旅ではない気がしたのね。 

・旅のほとんどは、カートにリュックを括り付けて、ガラガラと引いていった。カートは、他の人のブログなどを読むと、100kmもしないうちに車輪が壊れると書いてあった。でも不思議と持ちこたえた。結局、81番・白峰寺の手前で手放し、後は担いでいった。どこに置いてきたかって?忘れた。

 カートは、もう少し取ってが高ければよかった。タオルを巻きつけると廻ってしまい、うまくない。鉄道は半分が無人駅だったので、荷物はショルダーバックだけにして駅に置いたり、路傍に置いたりした。寺の山門では必ず置いて
登った。売店や飯屋で預かってもらったこともある。先にその日の終着駅の宿に、朝先行して預ける。見晴らしの良い三叉路に置く。公園に置く。山道で、登りに差し掛かったので、農家の納屋の裏に置く。
 不安に思ったことはない。万が一無くなったら、それはそれで仕様がない。でもある寺は、登りに一時間以上かかるきつい山道で、戻って来たら別の道だった。二つの参道があったんだ。もう一つの参道に行き、かなり登って荷物を回収した。別の山寺でも、違う下り道を行ってしまった。その時は、バス停に荷物を置いていたので、グーグルマップに助けてもらった。

・お寺でお祈りをする時に、ロウソク、線香、般若心経が必要になる。あと、納札と賽銭。本堂と大師堂の二か所だ。ウェストポーチがあればな、と思った。カートを引くので、手荷物はショルダーバックに入れた。畳めるナップザックは、一日でひもが切れた。フクロウのバックは、ミャンマーで買ったものだが、2人の女性が素敵ね、と褒めてくれた。まあ、ちょうどよい大きさだった。最後に近づくと納経帳を盗む奴がいる、と聞いていたので、杖と違い、これは手放さないようにした。

・高知までは、お接待はほとんどなかった。愛媛、香川では、みかんはくれるは、イチジクはくれるは、ワッフルはくれるは、アメはくれるは。駅のコンビニで朝食を買っていると、遍路さん使ってくださいと500円もらった。他にも、飯屋で明らかに大盛りにしてくれたり、優しい人にたくさん会った。南無大師遍照金剛。ありがとうございました。ミカンは、無人販売所で買うわ、接待でもらうわ、道で拾うわ。だから外国人遍路に会うと、話しかけてミカンをあげた。でも愛媛以降は、外国人はいたが、観光客で団体ばかり。

・スマホのグーグルマップも万能ではない。何人もの人に道を聞いた。分かれ道や、出だしの所で間違えると、そうとう時間をロスするからね。1日30人として、千人弱の人たちを話したことになる。親切なのは、年配の女性とおばあちゃんだ。どこから来たの?へー横浜から。歩いているの。偉いね。話し込むこともしばしば。あと、他の遍路さん、宿の人、飯屋の人、外国人。ほとんど引きこもり状態で、仕事以外は人と会わない生活が一変した。この3年、英語を使うことなど全くなかった。急に脳が活性化し、対人交流が劇的に増えたせいか、最初の数日と最後の数日は、なかなか寝付けなかった。

・体重は3.5kgは減少し、血糖値は劇的に改善した。朝は5時起きで、宿に着くと洗濯、風呂、飯で早く寝た。毎日が楽しくて、疲れが累積することは無かった。疲れは、四国の優しくて美しい自然が癒してくれる。

・荷物が多すぎることが直ぐに分かり、2日目に郵便局で自炊道具や余分なものを送り返した。ただで泊めてくれる善根宿が全滅していることが分かり、20番・鶴林寺に行く前に寝袋と下に敷くシート、蚊取り線香と虫よけ、2つあるものなどを送り返した。10gでも軽くしたい。ここの山道では、カートを畳んでリュックに入れた。山道は、12番ほど険しくはないが長かった。でも凄い景色だ。仁淀川の青い流れは、息をのむほど美しい。
 善根宿はなくとも、屋根付きのベンチや小屋はある。中にはシャレた建物もあった。計画的にやれば、野宿で宿代を節約することは出来る。外国人の歩き遍路の若者で、野宿をする連中は多い。簡易テントを持参している人もいる。

・自分は、初日は善根宿に泊まったが、ここはただ鍵を開けてあるプレハブだった。トイレはクモの巣だらけで、同宿者の青年が何度電話をしても、管理者とは連絡がつかなかった。つまり、たまたまほったらかしにしてあったのだ。その後は、電話が通じないか、通じても止めていた。

・お寺には泊まらなかったが、82番・根香寺近くの禅宗の喝破道場に泊まった。質素で静かな食事。朝の座禅。清潔な部屋と、明るくて広々とした風呂。座禅は、目を半眼、少し開ける。目を閉じれば瞑想だ。自分は、瞑想をしたが、瞑想力が落ちている。ビジョンがクリアーにならない。意味が分からない人は、前に書いたミャンマーのメディテーション・センターの話を読んで欲しい。
 75番・善通寺は大きなお寺で、東院と西院に分かれている。西院にある御影堂の地下には、約100メートルの通路をめぐる「戒壇めぐり」がある。 500円かかるのだが、真っ暗な中を壁に手をつけて歩くんだ。これはやった方がよい。暗闇に入ると、前方とおぼしき闇に中に、広い部屋や階段のビジョンが現れた。面白い。

・車を停めて、道を教えてくれた人。道を聞いたら、乗せてくれた軽のおじさん。ありがとうございました。あれで、2時間半の徒歩が省略できました。アメやチョコをくれた、パン屋のおかみさん。荷物を預かってくれた雑貨屋のおばちゃん、杖やパンフをくれ、翌日に登り口まで送ってくれた親父さん。本当にありがとう。お世話になりました。他にもたくさんのご接待や好意を受けました。忘れません。ありがとう。

・道中で、シャレたパン屋さんがあった。中に入ると、可愛らしい店員さん。その場で食べるのと、翌朝・翌昼用に購入した。だけど、一日経ったシャレたパンはボソボソで、朝も昼も気分はボソボソ。

・山寺の下りで、お遍路さんに声をかけて追い抜いた。私は、ひざが悪いんです。どうぞお先に。麓で休んでいると、その遍路さん、杖とスキーストックのようなのと、両手を使って歩く。真っ白いひげで、これほど決まった遍路姿も珍しい。かっけーな、仙人みたい。でも話をすると、昨日紹介してもらって泊まったホテルが、素泊まりで8千円もして高い、とかどうも俗っぽい。写真を撮らせてもらおうと思ったが、止めた。見た目は仙人、中身は俗人。話さなければ良かった。

・納札には、住所と名前と日付を書く。年齢を書く欄があるのもあるようだが、自分のにはなかった。日付はx月吉日でよい。住所は、区までで良い。裏は空欄だが、願い事を書いても良いそうで、途中から生まれたばかりの初孫の成長と健康を祈願し、xxちゃんスクスク、と書いた。一日で5寺を廻ると10枚必要だ。せっせと書き足さなければならない。
 納札は、1~4回が白、5~6回が緑、7~24回が赤、25~49が銀、50~99が金で、100回以上が錦札なんだそうだ。ギンギラギンの札を、もったいぶって配っていた車遍路の爺さまがいたが、あれはちょっと見苦しい。回数は、自己申告だからな、というつぶやきが聞こえた。

・居酒屋でラーメン、焼き肉屋でクッパ、飲み屋でビールも頼まずに、おにぎりセットと魚のマリネを頼んだ。近くにコンビニも他の飯屋もなかったんだ。夕食を7-800円に抑えるためだ。
 焼き肉屋では、後で店長が出てきて、わっお遍路さんだ!おい、と若い店員に、お遍路さんじゃないか。そう言われてもネー。俺は、絶滅危惧種か。子供のころに見たギンヤンマか、ゲンゴローのように言わないで。徳島県に行けば、まだまだいるよ。お遍路さん、どうぞとミカン2ケくれた。リュックの中に10個くらい入っていたが、南無大師遍照金剛。あなたに良いことがありますように。
 飲み屋では、まだ宵の口でカウンターに客が一人。おばさんが店のママに、盛大にグチをこぼしていた。ごめんね、気勢を削いじゃって。名前の知らない小魚(釣り好きの自分でも知らない)のマリネは、思わず唸るほど美味かった。他にも美味しそうな品書きがいっぱい。ごめんね、貧乏な遍路で。
 ちょっと待って、お遍路さん。ママは裏に引っ込むと、イチジクを2個持ってきてくれた。南無大師遍照金剛。あなたに幸せなことがありますように。これを言うと、みんな笑顔になる。
 でもコンビニでおばさんから、どうぞと500円を頂いた時は、驚いでとっさに決めゼリフが出てこなかった。おばさんは、逃げるように奥に行ってしまった。そちらに向かって、ありがとうございましたと頭を下げるのが精一杯。何だかレジのお姉さんも一緒に頭を下げていた。

・そうそう、そういえば夜空が綺麗だったな。冴えたオリオン座を、海辺で街中で何度も見た。山の中は静かで、シーンとしている所が何度かあった。あの静寂は、得難いものだ。鳥は、ちょっと開けて明るくなったところで鳴く。
 9月末~10月の初めは、最後のツクツクホーシが鳴いていた。秋の虫の鳴き声は、それほど大きくはなかった。帰宅して、家のそばでもそうだ。今年の猛暑で、虫たちの元気がないのかもしれない。

・道路標識に文句を言いたい。xx寺まで6.2km、徒歩1時間って何!登山マラソンじゃあるまいし、100%の登り道を6.2km、1時間で行けるかよ。行けるならお前、行ってみろよ。
 ある寺へ向かって歩いた。前半はずっと下りの山道だった。2時間以上続く下りだ。そんなに急な道ではないから、足指は痛くない。これが反対の登りだったらと思うとゾっとする。
 やっと平地の線路に出た。グーグルマップで調べると、経路17分とある。あっ楽勝!ところが、30分歩いてまた見ると、あと16分。徒歩でなく、車の設定になっていた。徒歩で検索し直すと、1時間19分になった。

・良い宿は、割合としては低い。どーでもよい宿、ちょっと不衛生な宿、おかみが不愛想で、朝挨拶をしても出てこない、飯がこんなの。こっちの方が多いんだ。ある宿では、大きな部屋をアコーディオンカーテンで仕切った部屋に通された。隣の声もT、Vの音も丸聞こえ。隣は二人連れで、年配の男が携帯で話しだした。その男、よく笑う。イッヒッヒー。イッヒッヒ。尻上がりの吸い込むような笑い声。よくイッヒなどと発音するよな。まるで、自分は悪党です。近づかない。近寄らないようにと、主張しているようなものじゃん。