いつも愛読させていただいているブログの著者の方に先日会った時に
この本を読んでみてと紹介していただきました。
「花闇」・・・江戸末期に艶やかに咲いて壮絶に散った美貌の歌舞伎の女形
三代目澤村田之助の物語です。
早速借りて読んでいたら、私自身が物語と連動するように体調を崩してしまい、一時読むのを中断。でも、ちゃんと田之助丈の生き様を見届けようと思い直し読み終えました。
澤村田之助は実在の人物で、10代のころから才能を開花させた早熟な歌舞伎の申し子です。
長く生きていれば間違いなく幕末から明治にかけての名優として九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎と並び称されただろうと言われてます。
江戸末期は世情不安定なためかデカダンスな文化が栄え、浮世絵も月岡芳年の残酷絵が売れたりしてました。この残酷絵は私には正視に耐えられません。腕の確かな絵師じゃなきゃ恐ろしい修羅場の絵を描ききる事はできないのは確かで浮世絵の技術は頂点に達してました。また芳年自身も何度も鬱に陥って苦しんだそうです。時代も文化もどこか病んでいました。
当時の歌舞伎は現代では映画や大衆演劇に近いのではないかな。今の歌舞伎はなんだか高尚なものみたいに思われがちだけど(その割には物語は下世話だったりする)、当時はあくまでも庶民の娯楽。そこで観客が喜ぶような演目を工夫して、しっとりした世話物で涙を誘ったり、舞台セットを大掛かりにしてスペクタルな醍醐味を味わせてくれたり、悪趣味スレスレの物語で観客を興奮させたりしたのでしょう。
田之助も持ち前の演技力とちょっと酷薄な美貌で悪婆や折檻される美女の役を得意としてデカダンスの花を咲かせていました。観客に熱狂的にもてはやされたそうです。
だけど20代で脱疽で両足を失う。それだけじゃなく両手にも転移して切断させられたのです。
人一倍プライドが高く、演技への執着の強い田之助はそれでも舞台に出る。観客は紅涙を絞る一方見世物的な興味ももってしまう。やがてお荷物にされてしまい演技の場を失い、気を病み、自ら命を断ってしまう。
34歳でした。
まだまだ美貌の盛りの歳で、運命とは残酷。そう月岡芳年の浮世絵のように。その壮絶さがもう一つの美を生み出す理不尽さよ・・・。
彼の生き様を傍で見てたのは、弟子で世話をしていた市川三すじという青年。冷静で物事に動じない彼は田之助をひっそりと想ってたようです。でもひどく客観的で時に残酷なくらい突き放した目で田之助を見つめている。
彼の冷徹な視線から田之助や歌舞伎の世界が描かれています。
田之助は自の才能を確信して可能性を信じていただけに、どんどん可能性を失っていく自分に焦り苦しむ。彼の断末魔の苦しみは即ち命そのものの舞台への執着の苦しみ。あきらめたくない、あきらめきれない、でも現実は奪われてしまう。本当に読むのが怖くなりました。
物語の最後、田之助と名乗る地方の役者の健気な演技に三すじは泪ぐむ。それは久しぶりに流した暖かい泪だという。
それは新しい形での命の再生。
澤村田之助という名跡は今も受け継がれて、これからも女形の大名跡として受け継がれてゆくでしょう。
その中でも三代目田之助は今も物語や演劇で語りつがれる稀有な存在として生きているのです。
この本を読んでみてと紹介していただきました。
「花闇」・・・江戸末期に艶やかに咲いて壮絶に散った美貌の歌舞伎の女形
三代目澤村田之助の物語です。
早速借りて読んでいたら、私自身が物語と連動するように体調を崩してしまい、一時読むのを中断。でも、ちゃんと田之助丈の生き様を見届けようと思い直し読み終えました。
澤村田之助は実在の人物で、10代のころから才能を開花させた早熟な歌舞伎の申し子です。
長く生きていれば間違いなく幕末から明治にかけての名優として九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎と並び称されただろうと言われてます。
江戸末期は世情不安定なためかデカダンスな文化が栄え、浮世絵も月岡芳年の残酷絵が売れたりしてました。この残酷絵は私には正視に耐えられません。腕の確かな絵師じゃなきゃ恐ろしい修羅場の絵を描ききる事はできないのは確かで浮世絵の技術は頂点に達してました。また芳年自身も何度も鬱に陥って苦しんだそうです。時代も文化もどこか病んでいました。
当時の歌舞伎は現代では映画や大衆演劇に近いのではないかな。今の歌舞伎はなんだか高尚なものみたいに思われがちだけど(その割には物語は下世話だったりする)、当時はあくまでも庶民の娯楽。そこで観客が喜ぶような演目を工夫して、しっとりした世話物で涙を誘ったり、舞台セットを大掛かりにしてスペクタルな醍醐味を味わせてくれたり、悪趣味スレスレの物語で観客を興奮させたりしたのでしょう。
田之助も持ち前の演技力とちょっと酷薄な美貌で悪婆や折檻される美女の役を得意としてデカダンスの花を咲かせていました。観客に熱狂的にもてはやされたそうです。
だけど20代で脱疽で両足を失う。それだけじゃなく両手にも転移して切断させられたのです。
人一倍プライドが高く、演技への執着の強い田之助はそれでも舞台に出る。観客は紅涙を絞る一方見世物的な興味ももってしまう。やがてお荷物にされてしまい演技の場を失い、気を病み、自ら命を断ってしまう。
34歳でした。
まだまだ美貌の盛りの歳で、運命とは残酷。そう月岡芳年の浮世絵のように。その壮絶さがもう一つの美を生み出す理不尽さよ・・・。
彼の生き様を傍で見てたのは、弟子で世話をしていた市川三すじという青年。冷静で物事に動じない彼は田之助をひっそりと想ってたようです。でもひどく客観的で時に残酷なくらい突き放した目で田之助を見つめている。
彼の冷徹な視線から田之助や歌舞伎の世界が描かれています。
田之助は自の才能を確信して可能性を信じていただけに、どんどん可能性を失っていく自分に焦り苦しむ。彼の断末魔の苦しみは即ち命そのものの舞台への執着の苦しみ。あきらめたくない、あきらめきれない、でも現実は奪われてしまう。本当に読むのが怖くなりました。
物語の最後、田之助と名乗る地方の役者の健気な演技に三すじは泪ぐむ。それは久しぶりに流した暖かい泪だという。
それは新しい形での命の再生。
澤村田之助という名跡は今も受け継がれて、これからも女形の大名跡として受け継がれてゆくでしょう。
その中でも三代目田之助は今も物語や演劇で語りつがれる稀有な存在として生きているのです。
お忙しい中訪問していただきありがとうございます。
私こそ新しい視点、知識をレッドさんからいただいて知らなかった世界の扉をそっと開いて見る機会をいただいてます。
それゆえにブログとはなんて刺激的な場なのだろうと魅力を感じました。これまでなら知り合いになることはない方々と同じ話題を共有している事でつながり、そこからさらに新しい視点を見つけることができるので。
ブログに初めてコメントを入れるのも、またブログを開くのも勇気がいりましたが、まずは1歩を踏み出す事の大切さを感じ楽しみながらささやかに挑戦しています。
話は変わって「花闇」の闇がレッドさんは市川三すじの如く光のあたる「花」の栄華盛衰を見届ける者の業と見ている事にまた新鮮な驚きを感じました。
私は花そのものが待ち受ける末路を闇と感じました。それが無残であれ反対側の世界でまた花となる。闇の花という感覚で思ってました。
そして田之助丈と勘三郎丈の関連を言われて、おもわずレスリー・チャン張國榮を思い起しました。この人もまた「絶頂の役者と病」と20世紀の人ですね。誰よりも華やかで大輪の花が鮮やかな印象を残してあっけなく散ってしまった。
そんな花の生涯を見届けて伝えていくには三すじのような人が重要なんだと思います。
とても近い場所にいながら決して花の人に同化しない。新しい時代にも対応する能力も備えている。
花もまたそういう人物を欲していると思ってます。
ライヴの絶頂でそのバンドの辿る道を予感してしまう事・・・私もこの歳になって感じることがあります。若い頃は勢いのある人は永遠だと思っていたのに、そうではないことを少しずつ知ってきたので。今は物語最後の三すじのように暖かい泪で見てしまうことがあります。
そして、かなりお忙しそうですがお体本当に大切に!映画の花を堪能できる年でありたいですね!
昨年は東博に二度もご一緒させていただき、また拙ブログにコメントもいっぱいいただき、ほんとうにありがとうございました。
blueashさんは私が思いもよらないような視点を持っていらして、お話を伺うたびにいつも目を開かれるような思いで刺激されております。
今年もいろいろとお話させてくださいませ。
昨年暮れに中村勘三郎丈が亡くなったとき、個性も時代もまったく違うのですが、「絶頂の役者と病」という共通点から田之助のことを思い出していました。
あれだけたくさんのひとびとに愛されその死を惜しまれた勘三郎さんと。
「江戸」という時代の美と毒と業と穢れを一身に背負わされ、ある意味「明治」という新しい時代に殺された田之助と。
舞台という場への情熱と執着が人一倍であったろうふたりが、まだなにもやりきらないうちに、途上での死を迎える。
無惨だなあ理不尽だなあと思う一方で、そういう無惨や理不尽があればこそ、盛りの花があれだけ大輪に美しいのだろう、という気がします。
舞台に立つものが不幸であればあるだけ、彼を観る観客は幸せになれる。
すべての表現者に当てはまることでは無いものの、そういうことは確かにあるんだなあと思います。
私は音楽家なり役者なり、いわゆる「板に乗るひと」がやっぱり好きなんですけれども、自分の愛する彼らが辿る道とその果て、みたいなことを、出逢ったばかりのときからもう考え始めてしまう悪い癖があります。
下手をするとライヴの真っ最中にもそういう思いにふっと囚われて、勝手に泣いてたりします(笑)。
でも、無惨や理不尽が山のように彼らを待っているからこそ、自分は(市川三すじのように)劇場やライヴハウスや映画館の暗闇(=花闇)のなかで、彼らの無惨や理不尽から目を逸らさず、花も毒も業も、愛せるだけ愛してやりたいと思っています。
そういう、「客」としての己の業にも自覚的になれた『花闇』でした。
読んでくださってありがとうございました。