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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森220号

2008-05-01 | 101号~200号
       ■こならの森120号■1998.4発行

表紙 「みかも山」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…みずなら……3p
知らんの5つの市/…京かのこ………4p
結婚…阿部さん夫妻…5p
ウーマン慶野かや野さん………6p
現代国語………7p
JC・JOURNAL………8-11p
田中正造…布川……12-19p
タウン情報………20-21p
インフォメーション………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

ウーマン
慶野かや野さん
オカリナのお菓子『田沼の調べ・オカリナの里』を製作した
 慶野かや野さん。

 昭和44年生まれ。日本菓子専門学校を卒業後東京の和菓子店に4年間勤務。その後帰郷し、風月堂で菓子製作に従事している。東京の和菓子店では、初めて採用された女性社員だという。最近では、一頃のような厳しい職人気質も薄らいでおり、場合によっては分量などをメモすることもゆるされたという。
 風月堂では、オリジナルの創作和菓子などを製作。今回のオカリナ菓子の構想は、かや野さんが
オカリナを習い始めた3年ほど前に溯るという。『オカリナは、音のやさしさと音色の変化がよく、そうしたものを味の変化として出したかった。』という。それ以前にもバレンタインに作成したクッキーがありそれが原型になった。それから、いちごあんを使ったお菓子を前々から作ってみたかっ
たからだともいう。
 一般的なオカリナの大きさをそのまま模したのでは、お菓子としては大きすぎてしまう。程よい大きさにするまで何度かやり直し、基本の型を作るまでに時間がかかったという。オカリナにある穴は型抜きでは出にくいので一つ一つ手で仕上げているという。
 いちご味の材料は小麦粉とバターのクッキー生地の中にいちごのつぶつぶあんを入れている。もう一つはココアの生地にチョコチップが入り、あんはミルクあんを使用している。いちごのつぶつぶ感がたまらなく、クセになる人もいるという。


こならの森119号

2008-05-01 | 101号~200号
       ■こならの森119号■1998.3発行

表紙 「山崎家の桜」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…たまねぎ……3p
知らんの5つの市/……カルメン……4p
結婚(誕生)…青木さん夫妻…5p
JC・インタビュー…国分…OCR=6-7p
桜の名木……8-11p
歴史講座 第11回…田中正造……12-19p
インフォメーション97………20-23p
現代国語…せん…24p
両毛神楽物語…天狗……25p
海棠市子の映画評…『HANA-BI』……26p
書評・絵本紹介……27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座 第11回 …田中正造…

直訴の真相
戦略家としての田中正造

 直訴状にはハンコがいくつ押してあるのか

 ここにあるのは直訴状のコピーです。佐野市郷土博物館にありますから、皆さまご覧になっているかと思いますが、そこにはハンコがいくつ押してあるのか。私が見るところでは40は押してあります。もちろん最初の署名捺印というのは必要ですよね。それから一番最後の方もやっぱり押さないと納まりがつかない。それからこれは一枚続きになっているけれども、正造さんが使ったのは本来は6枚の美濃半紙ですね。半紙と半紙ですからつなぎがあり、その所に割り印を押しますね。ですからこれは訂正印ではない、それを抜きますと訂正箇所は34となる。
 よく見ると訂正してあるけれども、判のないところもある。これは正造さんが押し忘れたのか、もう一つは直すのを一度全部やってその時は全てに押したが、天皇を待っていて時間があったのでもう一度読んだら直す箇所が出て来て、その時に判を押さなかったのか。私には分からないんです。田中さんに聞くといっても無理ですから、皆さんと分からない所は考えていきたい。

 直訴状は2種類あった

 直訴状は文章としては2種類ある。レジメの1ぺーじの下のところにある新聞記事に出た謹奏表とこのコピーとはかなり違います。突き合わせて研究していただきたいと思います。
 直訴文の最後はどうなって
 いるか。
 直訴状の最後の日付が明治三十四年十二月十日。新聞の方はそうあります。ところが田中さんが使った博物館にある謹奏には、明治三十四年十二月で日が入っていません。私もうっかりしていたのですが、非常に重要なもの、命懸けの、しかも明治天皇に差し上げようという大事な大事な直訴状に日付がない、十二月で止まっている。こんな事があるのか。どうして日付が入っていないのだろうか。
 日付が入っていない遺言状とか公的な文書などは役に立たないですよね。それよりも大事な直訴状が日付なしなのです。田中さんはそれをもって明治天皇に駆け寄って行く。

 どうして日付が入っていないのか。《日付のなぞ》

 あるとこで宇大の生徒に直訴の説明を行った後、宇大の先生が『なんで日が入っていないんでしょうね』と言った。アッと思ったんですね。私はこれに気が付かなかった、その時返事ができなかったんですね。それで何日も考えた。結論というか、今は分かっていますが、案外見落としている点が実はあるのではないか。
 それから、どっちの直訴状が良いとか悪いとかいうのはおかしいのですが、双方には大事な違いがある。新聞に出た直訴状というのは幸徳秋水が書いて清書したものです。ですから体裁はきちんと出来ています。
 しかし、田中正造が明治天皇にお願いする6項目があるのですが、その中には大事なことが抜けています。ですから正造としてはこれでは駄目だ、というので、あちこち訂正したのだと思います。そして両者には致命的な違いがあります。それについては先に行ってから話します。 レジメに直訴の報道とありますが、こんな風に田中正造は直訴したと知らせが出ています。それで直訴が世間に知られるわけです。ですが、直訴の準備だとか、直訴状をどうしたかということは、新聞報道ではすぐにはつかみにくい。まもなく幸徳秋水の文章だと分かる。

 新聞に掲載された直訴状では駄目だ。

 荒畑寒村の『谷中村滅亡史』にある直訴状というのは、新聞に掲載されたものをそっくり使用したが、本当はこの新聞に掲載された直訴状を使ってしまっては駄目なんですね。滅亡史の中の直訴状を田中正造の直訴状だと思って、何か書くときに、これを使ってしまってはいけない。
 荒畑寒村は『谷中村滅亡史』を書きましたが、結構ウソがありますね。それというのは、『カツ子婦人の元に離縁状を送り』と書いてあります。直訴をすると災いが妻にまで及ぶかもしれないからというのですが、これは歌舞伎かなにかの世界です。全くそれはないのです。田中正造と荒畑寒村は谷中で会ってちゃんと話し合っている。正造は荒畑寒村の本が出たことは知っている訳ですけれども、俺そんなことはしないとは言わなかったようですね。
 それから、『発狂者となし、辛うじて僅かに事無きを得たり。』ともある。これは案外、田中さんは直訴後、気違いだというので許されたという説がまかり通っていますが、そうではない。田中正造は気違い扱いされては困ると言っている。
 秋水は直訴状の中の初めの方に狂人の狂の字を使っていますが、正造はわざわざそれを消してしまう。それは正造の使った直訴状を見ていただければ分かります。政府の方も確かに狂人としてはいないですね。警察医を呼んでこの人物、明治天皇に迫ろうとした人物の精神状態を調べた。精神鑑定を行っている。気違いではないということは警察医の方で証明しています。でも狂人扱いの通説が来ている。荒畑寒村など正造に話を聞いていながらもそう書いている。

 間違いを平気で書いている

 もっとひどいのは木下尚江です。一番田中正造を知っている者、だれもそう思っていました。そして、この人は文筆の人ですから、田中正造の伝記を書きました。従来では田中正造を書く場合は木下尚江のものによるか、栗原彦三郎の『義人全集』といったものが定本になっています。ですから、この二人が間違っていればみんな違ってきてしまう、違った田中正造になってしまう。今に思えば多分に木下尚江式の田中正造になっていて、本当の田中正造ではない。まして栗原さんなどは、あの人の勝手な考え、主義主張を田中さんはこう言ったとすりかえて、自分の考えを出しています。ですから、義人全集は特に気をつけて読まないと、義人の『義』が正義の義でなくて偽りの『偽』になってしまう恐れが出てくる。あの本は良い本ではありますが、そういう点に気をつけなければいけない。
 木下尚江ならいいかといいますと、ここでも間違いを平気で書いている。その文をみて下さい。そして、さがしてみませんか。
 それは、通信社がその日のうちに直訴状を報道して来たとあるが報道なんかしてきっこありません。なぜかというと、直訴状は取り上げられてしまったのですから。警察の方へいってしまって、正造の元へ帰ってくるのは13日になってからです。
 ところが木下尚江は10日に、毎日新聞にいると、正造が直訴したという知らせが入って来た。そうこうするうちに通信社から直訴状が送られて来た。と言っている。こんなことは絶対にありません。直訴状の筆者が幸徳秋水だということも、半山の方から知ったことなので、こういう事実も全くない。 しかし木下尚江はそういうふうに書いている。他の人は知らない、俺しか知らないからということなんでしょうか。もっとも大正10年に書いた『田中正造翁』には、そんな風には書いてありません。だんだん自分で作り替えてしまう。ですから、木下尚江の文章で田中正造の直訴の真相を語ろうとしたら全く違うものになってしまいます。