KONASUKEの部屋

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第2回笠間歴史フォーラム「時習館とその時代」ー詳報その2ー

2016年12月03日 | 笠間
第2回笠間歴史フォーラム「時習館とその時代」の様子。
詳報その2です。
11/6(日)13:00~16:00、笠間小学校の体育館で行われました。
「時習館」は、笠間小学校の前身、笠間藩の藩校です。
笠間小学校の敷地内に、「時習館記」碑があります。
前回、「平成27年度 笠間城跡保存調査事業について」のことは、レポートしましたね。

当日、他に講演が二本。
①「江戸の学びと教育遺産~時習館の系譜~」
②「『時習館記』碑を読み解く-『弘道館記』碑との比較において-」

内容は高度で、ついて行けない部分もあるので、主に時習館の紹介になりそうな部分だけ、かなり、かいつまんでご報告。
講演①の主要な柱の一つである「近世日本の教育遺産群」については、下記を参照ください。
→「水戸の日本遺産を歩く」
江戸時代の日本の教育水準は、世界が驚くものだった。
庶民が、お年寄りから子どもまで、文字が読める!
「瓦版」なんて、時代劇ではお馴染みの風景だけど、異国人には驚きだった。
当時の世界では、文字は特権階級の独占物で、庶民が文字を読み書きする必要はなく、実際、識字率は相当、低かったから。
日本の教育水準が上がったのは、根底に戦のない世の中が続いたことがあった。
そして、様々なレベルの学びの場が生まれた。
「時習館」は、「藩校」のカテゴリーに入るワケだね。
以下、時習館の変遷について。
笠間藩最初の藩校は、江戸藩邸内の「忠誠館」。
その30年後、笠間で、儒学者秋元俊郊(しゅんこう)の自宅兼私塾を藩校とした。
「時習館」と命名(初期時習館)。
出典は「論語」。
「学びて時に之を習う亦説ばしからずや」
(まなびてときにこれをならう またよろこばしからずや)
扁額は何と、御存知「寛政の改革」の老中・松平定信!
当時の牧野家の当主たちは、幕閣として改革に携わっていたので、その縁からでしょうね。

ちなみに、水戸の「弘道館」も、論語から命名されています。
赤線で囲まれた二間が(初期)時習館。
手狭となり桜町に移転(桜町時習館)。
当時は、儒学中心の藩校だった。
水戸学の影響も強かったようです。
やがて城下に、医学研究所も創設。
要は、蘭学が取り入れられた。
さらに武芸教場「講武館」を創設。
そしてそれらが統合されて・・・
「統合時習館」が誕生した。
ここまでの流れを、地図で確認。
統合時習館は、現在の笠間小学校付近にあったことが分かります。
統合時習館の平面図。
水戸の「弘道館」と類似しているようです。
儒学・医学・武芸・宗教が一カ所に集まっているあたり。

水戸学の中心・弘道館が、西洋の学問を積極的に取り入れようとしていた、っていうのは驚きです。
「水戸学」って、一般的には、「保守的で時代遅れ」ってイメージが強いんですけど。
それは歴史の敗者としてのイメージなのかも。
実像は、意外と柔軟だったようです。
江戸以前の東洋儒学の学校と教師が
明治以降、西洋科学の担い手となった。
そのため、日本独自の両者の融合、いわば化学反応が起こった。
今日でも、日本人のバックボーンには、儒学の精神が脈々と息づいている。
ワールドカップの後には、自主的にごみ拾いをし
東日本大震災の混乱の中でも、暴動を起こさず、整然と並ぶ。
明治になり、藩校としての「時習館」は途絶えたが。
その敷地は大和田小学校として利用され、
その精神は笠間小学校に受け継がれている。
今年は、時習館開校200年の節目の年。
重要な教育遺産として位置づけ、
地域再発見のきっかけにしたいものです。

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