前回、1995年の東京シティハーフでは右膝故障の中でなんとか完走することができたのですが…。
翌96年秋、再び右膝故障に見舞われランナー人生初の関門リタイアも経験するのでした・・・。
前回の記事はこちらから
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1996年は私のランナー人生の中で新たな活動の場ができました。
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1996年は私のランナー人生の中で新たな活動の場ができました。
会社内でランニングクラブを創設したのです!😆
私は最若手としてクラブ発足の旗振り役となり、4月にメンバー12名により正式に発足したのでした。
秋には私も含むクラブの最強メンバー4名(全員10kmの持ちタイムは40分台)にてフルマラソンの距離を走る駅伝大会(全日本市民駅伝サーキット)に出場しました! それでもサブスリーは達成できませんでしたが…😁)
また、私はこの4月からは大学の夜間部に入学したため社会人学生として新たな生活もスタートしたのであります。
そんな中で迎えた同年秋からのシーズンは非常につらいものとなりました…。
10月に再び右膝を故障したのです・・・😵
11月には横浜マラソン(現在の横浜マラソンのハーフ時代の大会)に出場したのですが、この横浜は当時の制限時間が1時間45分と東京シティハーフよりもさらに厳しかったのです!😱
(当時の市民マラソンとしては最も厳しい制限時間だったのではないかと思います)
私は95年の東京シティハーフと同様になんとか完走を目指して出走したものの、やはりそうは簡単には行きませんでした…😰
5kmくらいから膝痛がひどくなり10km過ぎで走行不能状態となってしまいました😞
そして16km関門にて、
私は95年の東京シティハーフと同様になんとか完走を目指して出走したものの、やはりそうは簡単には行きませんでした…😰
5kmくらいから膝痛がひどくなり10km過ぎで走行不能状態となってしまいました😞
そして16km関門にて、
無残にも到着直前にて関門時間を迎えてしまい目の前でゲートが閉まる瞬間を見てしまったのです…😭
ここからは収容バスに乗って山下公園へと戻っていきましたが、バスに乗っている時は悔しくてたまりませんでした・・・😢
結局、故障は翌97年春まで長引いてしまいこのシーズンは不本意なままに終わってしまったのでした。
そんな中でもこの96年は新年に転勤してきて後のクラブの絶対的エース、そして生涯最大の師匠・ライバルにもなった先輩との出会いもあり
私は“決定的な転換期“を迎えることになるのでした・・・!😆
(続く)
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