今回は浄土宗祖の法然さん。
そもそも浄土教は二世紀後半
に中国に伝えられ、浄土経典が中国語に訳されて普及しました。
東晋時代に有力なお坊さんにより教義が確立され、唐時代に教義が展開され、末法の時代の救済の教えとして、広く民衆の間で流行しました。
法然さんの出自は、平安時代末に美作(岡山県)の久米郡稲岡庄の
豪族の子に生まれます。
9歳の時に、豪族同士の争いで父親を亡くします。
今際の際に復仇を思う事なく、仏門に入り菩提を弔う様に遺言します。
その後19歳で比叡山に登り、僧となります。
4年後、黒谷の慈眼坊叡空の元で学び、師から法然房の房号を受け、源空と名乗ります。
この師の元で浄土教を熱心に学びます。
浄土教信仰の論拠や実証を求めて、諸宗の高僧に教えを請い、一切経の通読も数回に及びます。
やがて、その学識で広く山内に知られる様になり、知恵第一の法然房と呼ばれます。
浄土信仰を深めて行きます。
25年の黒谷の修行を終えて、世間に出た法然は脚光を浴びて行きます。
世は源平争乱直後の頃でした。
文治2年(1186)法然は、顕真(天台僧)に招かれ専修念仏について、議論を闘わせます。
世にいう「大原問答」です。
この頃から法然の名声は高まり、前の関白九条兼実とその娘宜秋門院が法然の得度を受けて出家し、その人気は絶頂に達します。
親鸞の入門もこの頃でした。
人気の高まりは既成教団の敵視の的となります。
元久元年(1204)10月、延暦寺の衆徒が法然らの念仏停止を天台座主に訴えます。
この時法然は弾圧を避けようと、門弟を集めて自戒の七ヵ条を作って、他宗派への攻撃や論争を戒めました。
更に悪い事が重なります。
翌建永元年(1206)暮れ、法然の弟子で美男の噂の高い安楽と住蓮が、東山鹿ヶ谷の草庵で念仏の会を開くと、後鳥羽院の女房数人が出席しました。
女性に人気絶大の僧達です。巷に女房が二人の僧達と密通したと噂が広がります。
これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、上皇は念仏の輩はみな風俗壊乱の元兇と見なされて、二人の僧は処刑されます。
建永2年(1207)追及の鞭は教団トップの法然に及びます。75歳の彼は藤井之彦という俗人に戻され、四国に流罪となります。
配所(讃岐)への途中にも各所で念仏を説いて行きます。
この年の暮れに、やっと赦免が叶いますが、5年後の建歴2年正月から床に伏し、25日に亡くなりました。
迫害の生涯でした。
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