国家のせい、政治家のせい、県のせい、市のせい、教育委員会のせい、会社のせい、学校のせい、先生のせい、友だちのせい…自分がみじめな生活をするのは、結局は他人のせい、と思い込む精神文化が、定着しようとしている。
孔子は「吾、日に吾が身を三省す」と、言っている。
「論語」の中で名高い一文である。
何もいちいち三回と決めた訳ではない。
が、孔子は日に何度となく、自分を内省した。
彼は他人をチェックしたり、検討したりしなかった。
自分の心の中を、自分自身で十分に吟味した。
そして、今日よりは明日、明日よりは明後日と、新しい自己を充実させて行った。
自分の不幸を他人のせいした所で、他人は自分の思い通りにはならない。
それよりは、自分自身を省みて、自分の命の光を輝かせる様に励み、努める。
自分が北極星の様に光れば、自分は動かずとも、周りの沢山の星は巡る。
「禅者は灯台のごとし」。
これは禅語である。
安谷白雲老師は、座禅の時にこう説いた。
「みなが動かずに座禅しておると、自分は何もしていないと、思うかもしれぬ。
が、そうではない。座禅していると、自然に悩みや苦しみが脱出して行く。
すると、本来から有る自分の命の輝きは、座禅を組むごとに増大する。
何も取り立てて社会活動はしなくても、自分の精神が修行によって、灯台のごとく輝けば、自分の命の光で、闇を走る多くの船人を救う」…と。