爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

人のせいにしない

2021-11-30 13:48:23 | 日記
国家のせい、政治家のせい、県のせい、市のせい、教育委員会のせい、会社のせい、学校のせい、先生のせい、友だちのせい…自分がみじめな生活をするのは、結局は他人のせい、と思い込む精神文化が、定着しようとしている。

孔子は「吾、日に吾が身を三省す」と、言っている。

「論語」の中で名高い一文である。

何もいちいち三回と決めた訳ではない。

が、孔子は日に何度となく、自分を内省した。

彼は他人をチェックしたり、検討したりしなかった。

自分の心の中を、自分自身で十分に吟味した。

そして、今日よりは明日、明日よりは明後日と、新しい自己を充実させて行った。

自分の不幸を他人のせいした所で、他人は自分の思い通りにはならない。

それよりは、自分自身を省みて、自分の命の光を輝かせる様に励み、努める。

自分が北極星の様に光れば、自分は動かずとも、周りの沢山の星は巡る。

「禅者は灯台のごとし」。

これは禅語である。

安谷白雲老師は、座禅の時にこう説いた。

「みなが動かずに座禅しておると、自分は何もしていないと、思うかもしれぬ。
が、そうではない。座禅していると、自然に悩みや苦しみが脱出して行く。


すると、本来から有る自分の命の輝きは、座禅を組むごとに増大する。

何も取り立てて社会活動はしなくても、自分の精神が修行によって、灯台のごとく輝けば、自分の命の光で、闇を走る多くの船人を救う」…と。





「死」を嘆かない

2021-11-29 19:23:58 | 日記
仁愛の心で生きるという事は、花火の様に一瞬の輝きではなく、谷川の流れの様に、絶え間なく人を優しく思いやって行くという事だ。

「自分は、どう死ねばいいのか」と、自分の死に方を考えておけば、それまで「どう生きるか」が分かる…という意見もある。

が、では「どう生まれたらいいのか」を考えて、この世に生まれて来たのであろうか。

人間は宇宙の生成力によって生まれ、命は自然に尽きて行く。

人は歳を取るに連れて、手足が不自由になったり、寝たきりになったりしてしまう。

「どう死ねばいいのか」などと考えた所で、自分が考えた様に上手くはいかない。
「死して後に已(や)む」。
それよりは、いざ宇宙からお迎えが来たら「貴重な人生を長い間ありがとう」と合掌する事だ。

次に「この世を去るのは寂しいが、自分がいつまでも生きていたら、周りの看病する人はおおいに苦しく、大変な事であろう」と、看病して下さる人の苦心を思いやり感謝して、宇宙の暖かい懐に抱かれて行こう。

「子、川のほとりに在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず」。

孔子がある時、川のほとりに居て、流れる水を眺め、弟子たちに言った。

「死んで行く人はこの川の流れの様に、昼となく夜となく、どんどん逝ってしまう。そして、決して二度と帰っては来ない」。

孔子は、人の死を嘆いてこんな事を言っているのではない。

悲しみの言葉でもない。

二度と帰らぬ生命であるから、毎日を苦しみ悩んで生きて行くのを止めて、楽しく豊かに明るく生きて行く工夫が欲しい…と。




先に与える

2021-11-29 08:40:39 | 日記
二宮尊徳(1787~1856)先生の所へ、江戸からある商人がやって来て言った。

「いくら働いても、幸福になれない。何とか、生きがいの持てる方法を教えて下さい」…と。

尊徳先生は「ああ、そうか」と言って、その商人を箱根の湯本温泉へ連れて行った。

二人は露天風呂に身を沈めた。

尊徳先生は手を伸ばし、指を開いて、だんだん湯を胸に引き寄せた。

「こうすると、一旦は湯が自分の方へ入ってくるが、手のひらが胸もとにへ近づくにつれて、両脇へ湯が逃げて行ってしまうだろう。逆にこうして…」と、今度は胸もとの手のひらをずっと前の方に伸ばして行った。

湯はだんだん向こうの方へ、逃げて行ったが、何と両脇から胸もとへ湯が入って来る。

「お前さんは、幸福と言うものを自分の為に、掻き込もう掻き込もうとするから、幸福が脇の方へ逃げてしまうのだ。人が幸福になるように尽くしてやれば、いつの間にか自分の胸の中へ、幸福が巡って来るんだね…」と。

「仁者は獲る事を後にす」。

自分が得る事を後回しにして、人の為に尽くす。

これが「思いやり」の基本的な生活態度である。

こういう態度で生きていれば、友も失わないし、自分の命を自分で捨てる様な事は絶対にない。

が、なかなか日常生活では、この気持ちを持続する事は出来ない。

いつでもどこでも、利他の心で生きられる人は、聖人である。

こんな人は現世では、ほとんど存在しない。

が、せめて十日に一度でも、一ヶ月に一度でも、せめて愛する人には仁を実践したい。




「人のため」にも生きる

2021-11-28 17:25:07 | 日記
貴方は一切が自分自身の為になる様に、行動している。

学問をするにしても、自分の為だ。

運動をするにしても、自分の為だ。

旅行をするのも、自分の為だ。

朝早く起きて労働するのも、自分の為だ。

夜寝るのも、自分の為だ。

子供の面倒を見る事さえ、結局は自分の為なのだ。

自分は自分の為に生きている…。

それは素晴らしい事なのだ。

そこで、その自分の為に生きる人生を、もう一つ深めて生きる為には、自分の為に行動している、その根元的な「行為者」は決して自分ではなく、宇宙の生成力、つまり天徳の力によるという事を発見する事なのだ。

天徳は、私がオギャーと生まれてから今日まで、空気を鼻や口を通して肺までしっかり引き入れ、また間段なく体外へ放出してくれた。

天徳は「自分の為」に尽力してくれた。

「徳を以て徳に報いん」と、孔子は言う。

人間も宇宙の心の様に「自分の為」にだけ生きるのではなく、「人の為」にも生きる事だ。

自分の栄達出世の為、意欲的に仕事に取り組んでいる姿は、その努力という点だけでも、人として大いに評価されていい。

注意しなくてはならない点は、地位を得たり、出世したりすると、責任がぐーんと重くなるという事だ。

廻りの人の信頼を裏切らない為に、ますます「自分がやらなければ…」と、自分のカラの中に入る。

その時妻への愛も、子供たちへの情も、友への思いやりも、すっかり忘れてしまう。

そうなると、出世したところで、一番大切な愛を失う。

天徳の心とは人を愛する情である。
妻や子や兄弟や友を無視して、生きがいはない。




言い訳をしない

2021-11-27 18:43:34 | 日記
礼儀と仕事の能率は、ぴったりと一致する。

礼儀知らずの人間が集まって、わいわいがやがややっていたのでは、どんないいアイデアを持っていた所で、何の実行も出来ない。

人の上に立つ人は、いつもしっかりと礼を守る余裕を持って欲しい。

自分の主義だけを、しゃにむに押し通す事ばかりせず、たまには一歩譲って、お互いに敬愛の心を表すくらいの態度を取れば、もっともっと気持ちよく、いいアイデアが素早く実践されるであろう。

「礼譲を以て国を為(おさ)める」。これは孔子の名言である。

我々は一人として、個人の力で生きているのではない。

誰もが宇宙の命を、みんなと共に生きている。

個人の中の宇宙力に、礼を尽くし合掌し合おう。

また、孔子の弟子に子夏(しか)という人がいる。

彼は孔子より44歳若い人だが、誠意ある弟子であった。

彼の言葉に「小人の過ちやかならず文る」とある。

小人とは利己的に自分ばかりかばい、自分は一つとして思いやりのある行動は出来ず、相手ばかりを不当に批判しやっつける人の事をいう。

そういう小人は、何か過失をすると、いろいろと言葉を飾って、言い訳をするのが極端にうまい。

「文る」とは、自分が意地悪をしているのに、相手が悪いと巧みに自分がいい様に弁解をする事だ。

人の上に立つ人が、人を見下した様に威張り、いざという時に自分ばかりをかばうのでは、困るだ。