爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

年に200人制限の聖地

2021-07-31 17:24:52 | 日記
世界には自然保護などの理由で、立ち入りを制限している場所があるが、じつは日本にも同じように厳しい規制が敷かれている場所がある。

福岡県宗像市に属する沖ノ島もその一つだ。

玄界灘の洋上の周囲わずか4kmほどだが、この島が人の上陸を固く拒んでいるのは、自然保護が理由ではない。

ここは島そのものが宗像大社のご神体、すなわち神域になっているのだ。

南部には田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮(おきつみや)が置かれているが、どうやら大昔よりここは神聖な場所だった様で、古代の祭祀遺跡がいくつもある。

また立地上に朝鮮半島との交易の要所としての役割を果たした。

それにより、中国やシルクロードを経て渡った遺物が多数出土している事から、「海の正倉院」とも呼ばれているのだ。

と言っても、こうした調査が行われるようになったのは、近代になってからだ。

明治時代に陸軍の基地が置かれるまでは、誰も島の内部の様子を知らない、タブーの島だったのである。

島には禁忌が多く、その最たるものが女人禁制だが、ならば男性は気軽に上陸出来るかと言えば、そんな事はない。

島に人が立ち入り出来るのは、沖ノ島現地大祭が行われる5月27日のみだ。

しかも、200名の人数制限が設けられており、事前に申し込みのうえ、抽選によって選ばれた者は、海に入りみそぎ(裸になって体を清める)をする。

さらに、島のものは一木一草一石たりとも持ち出してはならないと言う決まりがある。

今もこうした厳しい管理を行う事で、神の島の神秘性は守られているのだ。






比叡山は僧兵の集う場所

2021-07-30 07:54:59 | 日記
京の鬼門(東北)の方角にそびえる霊峰の比叡山は、滋賀県と京都府にまたがる標高848mのこの山に、鬼門除けとして延暦寺が建立されたのは788(延暦7)年のことだ。

平安時代に多くの有名な僧侶が生まれたこの寺は、今も修行の場所として厳かなムードに包まれている。

だが、延暦寺が強大な権力を誇っていた平安時代後期は今の様な静かな佇まいではなかった。

と言うよりも、そこはさながら武装集団の棲み処(すみか)の様な状態だったと言われているのだ。

時の権力者だった白河上皇は、自分の思い通りに成らないものを三つ挙げていた。

その一つが武装した僧侶、つまり延暦寺の僧兵があった。

当時の延暦寺は近江周辺の殆どの地域の荘園を支配し、権力を持っていた。

しかも、朝廷や幕府をも無視できる一種の独立国の様な存在だったのだ。

不満があれば僧兵が集団となって朝廷や幕府に押し掛け政治機能を停止させたり、他の宗派と武力衝突を起こす事も珍しくなかった。

僧兵の数は、織田信長が京都周辺を制圧した戦国末期には4000人まで膨れ上がり、存在感は増すばかりだった。

そして、1571(元亀2)年にこの横暴な勢力に対して信長は焼き討ちで立ち向かい、3000にも及んだ寺院はすべて焼け落ちたのだ。

延暦寺は火の海となって滅びたが、その後豊臣秀吉らによって再建され、みずからの邪気を祓ったかの様な荘厳な姿で、今日も比叡山から京の町を見守っている。




かつて鞍馬山には魔王が

2021-07-29 20:42:24 | 日記
京都の中心街から北へ上がっていくと、京の奥座敷と呼ばれる静かな場所がある。

鞍馬山は、そこを流れる二つの川に挟まれてそびえる標高584mの山だ。

今でも山岳信仰の地として崇められている鞍馬山には、その霊力に導かれて昔から多くの修行者が訪れている。

山の精霊である天狗もこの山に棲み、のちに源義経と名乗る牛若丸も、この霊気漂う山の中で精神を磨いたのだ。

鞍馬山のご本尊は千手観世音菩薩と毘沙門天、護法魔王尊で、これら三身を一体として「尊天」と呼んでいる。

この中でも最もパワーが強いとされる護法魔王尊は人類を救う為に、650万年に遥か金星から鞍馬山に降り立ったと伝えられている。

その姿は16歳のまま年を取らない永遠の存在であり、天狗の総帥とも言われている。

その護法魔王尊が降り立ったという場所が鞍馬寺にある。

寺の本堂金堂から杉木立の道を歩き、行く手を阻む様に木の根が道全体を覆う「木の根道」を抜けた所に奥の院があり、そこが護法魔王尊が降り立った魔王殿だ。

ここは鞍馬山の一番の聖地である。

どこにいても霊気を感じる事ができる鞍馬山の中でも、一層エネルギーに満ちていると言われるのはその為だ。

大地の霊王である護法魔王尊から発せられる、宇宙のエネルギーを感じる事ができる場所が、古都京都の山奥に存在しているというギャップも、人々を鞍馬山に誘う理由なのかも知れない。





羽田空港の一角に鳥居

2021-07-29 08:45:59 | 日記
東京都大田区の海老取川の河口付近に一つの鳥居が立っている。

しかし、その近辺には神社の境内も、ご神体となる山や森もない。

ここは羽田空港の一角なのだ。

そこには鳥居だけがぽつんと佇んでいるのは、何とも不思議な光景である。

これは、かつてこの場所にあった穴守稲荷神社の大鳥居だ。

海に近いこの辺りでは、度々水害に悩まされていた。

だが、穴守稲荷を祀ったところ、水害がぴたりと収まったのだという。

それ以来、地元の人々はもとより、遠くからも参拝客が詰め掛ける、人気の神社となった。

京浜急行が支線を延ばしたのは、穴守稲荷神社への客を運ぶのが、目的だったほどだ。

ところが戦後に神社の隣にあった空港が、日本を占領統治したGHQに接収され、敷地の拡張の為に神社も強制退去を命じられた。

しかし、大鳥居だけは残された。

じつは、この鳥居は祟るという伝説を持っているのである。
GHQが鳥居を取り壊そうとすると、作業員が死傷する事故が起きたり、関係者が原因不明の病気になるなど、不幸な出来事が立て続けに起きた。

その為に鳥居を壊す事を諦めざるを得なかったのだ。

その後も何度か鳥居を撤去する話が出たものの、その度に航空機事故が発生している。

こうした奇妙な一致は穴守稲荷様の祟りとしか思えないと、人々は噂したのである。

祟りを恐れて手が出せなかった大鳥居だが、1999(平成11)年に旧ターミナルビルの前から現在の場所に移された。

幸い移転は無事に完了し、今も伝説の大鳥居として空港の敷地内に残っている。





別宮で祀られる塩の神様

2021-07-28 07:03:43 | 日記
塩といえば普段の生活に欠かせない物だが、昔はそうではなかった。

今でも神社では祭壇に塩を供えたり、相撲では塩を土俵に撒いたりする様に、日本では古くからの清めの儀式には欠かせないものだった。

そんな神聖な塩を作る事を神事としている神社がある。

宮城県塩竈(しおがま)市にある塩釜神社だ。

ここでは毎年7月に、古代から伝わるという製法で藻塩焼(もしおやき)神事が行われているのだ。

3日間を掛けて行われるこの神事は、1日目に花渕浜でホンダワラという海藻を刈り取り、2日目に松島湾の釜ヶ淵で海水を汲んで神釜を満たす。

そして3日目に、境内に置かれた直径1mの御釜の上に竹の柵が乗せられ、その上にホンダワラが敷かれる。

さらに、このホンダワラで濾(こ)す様にして御釜に海水が入れられ、1時間以上煮詰めてようやく塩が作られるのだ。

この製法を伝えたのは塩釜神社の主祭神である塩土老翁神(しおつちおじのかみ)で、その記録は『古事記』に残っている。

だが、不思議なことに塩釜神社の本殿には塩土老翁神が祀られておらず、どちらかと言うと付属的な存在である別宮に安置されているのだ。

本殿に祀られているのは、塩土老翁神が連れてきたと言う鹿島神と香取神だ。

この二人の神はすぐに去っていったが、塩土老翁神はこの地で人々に漁業や塩づくりを教えたと伝えられている。

そんな謙虚にも思える塩土老翁神は、海上安全から大漁満足、そして国家安泰の神として篤く信仰されてきた。

そして、その製塩法は神事として受け継がれているのである。