日本最大の門徒(信徒)数を誇る、浄土真宗の中興の祖と呼ばれるお坊さんです。
法主(管長・貫首)世襲の浄土真宗に於いても、跡目相続の騒動に巻き込まれます。
特にこの時代は、大変だった様です。
時代は下がりますが、浄土真宗が東西の2派に分かれたのも、跡目相続の折に、時の権力者に采配されたものと言われています。
それだけ影響力の大きな教団だったのでしょう。
父親は第七世法主「存如」。
当時の母は正夫人ではなく、祖母の侍女だったとの事も。
一説によると、貧しい農村出身ではなかったのかとも。
継母の元で43歳まで、部屋住みの苦労をなめます。
父が亡くなった時に、騒動が始まります。
遺言では蓮如を法主に指定していましたが、継母が実子を跡継ぎにと画策します。
九分通り継母の実子に決まり掛けましたが、父親の弟の強力な後押しで、蓮如の法主が決定しました。
この後、本願寺教団の発展を嫉んだ比叡山延暦寺衆徒が、本願寺を襲撃します。
身一つで難を逃れた蓮如は、京付近を転々とし、近江(滋賀県)に御堂を新築しますが、ここも比叡山衆徒に襲われてしまいます。
蓮如に受難は続きました。
その後、北陸路進出を画策します。
吉崎御坊に進出すると、蓮如をを慕い多くの門徒が集まります。
宿坊は200軒にも及び、一大宿場町の様相を呈します。
また、当時各地で内紛が起き、武将同士の衝突も続き、本願寺も巻き込まれてしまいす。
蓮如の意に関わらず、周囲で騒動・事件が続きました。
ストレスも多かったのでしょうね。
精力漢との逸話が有ります。
生涯5度の結婚をし、通算13男14女の計27人の子供を設けています。
さらに73歳から84歳まで、ほとんど毎年子供を作っていたのとも。なんか凄いですね。
明応8年(1499)3月 85 歳で亡くなりました。
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