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さて、今回は天台宗祖の最澄さんです。
最澄の家系は、中国の元帝王の累計と言われています。
帰化人だったんですね。
父親は近江(滋賀)の大津郡古市郷(大津市)に住んでいました。
熱心な仏教信者だった様です。
自宅をお寺にまでしていた様です。
子宝に恵まれ無かったんでしょうか、比叡山に草庵を結び、祈願を掛けました。
そこで授かったのが、後年の最澄でした。
12歳で出家し、延暦4年(785)19歳で東大寺の具足戒を受け、正式な僧侶となります。
これより、一般の僧にも有りがちな世の無情を感じて、比叡山に籠もります。
12年の修行の後、この修行が認められ、華々しい活躍の場が準備されて行きます。
最澄の修行に宮廷の僧達が注目していました。
山を降りた最澄は、宮中十禅師に登用されます。
更に南都六宗の著名僧を比叡山に招き、法華経の講義を開きます。
ついで延暦21年に、和気清麻呂の子の広世に認められ、自寺に招かれ法華の講義を開きます。
和気広世は桓武天皇の寵を得た実力者でした。
やがて広世の知己を得た最澄は、桓武天皇の特使(国使)として、遣唐船で唐に渡ります。
その時に、後のライバルとなる空海も留学生として、乗っていました。
滞在8ヶ月で中国の天台法華の法門(教え)を受け継ぎます。
ここで最澄は天台宗門の第八祖となり、日本でも天台宗開祖として、栄光の座が待ち受けていました。
翌延暦25年(806)朝廷から天台宗創立の勅許がおります。
しかし、この3月に最大の庇護者の桓武天皇が崩御します。
これを境に、嵯峨天皇の寵を受けた空海が頭角を現わし始めます。
弘仁4年(812)最澄と空海の二人の仲が険悪化します。
最澄の仏書借用の求めを空海は拒絶し、最澄の弟子の泰範が天台を離れ真言に走ります。
この時の経緯は「理趣経」の経典を借りて読むだけでは、仏の境地に達する事は出来ないからと、断ったとされています。
また泰範は真言の教えに触れ、天台の教えでは悟れないと実感し、真言の門に下ったと言われています。
空海と訣別した最澄は傷心を抱いて、関東へ行脚します。
今までエリートの歩んで来た最澄は、民衆の直の声を聞く事により、新たな活力を得ます。
天台宗の組織も地方に広がって行きました。
旅から戻った最澄は、大乗戒壇の独立運動を始めます。
それまで僧侶になるには、必ず南都六宗の戒壇を登らないといけなかったのに、比叡山独自の戒壇を設けようとしました。
彼の存命中には果たせませんでしたが、没後7日目に朝廷より許可が下りました。
最澄50歳の没後の事でした。
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