Ken坊の趣味と日常と仲間のページ

平凡なことを非凡に、非凡なことを平凡に書き綴る、
乱入大歓迎のブログ。

482. たまには考える。。。むずかしい (´Д` )

2013-02-04 | 雑記

最近盛んに取りざたされる「体罰」という言葉にしっくりこない。

断っておくが、僕は体罰を肯定する者ではない。
ただ「体罰」ってなんだろう?と思う者だ。

体罰という暴力はダメだが、言葉による暴力はある程度許容されるのだろうか?
そんなワケはないだろうと思う。

命懸けのオヤジのゲンコツと心無い言葉。 どちらの罪が上だろうか?
真に許されないのは人の尊厳を無視した ”暴力による指導” なのではないのだろうか?

たとえ未成年であっても法に触れる事をすれば禁固刑をくらう。
極刑という判例もある。 それって体罰じゃないのか?
法律ならば体罰はOKなのか?

言葉でもフィジカルコンタクトでも、いじめと指導、体罰とスキンシップの
間に明瞭な線を引くのは極めて難しそうだ。

不幸な事件を事実として報道する事はできるが、
当事者達の間に有った”真実”はわからない。

ずらずらと書いたが、Ken坊が「体罰」という言葉に釈然としない理由はこんなところだ。

長くなるが、最近興味深い記事を読んだ。
興味ある方はご覧になってみては? しかし色んな意見があるものだなぁ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kanekotatsuhito/20130201-00023301/

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 481. 昇段審査 | トップ | 483. 受験 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Ken坊さん (すろうはんど)
2013-02-05 00:31:05
これは非常にむつかしい問題。

一側面でいうと、何かしらの行為の意図が100%相手の”育成”や”愛情”を意識したものあればまだ許容かも。その代わりその意図が相手に伝わって想いが共有されていたらの話。

行為に少しでも”私利私欲”、”相手へのストレッサー意識”、”相手への侮辱”等等の想いが含まれればアウト。これを相手に伝えたら、明らかに”育成”や”愛情”の意識ではないもんね。

やはり行為そのものの前に、双方のコミュニケーション、信頼度合が大切ですね、結局。

いずれにせよ、時代の流れの中でこれを旨く解釈していくことはむつかしいと思います。(あくまでも私見ですが。)
返信する
すろうはんどさん (Ken坊)
2013-02-05 00:41:08
そうなんです。
体罰=フィジカルな打撃
とうい単純な定義で良いのか?という点に疑問を感じます。
もっと広義で暴力という物を考えないと、状況は変わらない気がするのです。
柔道の選手は多少殴られたって屁くらいにしか思いません。
なにか違う次元の暴力行為があったのではと思えるのですが、
真実は当事者にしか分からないでしょう。
返信する
体罰、暴力・・・うーん (ドアかわ)
2013-02-06 10:54:41
大前提はやっぱり双方の信頼かと思う。愛情がなければただの暴力・暴言・いじめだと思う。相手を信頼してるのであれば日常茶飯事的な「殴る」だの「怒鳴る」だのって起こらないと思うんだけど・・・・。桜ノ宮にしても女子柔道にしてもよっぽどの「暴力」だったんだろうと思う。それは「恐怖」でしかないもんね。指導者が力にモノ言わせてあぐらかいてたらアカンよねぇ。
返信する
ドアかわさん (Ken坊)
2013-02-06 15:15:08
大前提は、双方の信頼と愛情・・・同感です。
桜ノ宮にしても女子柔道にしても、実際に指導者を擁護する生徒・選手もいる様です。
適切な指導方法は人によっても変わるという事だと思います。
「行為」という表面上の事実にとらわれると、本質を見誤る恐れが有りそうです。
指導法に絶対的な正解は無いように思えます。
ただし、言葉でも体罰でも、ペナルティによる指導は僕も反対です。
返信する

コメントを投稿

雑記」カテゴリの最新記事