2018年11月26日(月)晴
穏やかな日でしたが、国会は穏やかではない様相。出入国管理法改正案を明日にも委員会採決するのでしょうか。
各新聞社、TV出演のコメンテーターのいずれも時期尚早と述べています。枠だけ作って、あとは行政にお任せ、とは国民を馬鹿にし過ぎているのではないでしょうか。安倍のやりたい放題のこの暴走でも、国民の40%あまりが支持するのでしょうか。
昨日は上野の東京国立博物館(以下東博)「特別展京都大報恩寺快慶定慶のみほとけ」に行ってきました。東博での特別展はチケットを買うにも長蛇の行列、長時間館外で待たされ、やっとのことで展示館内に入れても人の頭頭・・が常ですが、今回はすべて待ち時間ゼロ、展示会場もゆったりとり鑑賞できました。
このお寺の通称が釈迦堂というので、、、恥ずかしいのですが・・・有名な清涼寺式釈迦如来像の釈迦堂だとばっかり思って入場しました~~(笑ってください)
さて、大報恩寺(通称・千本釈迦堂)のピッカピカの釈迦如来像を初めて観ました。ほとんどお厨子の中にいらっしゃったということでホントきれいでした。作者は快慶さんの高弟の行快さんという仏師さんです。このお釈迦様のお顔の丸みは確かに運慶さんや快慶さんの仏像の系統ですね。
釈迦如来像は大き目の展示会場の真ん中に位置し、周囲は快慶さんの(釈迦)十大弟子が大きく丸く囲むというレイアウトでした。快慶さんの彫刻は如来形か菩薩形しか観たことがなかったような気がします。初めて人間の姿の彫刻を観ました。この十大弟子は小ぶりだけど凄みを感じる彫刻でした。ですが、阿難陀立像のお顔が実に悟りを開いたかのごとく彫られていました。阿難陀(以下サンスクリットのカタカナ表記アーナンダと書く)は今回の展示の目録の説明に「お釈迦様の話を一番たくさん聞きました」とあります。たしかにアーナンダはいつも釈迦のそばにお仕えしていましたが、悟りを開くには程遠い人物に思われます。というのも、釈迦は死ぬ1年前に生まれ故郷に向かって旅をします。その時のようすが、大般涅槃経に書かれています。そのお経のパーリ語(インドの地方語)原典の一節にアーナンダが釈迦へ次のように質問します。「サーハルという修行僧がナーディガーでなくなっております。その死後はどうなるでしょうか?・・・」、釈迦は「アーナンダ、人の死ぬということは不思議ではない。その都度私のところに来てその死後のことを聞かれては実に煩わしい・・・・・・・・」質問の内容は違いますが、どの質問も、釈迦の言葉を十分理解していなかったようです。また、十大弟子の舎利弗は険しい顔に彫られてますが、もっと穏やかなお顔でいいのではと思います。釈迦も影響を受けるほど悟りが進んでいたように大般涅槃経に書かれています。
快慶の彫刻家としての十大弟子は実力を感じますが、仏典との関係を考えたひと時でした。
定慶の六菩薩像の1体・聖観音像は光さなければ撮影可でしたので

ヨーロッパはシスティナ礼拝堂以外はほとんど撮影できました(まあ、私が見学したところは多くありませんが)。日本もやっとなのかなと・・・
穏やかな日でしたが、国会は穏やかではない様相。出入国管理法改正案を明日にも委員会採決するのでしょうか。
各新聞社、TV出演のコメンテーターのいずれも時期尚早と述べています。枠だけ作って、あとは行政にお任せ、とは国民を馬鹿にし過ぎているのではないでしょうか。安倍のやりたい放題のこの暴走でも、国民の40%あまりが支持するのでしょうか。
昨日は上野の東京国立博物館(以下東博)「特別展京都大報恩寺快慶定慶のみほとけ」に行ってきました。東博での特別展はチケットを買うにも長蛇の行列、長時間館外で待たされ、やっとのことで展示館内に入れても人の頭頭・・が常ですが、今回はすべて待ち時間ゼロ、展示会場もゆったりとり鑑賞できました。
このお寺の通称が釈迦堂というので、、、恥ずかしいのですが・・・有名な清涼寺式釈迦如来像の釈迦堂だとばっかり思って入場しました~~(笑ってください)
さて、大報恩寺(通称・千本釈迦堂)のピッカピカの釈迦如来像を初めて観ました。ほとんどお厨子の中にいらっしゃったということでホントきれいでした。作者は快慶さんの高弟の行快さんという仏師さんです。このお釈迦様のお顔の丸みは確かに運慶さんや快慶さんの仏像の系統ですね。
釈迦如来像は大き目の展示会場の真ん中に位置し、周囲は快慶さんの(釈迦)十大弟子が大きく丸く囲むというレイアウトでした。快慶さんの彫刻は如来形か菩薩形しか観たことがなかったような気がします。初めて人間の姿の彫刻を観ました。この十大弟子は小ぶりだけど凄みを感じる彫刻でした。ですが、阿難陀立像のお顔が実に悟りを開いたかのごとく彫られていました。阿難陀(以下サンスクリットのカタカナ表記アーナンダと書く)は今回の展示の目録の説明に「お釈迦様の話を一番たくさん聞きました」とあります。たしかにアーナンダはいつも釈迦のそばにお仕えしていましたが、悟りを開くには程遠い人物に思われます。というのも、釈迦は死ぬ1年前に生まれ故郷に向かって旅をします。その時のようすが、大般涅槃経に書かれています。そのお経のパーリ語(インドの地方語)原典の一節にアーナンダが釈迦へ次のように質問します。「サーハルという修行僧がナーディガーでなくなっております。その死後はどうなるでしょうか?・・・」、釈迦は「アーナンダ、人の死ぬということは不思議ではない。その都度私のところに来てその死後のことを聞かれては実に煩わしい・・・・・・・・」質問の内容は違いますが、どの質問も、釈迦の言葉を十分理解していなかったようです。また、十大弟子の舎利弗は険しい顔に彫られてますが、もっと穏やかなお顔でいいのではと思います。釈迦も影響を受けるほど悟りが進んでいたように大般涅槃経に書かれています。
快慶の彫刻家としての十大弟子は実力を感じますが、仏典との関係を考えたひと時でした。
定慶の六菩薩像の1体・聖観音像は光さなければ撮影可でしたので


ヨーロッパはシスティナ礼拝堂以外はほとんど撮影できました(まあ、私が見学したところは多くありませんが)。日本もやっとなのかなと・・・
