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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

いらしてくださってありがとうございます。
晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

奈良へ2泊3日 吉野山其の一

2010-05-15 22:26:03 | 歴史
2010年5月15日(土)晴

よく晴れましたが、乾燥しているのでしょうか、じっと座っていると寒い感じがします。

奈良へ行ったのは1月以上前ですが、まだ引きずって書いています。

今回の奈良行きは「平城宮を見たい」と、「これから10年間、大修理に入ってしまう薬師寺の塔の写真を境内ではなく勝間田池(大池)からの遠望を撮りたい」でした。そのほかの予定なしで、あとは成り行き次第で出発しました。
往路の新幹線でタヌキが「吉野へ行こう」タヌキは何回か行っているようですが、桜の季節は経験がないようです。コッコーは「そう、いいわよ、、、」 本当のところそれほど乗り気ではありませんでした。「高野山ならNOだけど、吉野なら電車を下りた後、それほど大変ではないからいいわ」桜の季節の高野山の交通渋滞は2度と経験したくなかったので、、、コッコーにとって吉野は数年前に大学時代のサークルの連中と桜の季節に訪問しているので、、、、。2泊3日の真ん中の日に吉野へ行くことにしました。しかし、7日の明け方まで雨だったので、急遽吉野は8日にしました。


2010年4月8日 吉野山その一

ホテルの最寄の駅・近鉄新大宮から吉野は結構遠かったです。電車の本数も少なかったですね。乗り換えの樫原神宮前からは東京のラッシュ並みの超満員でした。

タヌキ「西行庵まで行こう」というので、バスで中千本までのぼり、そこから奥千本行きのバス停まで少し上って、


ピストン輸送のマイクロバスで奥千本へ上りました。


バスを待つ行列です。5~6回待ちでした

吉野山は下から下千本、竹林院辺りの中千本、そして一番上の西行庵辺りを奥千本とよびます。
2004年の桜の季節に吉野へ来たコッコーは雨模様だったので下千本の上に当たる蔵王堂まで行きました。その時は吉野へ行った気分でしたが、蔵王堂は吉野のほんの入口だったようです。

奥千本のバス停を降りると西行庵までの登りは足です。奥千本のバス停から少し上って所に義経の隠塔がありました。





途中の道標で右か左か、どちらも行き着くところは西行庵でした。右の道をとったのですが、これ、失敗でした。ちょっとばかり高所恐怖症のコッコーにとっては必死の思いの連続で西行庵へたどり着きました。











西行庵あたりは山桜のようですね。チラホラでしたが、咲いていました。
正午をとっくに周っていましたが、食べるところはどこにもありません
お弁当を持ってきた人たちは正解だわ。
次回来るなら、お弁当かついで来ましょ。

西行がこの地で詠んだ歌
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ
吉野山花のさかりは限りなし青葉の奥もなおほさかりにて

苔清水

とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかな西行
つゆとく試み浮世すすがばや芭蕉


中千本の竹林院付近までマイクロバスで下りました。

竹林院のみごとな庭園









ちょっと一休み  竹林院の中の茶店


コッコーは抹茶と桜餅


タヌキは甘酒


テクテク歩いて下りました。途中の茶屋でやっと昼食

吉野山ならではという写真を並べます。


















江戸時代前半、元禄のころ芭蕉は西行の歌心を慕って吉野山を訪れましたが、美しい桜に圧倒されて句はできなかったようです。しかし、弟子の宝井其角は

明星や さくら定めぬ 山かづら

芭蕉はこの幽玄な句をよんだ其角が羨ましい、と、其角に手紙を書いたそうです。

この手紙をもらった其角はそれほどのできばえとは思っていなかったようですが、この句を「満山の花をよめている」と確信したようです。


さて、この「明星や さくら定めぬ 山かづら」の意味は

明け方、其角が外へ出てみると

吉野のさくらさくらと人は言うけど、さくらなんか見えないじゃないか、

定めぬの「ぬ」を否定で読むとこうなりますが、これを表の意味とし、

裏の意味として、「ぬ」を連体形とすると、「雲のむこうに満山さくらがある」と読めます。


たった17文字で2通りの意味を含む面白みのある句のようですね。



続く



奈良へ2泊3日 唐招提寺

2010-05-07 21:24:41 | 歴史
2010年5月7日曇 夕方から雨


しばらくお休みしました奈良への続きです。(2010年4月7日)

勝間田池から薬師寺八幡院を通過して薬師寺中門の外からお薬師さんを拝んで、秋篠川沿いを1Kくらい北へ歩きました。そこは唐招提寺です。唐招提寺の金堂は数少ない奈良時代の遺構です。井上靖の『天平の甍』のモデルということでも有名な建造物です。この金堂は10年に及ぶ平成の大修理が完了したので、ぜひ、拝観したいと思っていました。(2009年秋 金堂平成大修理落慶法要)

唐招提寺金堂


唐招提寺を開いたのは唐から渡日した鑑真です。鑑真は入唐した栄叡と普照から日本での授戒を懇請されました。鑑真は航海の危険や鑑真の供として日本へ渡ることを渋った僧侶の妨害など多くの困難に直面しても、盲目になっても日本へ戒律を伝えようと753年の遣唐使の帰り船に乗船し12月に九州の南部に上陸しました。鑑真は九州の大宰府近くの観世音寺に宿泊し、ここで最初の授戒をしたようです。


※ 授戒とは? 戒を授けること。授戒の儀式は10人以上の受戒僧尼の前で、己に誓う(戒)、互いに誓い合う(律)。授戒された者は正式な僧侶と認められる。
※ 戒とは? 僧侶として守るべきこと。そのほんの一例として不殺生・不盗・不欺・不飲酒などです。
※ 日本は701年に大宝律令(律:刑法 令:行政法規)が成立して、ようやく国家のしくみが整いました。そして、唐の都・長安を手本とした平城京を造営して710年に遷都し、奈良時代となります。奈良時代は仏教で国を鎮めたいと願う鎮護国家でした。そのため仏教を保護しました。そのようなわけで、奈良の大寺院は国家の寺院で、そこで働く(寺の僧)人々は今の言い方なら国家公務員です。国はお寺や僧侶を統制していました。しかし、当時の日本には授戒のできる僧がいなかったので、僧は皆自らの誓いで僧侶となったものだけでした。そこで授戒の資格を持つ高僧鑑真の渡日は待望でした。


鑑真は754年には入京して東大寺に戒壇を設け聖武太上天皇はじめ光明皇太后、孝謙天皇・・・に授戒しました。その後、天武天皇の子・新田部皇子の旧邸を賜って唐招提寺と命名して、日本の地で生涯を終わりました。

話は戻りますが、鑑真は危険な航海をしてまで日本へ渡ることを玄宗皇帝からを禁じられていました。そこで、遣唐使の大使・藤原清河は鑑真の乗船を拒否しました。ですが副使大伴古麻呂はこっそり遣唐使の第2船に鑑真を乗せました、大変な航海だったようですが、ようやく日本へたどり着きました。しかし、大使の乗った第1船は遭難してしまいました。その船にあの安倍仲麻呂も乗船していました。清河と阿倍仲麻呂はベトナムの方へ流れ着き命は助かり、長安へ戻ることができましたが、中国の地で生涯を終わることになりました。この時のもう一人の副使吉備真備は第3船に乗船して帰り着きました。753年の遣唐使帰り船は歴史に残るドラマがたくさんあります。
 あま原 ふりさけみれば 春日なる 
    三笠の山にいでし月かも    阿倍仲麻呂

旧皇子の邸宅跡が感じられる境内の雰囲気はとても気持ちが落ち着きます。







金堂


残念なことに堂内へは入れなくなり、如来形立像など多くの諸仏はコンクリート作りの新宝蔵に移されてしまいました。

新宝蔵   別料金100円



人の姿がある辺りの塀のうちに鑑真和上像を安置する御影堂があります。鑑真忌(6月5日~7日)のみに拝観できます。



戒壇




金堂




西ノ京の駅まで線路沿いの道を歩くと薬師寺の入口です。



この塀のあたりに高田好胤師のお住まいほうこう院があったわけなのに、と、懐かしく歩きましたが、その建物は見つかりませんでした。




続く


奈良へ2泊3日 薬師寺八幡院から秋篠川

2010-04-26 21:05:12 | 歴史
2010年4月26日(月)晴  気持ちのいい春の日


奈良への続きを書きます。

2010年4月7日撮影

勝間田池を時計と反対周で歩き薬師寺の南門近くにやってくると、ステキな桜のトンネル
風ビュービューの寒い池の周囲を歩いたあとなので、ホット








踏切りの向こうは薬師寺八幡院







薬師寺中門の外からの金堂





薬師寺東側の観音池



観音池を少し東に歩くと秋篠川です。



秋篠川沿いも遊歩道が出来てしまい昔の面影はありませんね 懐かしいので寒さもなんのそののコッコーですが、お付き合いのタヌキはあまりの寒さに
観音池から秋篠川方面は普通の観光コースには入っていないと思います。

秋篠川の遊歩道からの薬師寺







続く


奈良2泊3日 勝間田池からの薬師寺の塔

2010-04-21 21:53:09 | 歴史
(撮影日2010年4月7日 曇)

前からの続きです。

午前中の平城宮・法華寺・海龍王寺見学が終わると午後1時を周っていました。明日は吉野を予定していたので、午後の早いうちに西ノ京の勝間田池へ行かなければ、、、午後3時を過ぎてしまうと私のデジカメ撮影の力では本来の色が出せないような気がするので、、、
ましてやこのように曇天の天候では、、
24日からの平城宮跡で開催される「平城遷都1300年祭」では賑やかにお店が出店されお食事も出来るようになるでしょうが、今のところはお食事をする処も見当たりません。最寄の近鉄新大宮駅近くで目をつけていたミラノというお店に寄ったのですがランチをやっていません
「最近、西大寺も賑やかになったということだから、兎に角、近鉄線に乗りましょ」
「途中下車するのか?」
「まあ、行ってみましょ」
西大寺の構内で、、、ここ、 「ウソー」
成城石井までありました。ここで何でもそろいそう、、
写真を撮りたかったのですが、
スペースとして狭いところにぎゅっと多くの店が出ていたし、人も多かったのでカメラを向けるのは少々気がひけました。
西大寺は近鉄奈良線と樫原線の乗り換え駅なので、発展したのかな。こちらにとっては大助かりカレーを食べて、西ノ京を目指しました。

西大寺までの切符だったので西ノ京で精算です。アッ精算機がある
浦島太郎現象のコッコーでした。
あまりの町の変貌ぶりにもびっくり、ようやく勝間田池へたどり着きました。
その昔、土手に寝転んで薬師寺の東塔を眺めた状況とは一転、池に沿って道路が出来ていました。若草山を背景に薬師寺の塔の眺めは最近の人気撮影スポットになっているとのことで、歩道のない池沿いの道はとても危険だったそうです。出会った地元の人は「つい最近、歩道を付け護岸工事をしたのですよ」と話してくれました。










学生の時は東塔だけだったので、東西の塔が並ぶ光景は初めて見るわけですが、多くの画像や映像で2基の塔を見ていたので、初めて見る光景とは思えませんでした。でも、あの、懐かしい学生時代の眺めと雰囲気はもう心の中だけのものなのだ、と、、、、、
卒業してかなりの年月が過ぎ、その環境から受ける雰囲気の違和感は仕方がないかしら、、、


「平城遷都1300年祭」の期間は東塔の改修工事のため養生を取り外すということで、見ることが出来ただけでも幸せと思いながらパチパチパチ撮りました。工事の完了は10年くらい後とのことですので・・・






















大仏殿の屋根が写ってます。










数年前からシルクスクリーン版画家代情房子さんと勉強会を通して親しくさせていただいています。代情さんは奈良での学生時代の思い出として勝間田池からの景色の作品をお作りになっていらっしゃいます。その作品をはじめてみた時に、代情さんとお目にかかることが出来たのは不思議な縁があるような気がしました。とてもステキな作品ですのでご覧になってください。









続く


奈良へ2泊3日 法華寺 海龍王寺

2010-04-18 22:08:34 | 歴史

奈良行の目的の1つは復元された平城宮を見学することでした。
4月7日雨上がりの寒い朝、平城宮へ行こうとホテルを出ようとした時、『7日まで法華寺秘仏十一面観音の開扉』の掲示に目が留まりました。平城宮の近くだから「寄ってみましょ」と、、、、
法華寺と海龍王寺は予定外のおまけ見学となりました。
法華寺は十一面観音像が有名ですが以前に鑑賞しているので、さほどワクワクの見学ではありません。学生時代、史蹟研究のサークル活動で法華寺を訪問した時に、十一面観音像のあまりの小ぶりにびっくりという思い出だけです。そして、この十一面観音像は写真の方がインパクトがあるという思いを持っていました。
法華寺と海龍王寺を訪れて思うのは、この頃は仏教美術のみではなくその背後の歴史や宗教・文学への総合的な理解が必要だと考えるようになっていましたので、このおまけの2寺の見学は奈良時代の藤原氏台頭の権力争いの歴史に思いに馳せるのに重要なお寺だったのだと気付きました。


宿は奈良ロイヤルホテル
赤い線が歩いた道。
緑の四角 上 法華寺と海龍王寺(藤原不比等邸だった地域)
緑の四角 下 長屋王の邸のあった地域

平城宮の東北隅の藤原不比等邸あとに建立したお寺が法華寺と海龍王寺です。不比等は中臣鎌足の息子でした。鎌足は生涯をかけて中大兄皇子(天智天皇)の側近として仕え、亡くなったときに天智天皇から藤原の姓を賜りました。しかし、天智天皇の死後に起こった壬申の乱で藤原氏は敗者大友皇子側でしたので、一族は処罰されてしまいました。不比等は壬申の乱当時に13歳と年が若かったので乱には関与せず処罰の対象にならず生き延びることが出来ました。ですが、勝者天武天皇の時代には政治の中心から外れたところに位置し下級役人としの存在だったと思われます。ところがその後、頭角を現し(本人の素質と宮廷で大きな力を発揮していた後妻の橘三千代の力)、大宝律令の編纂に力を発揮し文武天皇から藤原の姓は不比等の子孫のみ名乗ること、臣下として大臣の家柄となることを認められました(当時、右大臣・左大臣は皇族とされていました)。さらに不比等は平城京遷都に尽力し右大臣として奈良時代初期の政権を担当しました。不比等が平城宮の東北隅に邸を置いたということは『君主南面』から考えると、内裏とその位置を同じくするので平城京遷都の時にその権勢はすでに絶大だったことを示すゆえんのようだなと思いました。不比等は娘宮子を文武天皇(天武・持統天皇夫妻の孫)に嫁がせ首皇子(聖武天皇)誕生となりました。不比等の死後は皇族の長屋王が政権を担当します。が、不比等の4子が妹光明子を聖武天皇の皇后ともくろみ、学者肌の左大臣長屋王に光明子の立后を反対されるだろうと(この時まで、臣下の娘が皇后となる例がありませんでした)長屋王邸を襲い長屋王を自害させました。このような次第で光明皇后の誕生なります。

さて、聖武天皇の国分寺建立の詔に際し、全国に国分尼寺も建立することになりました。そこで、光明皇后は父不比等の邸の一角に総国分尼寺として法華寺を創建しました。

法華寺では法要が始まるところだったので、拝観は正午以降ということで平城宮見学の後にすることにしました。













法華寺庭園  








華楽園

五月梅









浴室(からぶろ)











海龍王寺
遣唐使・僧玄昉が無事お経を持って帰国するように祈念して光明皇后が父不比等の邸あとに建立した寺とのことです。
また、不比等が邸を建てる以前、すでに、飛鳥時代にこの地には毘沙門天を祀っていました。不比等は毘沙門天の堂を取り込むように邸を建てたそうです。光明皇后は平城宮の東北(鬼門)を護る守護神・毘沙門天を祀る意味もこめての海龍王寺を建立したようです。





ここの見所は4Mくらいの塔です。








続く (次は今回の旅行の本命、西ノ京勝間田池からの薬師寺です)