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K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

いらしてくださってありがとうございます。
晩ご飯に作った料理・道端に咲いているお花の写真などのブログです。

紅心大根

2008-11-25 20:18:02 | 料理
2008年11月25日(火)晴


昨日より気温が上がるということでしたが、朝は寒かったです。

四谷三丁目の近くの銀杏 



紅心大根
生産者 房総食料センター 田山博之さん←是非、クリックしてくださいね。


紅心大根と普通の大根をスライスして塩を振りかけ、しんなりしたところで甘酢に昆布・唐辛子と漬け込みました。
スライスすると、中は赤です。

大根もスライスしました

漬け込みました。





伊豆へ遠足 最終章2

2008-11-24 11:23:24 | 歴史
2008年11月5日に撮影しました。

だるま寿司さんの2階の廊下には貝あわせなどなど・・・短冊や花器が・・







特別玄関がありました。

右が女将です。

帰りがけに特別玄関を外から撮りました。


女将は「すっぽん料理やふぐは高いですよ。 着物に着替えますから」

すぐに着物姿の女将の登場
案内の時の口調とは別人のようにおもてなしをしてくださいました。



やっとありつけました

うまいうまい

う~~~ん、満足

ごちそうさま
お勘定を聞いて、えっ 安かったですよ 熱燗も美味しかったし

リピーターになりたい

次回は願成就院の運慶の仏像と・・・北条氏ゆかりの成福寺の蓮の花の咲く頃に行けたらな~~~。



だるま寿司のお土産、万枚漬
これはないしょの話!!
京都に嫁いだ孝行の娘から
大きな大きなかぶらが届いた
北の友から日高の昆布がまいこんだ
そこで、ある時、考えた
地元天野の柿と小坂の柚子
里の鷹の爪を合わせて
万枚漬と名をつけた
(袋の裏面に女将の筆で書かれていました)

女将
㈱だるま 山田喜美江
静岡県伊豆の国市古奈77
長岡本店 (055)948-0818
大仁    (0558)76-0818

ヤプログさんのブログ(無料コース)は1回10枚の写真なので、10枚選びましたが、この文を書いていたらもっと載せちゃえとばかり2回分にしました。


最後に伊豆って、武家政権の開始と終焉に深くかかわった地だということを今更ながら考えました。いくつか気になるところを見つけたので今後の課題の入り口にします。
その1つは江戸時代から明治にかけてのエネルギーの視点から見た日本歴史です。


伊豆へ遠足はこれでおしまいです。読んでいただき感謝いたします。



伊豆へ遠足 最終章1

2008-11-24 11:12:40 | 歴史
2008年11月5日撮影


伊豆へ遠足の最後になりました。
遠足の目的のアジのたたきは食べられたのかとご心配だと思いますので・・・。

伊豆長岡駅なら駅前にお店が並んでいるだろうと期待して、反射炉から苺栽培の畑の道を歩きましたが・・・・・殺風景な駅前 かろうじて総合案内所がありました。
「こんにちは、この辺りでアジのたたきが食べたいのですが」
「お泊りですか」
「いいえ」
案内所の女性は首をかしげて考え込んでいました。
コッコーは、ココは伊豆でも内陸なのでダメなのかなと・・・
「あの~~おすし屋さんはありますか」
・・・・・答えが返ってこないので、
「ネットでひょうたん寿司のページをプリントしてきたのですが、どうでしょうかね」
と、地図を見せると・・・・
「ひょうたん寿司ね・・・だるま寿司は高いけどネタがいいわ」
ココまで話すと、案内所の地図を取り出して、ひょうたん寿司やだるま寿司の位置を詳しく話してくれました。
いずれにせ開店時刻には早かったので
「ぶらぶら歩いてみます。ありがとうございました」と
私とすると、ひょうたん寿司はバスで行ったほうがいいとか、タクシーで行ったほうがいいとかの返事をほしかったのですが、案内所の人はひょうたん寿司をお薦めではなかったようでした。
長岡温泉方面へぶらぶら歩き始めると、狩野川に出ました。橋の下の方で夕暮れ時の魚釣りの光景を目にして、しばらく釣れるかと眺めていました。なんとも美しい



橋を渡りきったところで、だるま寿司を見つけましたが開店前なので、店の裏手の源氏山でもと小道に入って行くと、開店準備の様子が見えました。お店の人が電話で宴会の予約を受けているのが聞こえます。わ~~高そう○ 電話が終わったあと、思い切って聞いてみました。(いままで、こんなことしたことしなかったのですが、心配しないで食べたいので)お店の女性は「上で1,600円よ」
「えっ・・・駅前の総合案内所で美味しいけど高いと聞いたので・・・」
「どこの案内所きっと高いといったって100円、200円のことなのよ。困っちゃうわね。話しておくわね。寒いから中に入って」
「開店前でしょ」
「どうぞ」
裏口から入りました。


私どもが入った直後に馴染みの客も裏口から・・・・


わ~~きれいな店内

「写真とっていいですか」
「女性は2階を案内してあげるわ」
彼女は女将だったのです。
二階の座敷の床の間の掛け軸・お花など、女将がすべて整えるとのこと。
掛け軸は鎌倉の円覚寺さんや京都の大仙寺さん、清水さんのご住職の筆によるとのことでした。

円覚寺さんの掛け軸



お祝いの席の予約とのことで掛け軸は鶴亀を用意したそうです。



茶室の入り口  紅葉は女将自身が山に入って見つけるそうです。

茶室 炉開きもしていました。



伊豆へ遠足その8

2008-11-23 23:40:23 | 歴史
撮影日2008年11月5日

反射炉をはじめて見学して、書物では十分に理解できないところを納得できました。
幕末に反射炉の操業開始によって大砲を製作できるようになったことは日本歴史の上で評価されています。そのわけは日本では高温での銑鉄の溶解技術がなく、鉄の大砲を作ることが出来ず、青銅製でした。幕末に反射炉を築いたことで鉄の大砲をつくることが出来るようになったことは画期的なことだったのです。
では、幕末にどの地域に反射炉があったかについては、大橋周治著「幕末明治製鉄論」を引用します。

幕末の藩政改革で佐賀藩は日本初の反射炉を築き大砲を作っていました。それに続くのは薩摩藩の島津斉彬も反射炉を築きました。そして、幕府の韮山反射炉はそれに続くものでした。

明治になるとレンガの洋館が建造されます。そのレンガは反射炉で作られたとのことです。

日本で反射炉を操業始めた頃に、ヨーロッパではすでに高炉を使用していましたので、日本での反射炉の利用期間は短かったです。その後、1901年に官営八幡製鉄所の操業が始まったことが日本での本格的な製鉄業開始です。
銑鋼一貫製鉄所(鉄鉱石から高炉(鉄鉱石から銑鉄を取り出すための炉)⇒転炉(銑鉄を鋼に転換する炉)⇒連続鋳造(溶けた鉄が固まる過程で一定の形の鋼片を作る)⇒最終製品生産)の第1号の官営八幡製鉄所は日清戦争で中国から獲得した賠償金、ドイツ技術で完成しました。


反射炉の入り口近くには地ビールの製造所、レストランもありました。残念なことに平日は午後2時で閉店
地ビール製造所

レストラン


がっかりでしたが、みやげ物店で地ビールを300円で飲めました。コッコーは1カップは飲めないなと、タヌキのビールを一口飲んで、あああ美味しい
お店の人が江川氏のパン(かんぱん風ですね)をつまみに出してくれました。
伊豆の代官江川邸では幕末に日本初のパンを焼いていたということで、韮山のみやげ物になっています。


このみやげ物店で買ったお菓子はお薦めです
こがし万寿 菓子舗間瀬

素朴な感じですが、品の良い甘みでした


反射炉から畑の中の道を西へ伊豆長岡まで歩きました。

このあたりはイチゴ狩りで有名です。

写真の真ん中辺りに富士山が見えますが、お分かりになりますか



伊豆長岡駅まで行けばアジのたたきが食べられるかと思ったのですが、、、、駅前は何もありません
そこで、駅を背にさらに西へ、伊豆長岡温泉へ・・・

途中、狩野川


夕暮れ   狩野川の河原のススキはいい景色でした


頼朝の流刑地は蛭ガ小島と伝えられていますが、内陸に島とはおかしな地名だと思います、が、どうやら、狩野川の中州だったようです。ただし、狩野川の流れは大きく変化していていました。

狩野川の橋を渡ると伊豆長岡温泉です。

この橋は自動車が通るとゆさゆさ コッコーはしゃがみたくなるにがてですっ。





伊豆へ遠足 その7 反射炉

2008-11-22 20:08:10 | 歴史
2008年11月22日(金)冬晴れ

11月22日はいい夫婦の日だそうです。朝日新聞朝刊「天声人語」で知りました。
コッコーとタヌキは「いい夫婦」かな、どうかな・・・


しばらくお休みしましたが伊豆へ遠足を続けます。
今回の遠足のきっかけはアジのたたきが食べたいね。韮山の反射炉を見学してアジのたたきを食べようと、出かけました。
2008年11月5日のことでした。


反射炉
韮山の反射炉は1853年、日本の開国を求めるアメリカ大統領国書を携えたペリーが来航したので、幕府は海防が急務となりました。そこで老中阿部正弘は江戸湾に砲台(お台場)を設置するように伊豆の代官江川英龍に命じました。江川英龍はオランダの書物を読んで砲台鋳造のための反射炉を伊豆下田に建設しはじめましたが、翌年、1854年、ペリー再来日で日米和親条約が結ばれると、下田が開港されたため、英龍は反射炉を住まいの近くの韮山に移転しました。この大事業に奔走した英龍は過労がたたったのか、韮山反射炉の完成前に病死しました(1855年)。子英敏が反射炉建設を引き継ぎました。江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造を行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請して、1857(安政4年)11月に韮山の反射炉は完成させました。1864(元治元年)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造され、その大砲は品川台場に28門配備されました。

日本での西洋砲術はいつ始まったか?
江戸時代、長崎の商人、高島氏は代々長崎貿易統制兼自治機関の職員(長崎会所調役)をしていました。1798年(寛政10年)生まれの高島秋帆はオランダ語や洋式砲術を学んで、(立場を利用して)私費で銃器等を揃え1834年(天保5年)に高島流砲術を完成させ、自ら大砲を製作していました。その後、1840年のアヘン戦争で清国敗退の知らせを聞くと、秋帆は幕府に意見書を提出して1841年6月27日(天保12年5月9日)、幕府天領の徳丸ヶ原武州(現東京都板橋区高島平)で日本初の洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ないました。演習は成功し、幕府は秋帆から大砲を買い上げ、かつ西洋砲術を旗本一名に伝授すること決定しました。これに指名されたのが江川英龍でした。英龍は1841年(天保13)年6月に、高島流砲術を伝授することも許可され、全国の藩士に教えました。その中には松代藩の佐久間象山もいました。


反射炉とは?
反射炉とは、銑鉄(せんてつ・鉄鉱石から直接製造した鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要ですが、反射炉の場合、溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに熱を反射させ、銑鉄に集中させることでその高温を実現する構造となっています。そこから、反射炉という名称が与えられました。


溶解室はこの下の部分です。
近づきます黒い棒はロストル受け棒です。
ロストルは金網のようなものだそうです。
ロストルを受け棒の上にのせ、薪や石炭などの燃料を置き、燃やします。燃焼した熱が丸くなった低いドーム型の天井に当り、その反射熱か下にある銑鉄に集まります。この反射熱が銑鉄に集まった時に高温を実現できるので、質の良い鉄と不純物が分離され、それぞれの出口から流れ出ます。

この溶解質は4つ作られています。
南に2つ、西に2つです。

連双式(溶解炉を二つ備える)ものを2基、直角に配置した形となっていました。つまり、四つの溶解炉を同時に稼動させます(オランダ書にこのように記されているようです)。

上の写真の裏側に良質の鉄と不純物の出口があります。



1基に3つ穴がありましが、一番下の穴が良質の鉄が流れ出ます。次の穴が不純物が流れ出ます。

この枠内に型があり、直接良質の鉄が流れ込みます。ただし、ココが操業されていた時の型はココよりズーと低い位置だったようです。勿論、不純物は型の中に入らないようになっていました。

実際に見て初めて2基が直角の位置に建っているわけが分かりました。
実に合理的に考案されたのですね。


反射炉の近くに臼砲とカノン砲が展示されてました。

臼砲

カノン砲


お台場を見学したくなりました。