江戸の日本橋は「にほんばし」、大阪のは「にっぽんばし」。これはよく知られていると思う。
しかし「おおさか」が、もともとは江戸式の発音であったことを知る人は、大阪でも少ないだろう。『東海道中膝栗毛』では、江戸者の弥次さん喜多さんは「おおさか」、大坂者の船頭は「おさか」と、使い分けられている。大正時代まで古老は「おさか」と発音していたという。(牧村史陽『大阪ことば辞典』)
言葉は世につれ、世は言葉につれて。だから、伝統を守れ、いまの発音がまちがいだといいたいわけでない。
しかし、なぜ近代以前に「おさか」と発音されていたのか、それくらい知っておくのも無駄ではあるまい。
まず、「大坂」の地名の由来について確認しておこう。文献上の初出は、石山御坊(後の石山本願寺)を開いた蓮如だといわれる(10年前の知識で、いまは最新の研究も出ているかもしれない)。明応5年(1496)に書いた御文の「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」という記述がそれである。
天王寺区には、浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった逢阪(逢坂)もある。こちらの由来は、歌枕にもなっている有名な逢坂の関と同様に、「あふさか」(合う坂)だろう。
しかし蓮如の「大坂」は「逢坂」と似ているようでちがう。場所もちがう。「石山」と名付けられたのも、御坊を建設するときに石がたくさん出てきたのが由来だそうだ。この石は難波宮の礎石だったのではないかと考えられる。この「坂」は、難波宮史跡の発見された今のNHKや大阪府警のある法円坂を指していたのではないだろうか。
私の読んだ資料では、「大坂」には「ヲサカ」とルビが振られていたと記憶する。
これが記憶違いなら(よくある)、以下書くことは全く意味をなさないかもしれないが、ここで注意すべきなのは、尊敬・丁寧を意味する「オ」(御)ではないことだ。
「を」は、「小さい・細かい・小さくてかわいい」を意味する接頭語である。「小川」(をがわ)・小櫛(をぐし)などはその用例である。語調を調えるために、「を」を用いることもある。「小野」(をの)「小田」(をだ)は、それぞれ野原・田んぼという意味で、そこには「小さい」という意味は必ずしもない。(『古語林』による)
ヲサカも、ヲノやヲダと同じように、「小坂」が語源ではなかったのだろうか。
こんなことを考えたのも、脱線になるが、大原女は「おはらめ」と読む。小原女もいる。しかし辞書が解説するのは誤りで、大原女と小原女は同一ではない。装束も異なる。八瀬の人々は大原の「大原女」、八瀬の「小原女」を区別し、それぞれ、「おおはらめ」「おはらめ」と呼ぶ。大原の人たちは、自分たちを「おはらめ」と呼ぶ。 かんたんにいうと、大原と八瀬の人たちは、おとなり同士大変仲が悪い。
「ヲサカ」には、「小坂」という表記もあったように記憶する。漢字表記が厳密になったのは、明治の活版印刷以降、特に第一水準に第二水準と、マシンのスペックに多様な漢字表記を合わせねばならなくなった、ワープロが普及したここ2、30年のことだ。
それでも、現存する蓮如の御文には、「大坂」と表記されている。摂津名所図会には、「大江坂」が語源だという、このブログが書いてきたことを覆す異説も紹介されている。
しかし「おおさか」がほんとは「おさか」で、もともと「坂」という意味でしかないことは、記憶にとどめられてよかろう。私がこの地域名として愛するのは、やがて生まれてきたあの海に帰っていくイメージの「なにわ」(難波)である。
「大大阪」「オール関西」という幻想をただちに捨てよ。ちいさいはかわいい、かわいいは正義、正義はおいしい。男子・政治家・役人たちの「大きな大阪」に対抗するのは、女子・商人・職人たちが連綿と受けついできた「ちいさなをさか」「かわいいをさか」「おいしいをさか」なのである。愛すべきトリックスター・一寸法師も、ある文献によれば摂津国難波村の出身なのだ。
しかし「おおさか」が、もともとは江戸式の発音であったことを知る人は、大阪でも少ないだろう。『東海道中膝栗毛』では、江戸者の弥次さん喜多さんは「おおさか」、大坂者の船頭は「おさか」と、使い分けられている。大正時代まで古老は「おさか」と発音していたという。(牧村史陽『大阪ことば辞典』)
言葉は世につれ、世は言葉につれて。だから、伝統を守れ、いまの発音がまちがいだといいたいわけでない。
しかし、なぜ近代以前に「おさか」と発音されていたのか、それくらい知っておくのも無駄ではあるまい。
まず、「大坂」の地名の由来について確認しておこう。文献上の初出は、石山御坊(後の石山本願寺)を開いた蓮如だといわれる(10年前の知識で、いまは最新の研究も出ているかもしれない)。明応5年(1496)に書いた御文の「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」という記述がそれである。
天王寺区には、浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった逢阪(逢坂)もある。こちらの由来は、歌枕にもなっている有名な逢坂の関と同様に、「あふさか」(合う坂)だろう。
しかし蓮如の「大坂」は「逢坂」と似ているようでちがう。場所もちがう。「石山」と名付けられたのも、御坊を建設するときに石がたくさん出てきたのが由来だそうだ。この石は難波宮の礎石だったのではないかと考えられる。この「坂」は、難波宮史跡の発見された今のNHKや大阪府警のある法円坂を指していたのではないだろうか。
私の読んだ資料では、「大坂」には「ヲサカ」とルビが振られていたと記憶する。
これが記憶違いなら(よくある)、以下書くことは全く意味をなさないかもしれないが、ここで注意すべきなのは、尊敬・丁寧を意味する「オ」(御)ではないことだ。
「を」は、「小さい・細かい・小さくてかわいい」を意味する接頭語である。「小川」(をがわ)・小櫛(をぐし)などはその用例である。語調を調えるために、「を」を用いることもある。「小野」(をの)「小田」(をだ)は、それぞれ野原・田んぼという意味で、そこには「小さい」という意味は必ずしもない。(『古語林』による)
ヲサカも、ヲノやヲダと同じように、「小坂」が語源ではなかったのだろうか。
こんなことを考えたのも、脱線になるが、大原女は「おはらめ」と読む。小原女もいる。しかし辞書が解説するのは誤りで、大原女と小原女は同一ではない。装束も異なる。八瀬の人々は大原の「大原女」、八瀬の「小原女」を区別し、それぞれ、「おおはらめ」「おはらめ」と呼ぶ。大原の人たちは、自分たちを「おはらめ」と呼ぶ。 かんたんにいうと、大原と八瀬の人たちは、おとなり同士大変仲が悪い。
「ヲサカ」には、「小坂」という表記もあったように記憶する。漢字表記が厳密になったのは、明治の活版印刷以降、特に第一水準に第二水準と、マシンのスペックに多様な漢字表記を合わせねばならなくなった、ワープロが普及したここ2、30年のことだ。
それでも、現存する蓮如の御文には、「大坂」と表記されている。摂津名所図会には、「大江坂」が語源だという、このブログが書いてきたことを覆す異説も紹介されている。
しかし「おおさか」がほんとは「おさか」で、もともと「坂」という意味でしかないことは、記憶にとどめられてよかろう。私がこの地域名として愛するのは、やがて生まれてきたあの海に帰っていくイメージの「なにわ」(難波)である。
「大大阪」「オール関西」という幻想をただちに捨てよ。ちいさいはかわいい、かわいいは正義、正義はおいしい。男子・政治家・役人たちの「大きな大阪」に対抗するのは、女子・商人・職人たちが連綿と受けついできた「ちいさなをさか」「かわいいをさか」「おいしいをさか」なのである。愛すべきトリックスター・一寸法師も、ある文献によれば摂津国難波村の出身なのだ。
何でも受け入れて、そいつらと一緒に生きていく、みたいな。
在日も琉球人も資本主義のどん詰まりも受け入れて、エエ塩梅に文化が混ざり合って新しいものが生まれてくる、みたいな。
そういうのは上からの統制ではできませんから、たしかに“男子・政治家・役人たちの「大きな大阪」”とは相性が悪いでしょう。
私自身も流れ者。イラク反戦の頃、上司が東京のお客さんに「うちのビンラディーンですわ!」と自慢するですよ。東京でさんざん悪いことしたので、大阪でかくまってます、と。いやー、大和川に水葬されないように気をつけねば!