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レーニン対ウェルズ 解放された世界

2011年10月25日 | 革命のディスクール・断章
 革命ロシアを訪ねたH.G.ウェルズ(1866-1946)は、レーニンによい印象を与えなかったらしい。少なくともトロツキーはそう書いている。

 以下、トロツキーのエッセイによって、ふたりの出会いを、書き留めておこう。

 ウェルズがモスクワを訪問したのは、1920年から21年にかけての食糧不足の寒い冬だった。

 ウェルズの描くところでは、レーニンは人なっつこく、その表情はころころ変わり、生き生きした微笑がある。写真とはちっとも似ていない。全体として小さい人間である。マルクス主義の狂信者と論争するつもりで訪問したのに、論争は少しも起こらなかった。またレーニンは忠告するのが大好きだと聞いてきたのに、教訓的な話をするわけでもない。椅子のはしにすわると、レーニンは足が地にやっとつくかつかぬくらいしかなかった。そして、会話のあいだ、目を手で覆うくせがあると書いている。「おそらく視力の欠陥のせいだろう」とウェルズは考えた。


 ウェルズは「進化的コレクティビズム」の立場から、レーニンにこう助言した。

 社会主義が成功するためには、物質的生活を再組織するばかりでなく、全人民の心理を再組織することが必要である。ロシア人は本性として個人主義者であり、商売人である。共産主義はあまり急いで活動している、そうしてそれが建設する前に破壊している。現代の資本主義システムは一定の教育組織によって文明化され、集合的システムに転化できるのだ。

 ウェルズはレーニンをあいてにご機嫌だったらしい。

 「私自身に関していえば、この異常な小さな人間と話したことはほんとうにレクリエーションになった」

 しかしレーニンはどうだったろう。扇のように手をひたいに当てて、指と指のあいだから相手をのぞき見るのは、視力のせいではなく、アンビリバーブルな人間に出会ったときのレーニンのくせだった。

 会見が終わって、政治局が開会する直前、レーニンは癇癪を爆発させた。

 「やつはなんていうブルジョアだ。俗物だ!」

 実際には、レーニンは中背で、椅子にすわって足がつくのがやっというのも、ウェルズの誇張だろう。ウェルズによれば「レーニンは文筆家ではない」という。レーニンのパンフレットは、どれもとるにたらないものに見え、ついでに誰かに書かせたと思ったらしい。ここまで来ると痛快である。

 どうしようもなくお互いに虫が好かず、すれちがいに終わらざるをえない出会いもある。このウェルズとレーニンの出会いが、そういう出会いだった。トロツキーの眼には、さしずめ、共産主義の小人国にフェビアン社会主義を布教にきたガリバーのようにしか映らなかったらしい。トロツキーが、この会見の回想録につけたタイトルは、『革命家と俗物』だった。

 ここでSFの始祖の一人として知られるウェルズのプロフィールを確認しておきたい。

 ウェルズは服地屋の店員から身を起し、ロンドンの理科師範学校で T. H.ハクスリーの教えを受けた。ハクスリー(1825-1895)は、イギリスの生物学者、科学啓蒙家で、ダーウィンの進化論を擁護した生物学者にして啓蒙主義者である。ウェルズの特徴は、初期のSF作品から、『世界史大観』に至るまで、進化論的社会主義ともいうべきユニークな思想が貫かれていたことである。

 イギリス生まれの社会進化論は、社会ダーウィニズムに結びつけて語られることが多い。この社会ダーウィニズムは、イギリスのゴルトンの「優生学」に結びついて、さらにドイツのプレッツらによってナチスの人種政策に利用された。また、自由競争を弱肉強食・適者生存に結びつけて、「優等人種」による帝国主義的支配を正当化するイデオロギーとして機能してきた。

 しかし社会進化論そのものは、帝国主義的・ナチ的であったわけではない。ダーウィンに先立って、「社会進化論」を唱えていたのがスペンサーである。スペンサーの考えた「人間社会の適者生存の法則」とは、「軍事型の社会から産業型の社会への移行」であり、そうした必然性を自由放任に任せるというものだった。クロポトキンのように、アナキズム思想に社会進化論を採用した人物もいる。進化の法則は生存競争でなく「相互扶助」にこそもとづくものであり、国家はその自然な原理に逆らう敵対物であった。

 トロツキーのウェルズ評は、ある程度割り引いて考えなくてはならないだろう。クロポトキンが絶賛したレーニンの『帝国主義』は、フェビアン派の社会主義者ホブスン『帝国主義』に多くを拠っている。

 『タイムマシン』(1895)で階級社会の未来のディストピアを描き、『解放された世界』(1914年)で核戦争の危機を予見したウェルズは、ヴェルヌのように科学と啓蒙による人類の薔薇色の未来を思い描くことはできなかった。レーニンとウェルズは、第一次世界大戦(1914~1918)が、世界初めての「世界大戦」であることを正確に見抜いていた。人々は「長い戦争」か「短い戦争」であるかを議論していただけだった。レーニンは20世紀を「戦争と革命の世紀」であると予言し、ウェルズは「世界最終戦争の時代」であると予言した。

 ウェルズは、第一次世界大戦のさなかに、世界初の反核運動を行った人である。もちろん、人々の理解や支持を得られることはなかった。そんな兵器はこの地上に存在していなかった。世界を破滅させる最終兵器である原子爆弾の存在を知っていたのは、ウェルズただ一人だったのだから。

 ウェルズは考えた。世界最終戦争を防ぐためにはどうしたらいいのか? そこで考え出されたのが、国際連盟のシステムだった。国連憲章にも、ウェルズがルーズヴェルト、スターリン、チャーチルらおもだった国の政治家や知識人に送った「サンキー権利宣言」のエッセンスが投影しているといわれる。

 ウェルズは次のように書いている。

 「われわれはふたつの偉大な革命、すなわち人類に自由・平等・博愛をもたらした大フランス革命と、人類大衆の経済的奴隷化を廃止すべきひとつの土台の上に社会を再組織しようとするさらに強力なロシア革命とが生んだ成果を保存しようとして闘う。これらの偉大なる突撃は両方とも、その期限をイギリスとアメリカで起きたより古い革命的な突撃に跡づけることができよう。しかし、そのいずれの実験にも弱点があった。だから、これらの偉大な隆起によって獲得されたすべてを守ることは、正直な人びとの明らかな仕事であろう。われわれは今やいたるところで、人びとがこういうことを繰り返して言っているのを聞く。競争的な主権国家や帝国の時代は過ぎ去った、またナチスとファシストは再生した世界にとって最後の絶望的な敵である、と」(『冒険家の一標本』1943)

 第二次大戦中のウェルズは対ドイツ宣伝局長として「世界国家か世界の破滅か」というスローガンを唱えた。

 しかし、ウェルズの考えは、自分でも予想しない方向にいく。『解放された世界』に強い衝撃を受け、生物学者の道を捨て核物理学者へと転身したレオ・シラードは、やがて核分裂における「連鎖反応方式」の発明を行い、アインシュタインを口説き落とし、マンハッタン計画をルーズベルトに承認させることに成功する。「戦争を廃絶する戦争」というウェルズのスローガンは、そのまま連合国のスローガンにもなり、広島・長崎への原爆投下はそのような美名のもとに正当化された。

 アーネスト・バーガーは、ある日のウェルズをこう回想している。

 <第二次大戦が勃発したあとの1941年、ボヘミアの百科全書家コメニウス訪英300年記念を祝うレセプションがケンブリッジ大学で開かれた。その席でわたしはH.Gに会った。彼はひじ掛け椅子にぐったり身を沈めていた。それで彼に「体の具合はどうだい?」と尋ねた。 「いや、とても悪いんだよ、バーガー」彼はそう答えた。 「そうか、で、おまえさん、いまそこで何を書いてたんだ?」 そう聞くと、彼はこう答えてメモをよこした。 「自分の墓碑銘(エピタフ)を書いてたところだ、簡単なやつだ」

 見るとそれにはこう書いてあった。

 《God damn you all: I told you so.》
 (くそったれ、言わんこっちゃない)>

 これはレーニン最期の言葉であったかもしれない。

【参考文献】
『レーニン』 トロツキー(中公文庫)
『解放された世界』 H.G.ウェルズ(岩波文庫)

【参考サイト】
くるくる人物伝(くるぶし氏による)
H.G.ウェルズ Herbert George Wells (1866~1946)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/Wells.html

(初出 2005年9月21日)



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