藤堂高虎を総責任者とした徳川大坂城は、豊臣大坂城の石垣と堀を完全に破却して、その上から覆いかぶせるように、約1メートルから10メートルの盛り土をしている。つまり、基礎工事を一からやり直しているのだ。より高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は完全に地中に埋もれた。天守など建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替えることになった。
こうして、「錦城」(きんじょう)ともいわれた天下の名城が完成する。規模でこそ江戸城には及ばなかったが、江戸城よりも多い11基の三重櫓が建ち並び(江戸城本丸は4基〕、有名な蛸石や肥後石などの巨大な鏡石が多用され、伊賀上野城ができるまで32メートルの高石垣は日本一の高さだった。
京都には朝廷があり、経済の中心はいまだ大坂・堺であったわけだから、大坂復興が急務だったのはわかる。しかしそれにしては、なぜ、基礎工事からやり直すという、膨大な労力と時間をかけてまで、こんな立派な城を造ったのか。大坂が朝廷と西国大名を抑える要衝の地であったとしても、ムダに立派すぎる。素人の私でも疑問だったが、学界でも謎だったらしい。
藤田達生さんの『藩とは何か』(中公新書)では、跡部信さんの「大坂幕府構想」にその解を求める。
「大坂ハゆくゆくハ、御居城ニも成られるべき所に御座候」
「大坂城がゆくゆくは将軍家光の居城になるべき場所だ」ということが述べられている。最近発見された、寛永3年(1626年)12月17日付の「藤堂高虎宛小堀遠州書状」の一節である。
小堀遠州は、藤堂高虎の娘婿にあたる、幕府の国奉行・郡代・八人衆などを務めた官僚である。主として上方にあって、岳父・高虎とともに公武融和の工作に務めた。茶人として、朝廷・幕府双方の人脈から絶大な信頼があり、元和6年(1620年)、家康存命中には実現しなかった、孫娘・和子の入内(じゅだい)に大きな力を発揮した。この書簡が送られた寛永3年には、後水尾(ごみずのお)天皇の二条城行幸を成功に導いている。
この年の11月には、秀忠には自身の外孫にあたる高仁(すけひと)親王が誕生している。やがては自身の孫を天皇にして、公武合体政権を成立させることが、秀忠の悲願だった。それが実現すれば、秀忠が江戸城から大坂城へと「御居城」を移し、「大坂幕府」を成立させる構想があったことが、この書簡からはうかがえる。
これは家康以来の徳川家の悲願だった。その傍証として、大坂夏の陣が終わった直後の元和元年(1615年)6月5日、薩摩の島津義弘が、大坂に在陣した子の家久に送った書状が紹介される。
「公方様(徳川秀忠)大坂へ御座なるべき様ニ、歴々御沙汰なされ候や、左候はば、当秋より来春や、御普請の企てこれあらば、書面の如く、いよいよ金銀の入るべき事、際限あるべからず候」
家康と対面した島津家久は、国元の父親義弘に、将軍秀忠が大坂を居城とするという幕府の要人からの情報を得た。これを受けて、大坂城最高のための普請役いかかる「際限」なき莫大な出費を予想し、嘆息しているのが、この書簡である。家康は、豊臣が滅亡した直後に大坂城普請を命じているが、これは上方に徳川家の拠点を移すことが次の課題になっていたことを示す。
「大坂幕府構想」は、家康の死などの要因で実現しなかった。しかし完全に放棄されたわけではなく、公武合体路線の中に受け継がれ、大坂城再築の時点でも命脈を保っていたというのが、跡部=藤田説である。
これは充分ありうることだと思う。後水尾天皇には、すでに寵愛する「およつ御寮人」がいて、皇子(賀茂宮)を生んでいた。和子の入内を進めていた秀忠・お江夫妻はこれに激怒し、元和5年(1619年)、天皇の側近6名を処罰した。これに憤慨した天皇は退位しようとする。しかし幕府の使者として上洛した高虎は、こう天皇を恫喝し、およつ御寮人を追放させた。
「自分が将軍の命を受けて上洛したのに(中略)、入内に同心なしと決まれば、恐れながら天皇は左遷とし、自分は不調法の責任を取って切腹するまでである」
和子の入内は、こうした脅しと恫喝の上に実現しているのである。坂口安吾ではないが、藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していたという、格好の事例かもしれない。
悲願の皇子誕生で、いったんは消えかけた「大坂幕府」構想が再燃したのかもしれない。高仁親王が即位していれば、秀忠は天皇の外戚となって、三代将軍・家光ともども大坂城に移り、公武合体政権である「大坂幕府」が誕生していただろう。
しかし、高仁親王は、寛永5年(1628年)、数え3歳で夭折。同年9月に和子の生んだ二人目の皇子も翌月には死去する。後水尾天皇の譲位の意は硬く、予定どおり寛永6年11月に譲位が行われ、寛永7年9月に和子の生んだ皇女が明正(めいしょう)天皇として即位する。称徳(しょうとく)天皇以来895年ぶりの女帝だった。
これは現代の皇室にも通じる問題だが、女性天皇は生涯を独身で通す。秀忠にとっては、外戚となって男系天皇が誕生しなければ、真なる「公武合体政権」とはいえなかっただろう。後水尾天皇が院政を敷いたことから、幕府が朝廷に介入することにも限界があった。そして、寛永9年(1632年)、秀忠は死去し、ついに家康以来の「大坂幕府」構想が実現することはなかった。
幕末に、公武合体路線を推進した一橋家慶喜が、「最後の将軍」となり、幕府が置かれたかもしれない大坂城を放棄し、徳川政権の瓦解を決定的なものにしたことは、歴史の皮肉というべきだろうか。「浪華のことは夢のまた夢」である。
初夏の大阪城にて。
石垣には米軍機の機銃掃射による弾痕が残っている。