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おまえは歌うな

2010年09月12日 | 読書
  「おまえは歌うな」 中野重治


  おまえは歌うな
  おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
  風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
  すべてのひよわなもの
  すべてのうそうそとしたもの
  すべてのものうげなものを撥(はじ)き去れ
  すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
  もつぱら正直のところを
  腹の足しになるところを
  胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
  たたかれることによつて弾ねかえる歌を
  恥辱の底から勇気を汲みくる歌を
  それらの歌々を
  咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
  それらの歌々を
  行く行く人びとの胸廓(きようかく)にたたきこめ


 以前、源氏関連のあるエントリのタイトルに拝借した中野重治の詩。何度読み返してもいい詩だと思う。これぞプロレタリア文学の神髄。

 しかし中野重治が「撥き去れ」「擯斥せよ」と真っ先に断じそうな堀達雄が、『驢馬』を共に創刊した親友だったというのは、なかなか興味深いことである。『昭和の文人』の江藤淳のように、中野を持ち上げ、堀をこき下ろすのは不当だろう。二人は良いところも悪いところも共通している。

 中野が否定しようとした日本的メンタリティの最高の完成形態は、源氏物語だろう。すべてのひよわなもの、うそうそとしたもの、ものうげなもの、すべての風情。本居宣長はこうしたものを「もののあはれ」と名づけた。

 もちろんその後の歴史が証明するように、プロレタリア文学は撥き去られ、戦前の共産主義運動は擯斥させられる。中野重治の対極にいたのが、日本浪漫派の保田与重郎だろうか。〈近代の超克〉をめざした日本浪漫派そのものが、共産主義運動の参加・非参加にかかわらず、転向思想の一形態ともいえる。

 保田は、「日本の橋」で、西欧と日本の橋を対比しながら、この国の文化の本質を鮮やかに描いてみせた。西欧のように石の橋を架けることなく、日本の木の橋は洪水のたびに流されては架け直された。古代の長柄橋はただ橋杭だけが残り、架け直されることはなく、歌人たちによって難波宮の古代王朝の栄耀をしのばせるシンボルになった。

 滅びることで永遠になり、純粋化し、神話化していく「すべてのひよわなもの」「すべてのうそうそとしたもの」 「すべてのものうげなもの」。源氏物語はその究極の完成形態であると同時に、そうした日本的美学を、内側から食い破る挑発するテクストとして、私の眼前にあり続ける。

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1 コメント

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Unknown (エンメ)
2016-06-23 06:58:51
いつも思いますが
「腹の足しになるところ」
この一文が無用ですよね。
己の真実を詩にすればよかったのに
わからない層に向ける、「コチラ」から「アチラ」へ発信する情念と切っても切れない思想なのでさらっと入れた。
自分の創作したカツ丼や親子丼には全くもって合わなくても色味や習いで最後に青いものを上に散らすように。

意義の評価としては「幼稚園の否定」でしょうか。
育児にあたる母親達の否定というかねw
そのベクトルに向いているつもりはなくてもどうしてもそう、なっちゃってますよね。んでそこと闘ってるつもりはないし、股間の慰めの為に絶対否定できませんから、負けを認めます。プロレタリア思想の半分は成人女性からの逃避でできています。間違いなく。

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