新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

生きてんねん

2012年02月11日 | 大阪
 未来に残したい、をさかことばの一つ。

 「生きてる」

 食べ物が箸から落ちたときのフォローのことば。をさかのお魚たんは、とれとれピチピチなのだ。お芋さんだって生きているのだ。コロッケなんかでもいうね。ぶた肉生なのはあかんやろ。
 



 この言葉を教えてくれたのは、大阪に移り住んだころに付き合っていた女性だ。

 食事のとき、彼女の箸から、栗ごはんの栗がポロリと落ちた。「育ちが悪いなあ」とツッコミを入れたら、ムッとして、「まだ生きてんねん」とそっぽを向く。


 しまった。親の悪口をいってしまった。成人に対していうべきことばではないし、ましてこどもは親を選べないのだから絶対に禁句である。そのとき気づいたのは、そこまでである。

 「育ちが悪い」は、大阪に来るまで私のボギャブラリーになかった。関東にいたころは、「しつけが悪い」「親の顔が見たい」だった。これは私自身が教師を初めとした大人たちにいわれ続けてきたことばだ。大阪弁は親しみやすくおもしろい。誰かの言い方を知らず知らずまねしていたのだろう。


 彼女と別れ、何年か過ぎ、「育ちが悪い」は部落出身を意味する婉曲表現として使われることもあることに気がついた。『シックスセンス』のラストのように、いろいろなピースが重なり合った。元左翼の活動家だからどうした。おれも差別者ではないか。

 東日本出身だから部落差別を知らない、だから差別した覚えがないと自信を持っていう人たちがいる。いや、あなたのお住まいの町にも、西日本にもめったにない大規模部落があり、市役所にも担当部署がありますよということもあった。

 「時分の花を咲かそう」の藤田先生がおっしゃるように、無知が知らずに知らずに誰かを傷つけることもある。存在さえ知らないのは、ある意味、差別よりひどい。生きてんねん。私はこのことばをけして忘れることはないだろう。



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