廃線跡を歩く(下津井電鉄下津井電鉄線)Vol.1

四国方面に向かいながら、いきなり児島駅で降りたのには訳があります。実は前日の夜、ホテルでネットにより色々と調べ物をしていました。何について調べていたかというと・・・


下津井電鉄下津井電鉄線


ただし、現役の鉄道ではありません(笑)。恒例の廃線跡を歩いてみようという魂胆。何しろ、滅多にこんなロケーションに立ち会うことなどありませんから、いの一番に調べ上げたという次第で・・・。





<<下津井電鉄下津井電鉄線とは>>
 古くから風待港として栄えた港町下津井は、本州と四国とを結ぶ「四国往来」と呼ばれる主要ルートの一部とされた。しかし、国鉄宇野線の開通、宇高連絡船の就航で旅客が激減、これを取り戻すために計画された路線である。賛同した有力者などがの協力もあり、1911年に着工、特に大口の路線用地提供者に要請され、茶屋町 - 味野町(後の児島)間 14.5km1913年に先行開業、1914年には味野町 - 下津井間 6.5kmも開業して全通したが、山陽本線から宇野線下津井電鉄線と乗り継ぎが必要なために敬遠され、四国への利用客は少なかった。

 戦後には、燃料費暴騰で一時は存続も危ぶまれたが、近代化して存続する方針が立てられ、1949年には全ての路線を電化している。風光明媚な鷲羽山への観光客増加も手伝って、昭和30年代に全盛期を迎えたが、相次ぐモータリゼーションにより、1972年茶屋町 - 児島間14.5kmが廃止。その後も、映画やドラマのロケ地として話題になることこそ多かったものの、バス部門の収入によって経営が支えられて状態であった。

 1988年瀬戸大橋の開通により、観光鉄道への転身を図っての設備投資やインフラ整備なども行われたが、乗換駅となる下電児島駅JR児島駅と離れていること、鷲羽山の眺望もごく一部区間に限られた上に、瀬戸大橋建造に用いられた道路が一般開放されたり等、バス部門の利用者も減ったために、鉄道部門の赤字を吸収しきれなくなり、1990年末に廃止された。




まずは、一番JRの駅からアクセスしやすい場所、下津井電鉄線児玉駅から開始です。JRの駅からは700メートルほどの距離、歩きでも至近距離といえるでしょう。時間をまるまる一日使えるのであれば、一次廃止線を茶屋町駅からたどったのですが、今回は寝坊した上に、夜には東京へ戻る予定だったので、二次廃止線に的を絞ったのです。



文化センター交差点の前に、その駅は存在しました。現在も、当時の建屋は残っていて、シモデンツーリストという下津井電鉄の関連会社である旅行代理店が営業しています。




中へ入って、一番最初に目を引くのが、腕木信号機や区間閉塞器など、現役時代に使用されていた施設。すでに廃止から19年の年月が経つわけですから、それぞれもくたびれた様子を見せて、とても寂しげな雰囲気があります。



そして、ここが列車のプラットホーム。児島駅以北の路線が廃止された後は始発駅となったため、このような構造になっています。しかし、それ以前は交換設備も持つかなり立派な駅であったことが、参照サイトの写真で伺うことが出来ます(参照:表紙ページが無いので、該当ページに直接リンクさせていただきました)。



一旦表に出て回り込んで見た、上記写真の反対側。プラットホームに立ち入れないように柵が設置されています。右側に見えるのは、現在も営業を続ける下津井電鉄バス。この会社が存続し続けられたのは、このバス部門によるものといえますが、他の軽便鉄道が次々と姿を消し、国鉄が不要不急路線を整理し始めた時期にあっても、この下津井電鉄線はそれなりの黒字を出していたといいます。



ここから路線は一路終点の下津井駅まで、途中5駅を経て5kmの旅となります。架線柱も間引きこそされてはいますが残されています。この下津井電鉄線の経営方針は、施設への投資を可能な限り行う方針だったそうで、それは、機関車を導入する際にもトップブランドの機関車を求めるほどだったそうです。架線柱も、見ていただければわかると思いますが、木製ではありません。経年変化の激しい木製の架線柱は、ローカル線など投資を十分行えない路線で使用されることが多かったのです。先の西武鉄道安比奈線でも同じでしたね。軽便鉄道にしては、同じ距離での建設単価は高かったことでしょう。



そうこうしている内に踏切が見えてきました。ここの架線柱も立派なものですね。



近づいてよく見てみると、驚いたことに踏切動作反応灯も設置されています。ということは、ここの踏切は国鉄でいう第一種踏切、いわゆる遮断機を擁した踏切だったことがわかります。それなりに、当時も車の交通量も多かったのでしょう。



この真ん中の色が違う部分が、元の軌道敷きです。ここを走っていた鉄道の軌間は762mm、実に新幹線のほぼ半分です。如何に規模の小さな鉄道だったことがわかります。








ところで、、、





このあたりで雨脚が少しずつ強くなってきたのですが・・・










ヽ(`Д´)ノ

とても戻る気にはなれません(笑)






つづく


Editor CABEZÓN


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