廃線跡を歩く(下津井電鉄下津井電鉄線)Vol.5

最後まで残った中では最大の下津井駅。列車が行き来した構内は、だだっ広く荒れるがままになっていました。



風の道として整備されてから建てられた駅名票。新しいその姿とは対照的な、プラットホームの草生し具合。



かつて車両が行き交った路盤に降りて、来た道を振り返ります。東下津井駅からここまでの距離は、約2km、雨さえ降っていなければ、手頃な散歩道です。往事は、遠くに見える道路橋をくぐって電車がやって来たのでしょう。



下津井駅は終着駅だったので、立派な駅舎も構えていました。しかし、建物の老朽化で2005年に解体されてしまったのだそうです。鉄道のある風景 - 下津井電鉄では、その在りし日の姿をご覧になることが出来ます。















この下津井駅で忘れてはならないもの・・・






それは、廃止以来眠り続ける車両たち・・・




















この車両は、モハ1001、1983年10月頃から車内外への落書きを公認しそれを目玉にした落書き電車となり「赤いクレパス号」と呼ばれて、テレビや雑誌などでも取り上げられて有名になりました。



その奥の車庫とおぼしき場所、これは当初下津井駅構内にあった温室をそのまま車庫として再利用したのだそうです。車庫の中、一番手前に見えるのが、観光鉄道への転身を図って新規製造されたレトロ調電車「メリーベル」。しかし、相次ぐ会社の経営不振により、たった3年間使用されただけで、そのまま眠りにつきました。その後も、他の鉄道で復活する話もあったそうですが、実現には至らずそのままとなっています。



角度を変えて、横から見てみました。温室は、既にボロボロの状態で、車両も風雨にさらされたまま。また、2005年の台風の高潮により全車が冠水したと見られており、全ての車両はとても酷い状態になったそうです。現在は、ボランティアの方々の手により、車体の修繕などが行われているとか・・・。



鉄で出来た車両が、海辺で風雨にさらされ、しかも一度は高潮に洗われている・・・。それは、とりもなおさず、全ての部品が錆びて朽ち果ててゆくことを意味します。願わくば、少しでもその修繕によって、歴史を物語る存在として残り続けて欲しいものです。




かつては海運・軍事の要衝であった下津井港。歴史の流れで、現在では瀬戸内海有数の漁港として栄えています。しかし、その水産業は下津井電鉄線を必要とはしなかったのです。



かつての駅前にぽつんとたたずむ廃墟。これは、かつて旅人が体を休めた千歳旅館のなれの果ての姿。鉄道を失ったこの町を訪れるためには、わずか日に二本のバスを利用するか、タクシーを利用するしかありません。訪れる人がいなくなった町に、旅館も必要なかったのです(往事を偲ぶ写真)。





雨脚がさらに強くなる中、しばらく物思いにふけったCABEZÓNは一軒の食堂兼旅館に飛び込み、そこの方の好意に甘えてタクシーを呼んでいただきました。その時は帰ることばかりを考えていたのですが、今更のように、そこの食堂で食事をとっておけば良かったな、後悔しています。たかだか一時間遅れても東京には戻れますし、好意に甘えるだけでなくわずかばかりでもお返しが出来れば良かった、、、と、とっさの自分の行動を省みるのでありました。



















自分が大学生だった頃、もう少し行動力があれば、その晩年の姿を見届けることが出来たかも知れない下津井電鉄下津井電鉄線。奇しくも、この鉄道が廃止された1991年は、Latin Factoryが産声を上げた年でもあります。今更のようですが、それを果たす間もなく過去の存在となってしまった姿を目の当たりにして、過ぎ去った年月の長さ、重さを感じずにはいられません。








Editor CABEZÓN


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