「ダメ教員は辞めさせる」は橋下氏が大阪府知事になって以降一貫して主張しています。橋下氏は大阪新市長になり、ダブル選圧勝という形で民意が示されたのだから、私の言うことには従ってもらう、教育についていえば、教職員に対して監視、管理、統制、競争を強め、「ダメな教員」を辞めさせ、「ダメな学校」をつぶしていくという姿勢を露骨にしています。19日橋下氏の就任記者会見では公務員について「面従腹背大歓迎」とまで言い、イヤでも従え、さもなくば辞めろという態度で臨んでいます。
12月14日の報道ステーションでは、古館氏との間で以下のような会話を交わしました。
橋下「府教育委員は総辞職すると言っていたが、選挙結果がでたら、修正に応じると言い出した。民意こそが事態を動かしたのだ。」
古館「民意、民意というが、何をやってもいいという危険性を感じる」
橋下「条例案まずありきではない。話し合いながらやっていくつもりだ」
古館「では、S、A、B、C、Dにこだわらないということか」
橋下「それはそうだ。しかし優秀な人材をとらなければならない」
古館「一見ダメかなと思った先生でも効能がある。勉強以外でも子どもにとってはよく相談できるいい先生だったりする。成績がよくないかもしれないが、そういう子どもでも輝いている部分がある。条例はそういう子をきりすててしまうんじゃないか。」
橋下「競争が大事だ。古館さんも競争で今の地位を築いたんでしょう」
古館「競争と集中だけでなく分散も必要だ」
橋下「子どもは守る。しかし教員と学校は競争させる」
橋下氏は、「民意」をことさら強調し、子どもを守ると言いながら教職員と学校は徹底して管理・競争させ、劣位の部分は切り捨てていくというところは譲りませんでした。
このような橋下氏の姿勢と教育基本条例に対して、大阪からだけでなく各地から懸念する声が上がっています。
※各地で教育基本条例反対の声(リブインピースブログ)
http://blog.goo.ne.jp/liveinpeace_925/e/b78dd8d393f7675d3e95c2a08149291e
私たちはこの間、シリーズ:「教育基本条例」の危険(現在出ているのは その一~十五)を進め、またアットカフェでの議論を繰り返していく中で、次のような意識が根強くあることが明らかになってきました。
①教育基本条例の言うような、服従と強制を伴うような政治介入はダメとしても、民意で選ばれた政権であれば教育への介入は許されるのではないか。むしろ望ましいのではないか。
このような考えは、学校教育と教員に対する不信と深く結びついており、
②教員に対してなんらかの規制は必要なのではないか。「問題教員」はなんとかしなければならないのではないか。
「問題教員」「ダメ教師」というのは、一人一人の教員の個性や人格を無視した、非常に不愉快な言葉です。しかしそれが知事・市長の公式発言の中で言われ、かつ広く意識されており、それが教育基本条例に対する支持とは言わないまでも受容を生み出している大きな根拠になっていると思われます。
この問題について本シリーズ(その五)(その六)では以下のように、教育とは「協働」といわれる集団的営みであり信頼関係が決定的に重要であること、「問題教員」だけを全体からとり出して個人攻撃で批判したり排除したりする考えはよくないということを主張しました。
おおよその論点は以下です。
a)教育において決定的なのは信頼関係、「協働」といわれる集団的営みであること、教員同士、校長と教員、生徒と教員、そして学校と保護者と、あらゆるレベルでの信頼関係が必要であること
b)ところが、現在の教員は子どもと接すること以外の事務作業に忙殺され、まともに教育を考える時間的余裕がないこと。現在の学校教育ではそのような行政による規制が問題であること。
c)その結果、教員で精神疾患の発症率が異常に高く、自殺に追い込まれる事例があとを絶たないこと。
d)愛知教育大学のアンケート結果から、「保護者との関係」「板書・発問・応答」「教科内容の知識」「学級指導・運営」「指導案作成」「子どもとのコミュニケーション」など新任教員が不安を感じているといるという調査結果があること。これらが出来ないことで「ダメ教師」とレッテルを貼るのではなく、教員を保護者、同僚、先輩らまわりのものが温かく見守る余裕をもつ必要があること。
e)「親からの不当な要求」というのもほとんどの場合誤解に基づくものであるが、学校が対応を誤ったことで不信を募らせ、信頼関係が崩れていくことがあること。また保護者からのクレームが来た場合、その教師の責任とするのではなく、学校ぐるみで対応して解決していかなければならないが、そのような余裕を学校から奪っていること。
f)本当に学校教育を豊かなものにしていくためには、教員を押さえつけ罰する発想ではなく、自由にものを考える条件作りこそが必要であること。このことは、ILO・ユネスコ「教員の地位に関する勧告」でも規定されていること
等々
※シリーズ:「教育基本条例」の危険(その六)
教職員間の信頼関係を根底から崩し、教員をつぶしてしまう
http://www.liveinpeace925.com/commentary/kyoiku_kihon_jorei6.htm
※シリーズ:「教育基本条例」の危険(その七)
教育基本条例は、"集団的営みとしての教育"を破壊する
http://www.liveinpeace925.com/commentary/kyoiku_kihon_jorei7.htm
その後、様々な論者が教育基本条例について発言し、“公教育への不信”、“問題教員の存在とそれへの保護者の不信”という課題で、多角的な視点から論じていることを知りました。
それらを一言で言えば、「問題教員」「ダメ教師」というのは、教職員を見下した、かつ非常にあいまいな言葉であり、さまざまな意味で社会的につくられた言葉であり、かりにその責任を問題にするとしても、学校教育や教員だけにその責任や解決をもとめることは困難であるということだと思います。
(つづく)
(ハンマー)